一本歯の高下駄

 昨日、清荒神清澄寺まで散歩しての帰り道、今時珍しい一本歯の高下駄で歩いている人を見かけた。今では下駄で歩いている人など、もう殆ど見かけないし、ましてや高下駄で、しかも一本歯とくれば、もう立派な絶滅機種なので、思わず懐かしく感じた。

 我々の若い頃は、日本ではまだ下駄が広く使われており、着物に下駄履きというのが日本の標準的な服装と言ってもよかった。背の低い下駄が普通で、広く愛用されていたが、高下駄は主として、雨の時や道路がぬかるんでいる時などに利用された。靴屋さんより下駄屋さんの方が多かったのではなかろうか。

 我々の行っていた旧制度の高校などでは、マント姿に高下駄姿が言わば制服のようなもので、四六時中そんな格好で巷を彷徨いていたものであった。あの下駄のカランコロンという足音の響きが、まるで青春のノスタルディアの如く思い出されてくる。

 高下駄も普通は、背の低い下駄同様、二枚歯であるが、鞍馬天狗の下駄が一枚歯であるように、一枚歯の高下駄は山歩き用で、山で修行した修験者などが履いていたと言われている。ただ、坂の登り下りには合理的であっても、歩くには少しばかり並行感覚を養う必要があるし、特に立ち止まるのには技術を要する。

 参道で見かけた人は、今時どういう人なのだろうか。一枚歯の高下駄にすっかり慣れているようで、普通にさっさと歩いて行く。どうも服装から見ても、僧侶でもなさそうだし、普通の人とも何処か少し変わっているようである。首から円盤状のあまり見かけない装飾首輪のようなものを首から垂らしている。何か宗教的なものも感じさせる雰囲気の人であった。

 私たちは歩くのが遅いので、忽ち追い抜いて先に降りて行ってしまったので、それきり忘れていた。

 ところが、電車に乗ってから、初めに座っていた所が混んで来たので、コロナの感染の危険も考えて、端の空いた座席へ移動したところ、すぐ前の座席に、その人が座っているではないか。嫌でも、じっとその人の足元を観察することとなった。

 ズボンの足首から出ている足は裸足で埃に塗れているが、どうも何か変である。全体が鉛色のような色彩をしているだけではない。足が何だか作り物のような感じがするのである。よく見てみると、足指が親指から小指まで長くまっすぐに綺麗に並んでいるのである。

 この頃の人は皆いつも靴を履くものだから、それに適応させられて、親指から小指に向かっていくほどに、指が横倒し気味になり、小指側の指が親指側の指の下方に押し込まれたような格好になっているのが普通となっているが、この人の足では、五本の指が親指と並行に並んで、小指まで、どれも真っ直ぐに伸び伸びとしているのである。

 この人がこれまでどういう生活をして来られたのかは分からないが、これは長期に亘って、靴を履くより下駄の生活が長く、そのために生まれながらの足指が、思う存分自由に成長してきたものと考えないわけにはいかない。

 そうとすると、この人の下駄は最近になって、健康か何かのために利用されるようになったようなものではなく。もう長年、ひょっとしたら、子供の時からずっと靴よりも、下駄を履き慣らして来られたのであろうと想像せざるを得ない。

 お寺のお坊さんとは少し雰囲気が違うようなので、何か山伏のような修験者にでも繋がるような人なのであろうか。それ以上の推測は出来ないが、思わぬ一本歯の高下駄に出くわして、懐かしさのあまり、つい色々の思い出を呼び起こしながら、興味深く観察させて貰い、楽しいひと時を持つことが出来たことを感謝している。