光陰矢の如し

 以前にこのBlogに「時間に追いつけない」と題して、歳を取るとともに、時間が悠々と流れてゆっくり出来るのではないかと思っていたのに、歳とともにそれとは逆に、時の流れは加速度がつくかのように速くなって行って、それについて行くのが大変だというようなことを書いたことがある。

 以来、もう七年近くになるが、最近では、その時よりも更に時間の経つのが速くなったような気がしてならない。私は朝日新聞を購読しているので、土曜日にはBeと称する付録がついてくるし、日曜には毎週必ず、朝日歌壇、俳壇が載っている。私はその中の戦争の歌や句を古くから記録しているので、仕事を止めた今でも、週末を見逃すことはない。

 毎朝テレビのラジオ体操もしているので、週日によってインストラクターが違い、第1体操か、第2体操かも日によって違うので、自然と曜日もわかる。そうした中で生活を送っていると、いつも感じるのは、「あれ昨日、朝日歌壇を書き写したのに」と思っていたのに、今日はもうラジオ体操で第一と第二の両方、木曜日ではないか。明日はもう金曜日、また週末かと驚かされてばかりである。

 何もしていないうちに、どうしてこう時間が速く過ぎていくのだろう。何も仕事をせず、同じような日々の繰り返しなので、時間の経過を早く感じることもあろうが、歳をとるとともに、その他にも、時の経過を促進している原因があるようだ。

 歳をとると、若い時よりも身近なことでは、返ってすることが多くなり、何をするにも時間がかかり、失敗も多くなるので、その確認作業が増え、やり直しも多くなったりすること等が、生活の効率を悪くして、時間ばかりが早く経ってしまうことになるのではなかろうか。

 歳をとると、日常生活で、することが多くなるのである。 老眼鏡や補聴器、入れ歯など小間物が増えるので、その手入れもしなければならないし、健康を保つためにしなければならないことも増える。散歩も必要だし、年並みのストレッチ運動、ラジオ体操などもしなければならない。口腔ケアや口の運動、喉の運動で、呼吸や嚥下にも気を配らねばならないし、ボケ防止には、数独などの知的ゲームも必要である。

 色々と、すれば良いことは増えるが、何をするにも動作が鈍くなるので、時間がかかる。トイレの回数も増えるし、時間もかかる。食事や入浴なども若い時のように、早く済ますという訳にはいかない。スマホやPCを扱うのも大変だし、何をするにも、失敗や確認、やり直しが多くなるので、、余分な時間を取られることになる。

 例えば朝起きて朝飯を食べるまでの行動を見てみよう。

 朝ベッドで目が覚める。起きようとする。起き上がるだけでもよっこらしょ、ベッドから出るにもよっこらしょ、立ち上がるにも、またどっこらしょと言わねば動けない。当然動作も遅い。

 パジャマを脱いで、シャツに着替えるにも時間がかかる。ズボンを履くにも、若い時のように、左右交互にさっと履くわけにはいかない。立って履くのが一番効率が良いが、途中での片足立ちが危なっかしいので、ベッドサイドに腰を下ろして、片方づつゆっくり履かねばならない。

 今日はどのシャツを着ようか、あれこれ考えて、一度着てみて、また着替える。ようやく起き上がったら、先ずする事は書斎のパソコンのスイッチを入れることにしている。

 パソコンが立ち上がるまでに効率よく、寝室や書斎の電気をつけたり消したり、入れ歯をはめたり、窓を開けたリするうに、計画はしているのだが、つい順番を間違えて、どこかで齟齬をきたしたりしてパソコンの前で待たねばならないことも起こる。

 パソコンでメールをチェックし、自分のブログを確かめたり、更新したりし、インスタグラムで孫の動静をチェック。TwitterやFBも覗いていると、すぐに時間が経ってしまう。パソコンの操作も我流なので、効率が悪く、間違いも多い。チェックしてやり直すのが常のこととなっている。

 時刻を見て、朝食の用意が出来た頃に、慌てて階段を降りてダイニングに向かう。と言っても、階段は手すりを持ち、壁に手をついたりして、一段一段を降りる。ところが時には、折角、食卓まで辿り着いてから、入れ歯を忘れたことに気がつく。

 入れ歯がなければどうにもならないので、2階まで取りに戻らねばならない。一段ごとに、よっこらしょと言って、もう一度階段を上がる。入れ歯を洗浄液から取り出して、水道水で洗い、水道栓をしっかり閉めて、再び階段を降りて、やっと朝食にありつけることになる。ようやく女房が用意してくれた朝飯にありつけるが、用心してゆっくり食べない、とむせたり、こぼしたりすることにもなると言った具合である。

 朝食がすんでも、朝刊を読むにも、老眼鏡をかけても読みづらいし、若い時のようにスラスラとはは行かず、時間がかかる。80歳から始めた自分なりのストレッチ体操とラジオ体操をするにも時間がいるし、済んだら一息つかねばならない。

 また、別の場面、散歩にでも出かける時のことを見てみよう。若い時と違い、ちょっとそこまで出かけるだけも、出かけるのに時間がかかる。服装を整えるだけでも暇がかかる。ついで持ち物を整える。メガネに老眼鏡、スマホに札入れ、定期入れ、鍵、マスクを確かめてから、靴にステッキ。皆、揃ってから靴を履いて、ステッキを持って玄関の電気を消して、やっと出発ということになる。

 スムースに行けばこれで良いが、時には電気を消し忘れた、小銭入れを忘れた、鍵がない、マスクを忘れた等、なかなか完璧とは行かないことが多い。折角靴を履いたのに、また脱いで、窓の戸締りのチェックに戻ったり。外へ出て鍵を閉めてから、忘れ物に築くことも歳をとれば多くなる。実際には問題がなかっても、ガスの栓を閉め忘れたのではないかと心配になり、再びキチンまで見に行かねばならなことも起こる。こんな無駄な行動でも、無駄な時間をどんどん消費することになる。

 日常生活の中で若い時と同じ行動をするだけでも、歳をとると、このように無駄とも言える時間を費やすことになるのである。何も特別なことをしなくとも、歳を取ると、しなければならないことが多くなる、動きが遅くなるので、時間がかかる。おまけに、確認や、やり直しのためにも時間を取られるので、その分、忙しく時間も無駄に費やされてしまうのである。そんなことも、歳をとると時間が早く過ぎて行ってしまう原因なのであろう。

 それに、老後になって必要になった時間として、睡眠時間をまるまる8時間は取らななければならなくなっただけでなく、その上にナップの時間も、卒寿過ぎでは必要になる。

 「光陰矢の如し」とはまるで近頃の私のように、年寄りの日常生活の感慨を示す言葉のようである。パソコンの前でじっとしているか、どっこらしょと言いながらヨタヨタ、バタバタと無駄な動きをしている毎日である。