光陰は矢より速し

 若い時から過去を振り返ってみた時には、いつも「光陰矢の如し」といわれる如くに、年月がいつしか経ってしまったことを感じたものだが、歳をとるとともに、時が経つのが、まるで加速度がついてくるかのように速くなる。

 歳をとると、若い時のように日々の新鮮な経験が少なくなり、毎日が同じようなことの繰り返しが多くなることや、歳とともに動作が緩慢になり、何をするにも若い時より時間がかかり、1日の内容が少なくなることなどが、時の経つのが速く感じられる原因ではないかなどと言われている。

 時の経過のスピードは歳とともに加速度がついてくるようで、90歳も過ぎると、もう急行列車にでも乗っているよう、光陰矢の如しよりももっと速く、恐ろしい程の速さで、あっという間に過ぎて行く。1日など瞬く間。1週間でも、昨日が日曜だったと思っていたら、気がついたらもう金曜日、明日はまた週末ということになる感じである。

 今年は殊にコロナが流行り出し、丁度どそれに一致するかのように、私は脊椎管狭窄症とかに罹り、あまり歩けなくなり、その両者が重なって、会合はなくなるし、遠くへは行けなくなるしで、仕事も辞めたので、嫌でも家にいることが多くなったせいか、時の経つのが余計に早くなったようである。

 毎朝ラジを体操をしているが、番組ののリーダーや内容が週日によって決まっているので、体操をする時に自然と週日を認識することになるのだが、体操をするたびに曜日の過ぎる速さに驚かされる。

 具体的に1日の出来事を書き出してみよう。歳をとって早寝早起きが普通になり、毎日4時前には目が醒めるようになり、起きれば、先ずはパソコンのスイッチを入れ、立ち上がる間に窓を開けたり、入れ歯を入れたりして、先ずはメールのチェック、内容を読んだり、返事を書いたりし、次いでFBやTwitterを開いたり読んだりしているうちに、忽ち5時近くになる。

 階下に降りていって朝食をとり、新聞を取り入れ、トイレを済ませば、もう6時前。テレビをつけて、腕立て伏せから始まる我流の筋トレ運動を始める。30〜40分かかるので、それが済むとラジオ体操の時間になる。

 6時35分にラジオ体操が終わると、新聞を読む。その日のトピックスや、関心のある記事、小説や論説などを読んでいる間に、小一時間ぐらい経ってしまう。

 それが終われば散歩の時間。夏は昼間は暑いので、この時間に行くことにしている。その日によって行く所を変えているが、多くは、近くを流れる猪名川の堤防や河川敷を歩き、おおよそ一時間から一時間半ぐらい費やすことが多い。

 家に戻って、少しゆっくりして、9時が朝のお茶の時間、それが済んで30分から1時間足らずナップを取り、その後、朝の続きのパソコンをいじっていたりすると、もう忽ち11時、昼食の時間となる。

 ゆっくり休んで、昼からもパソコンの前に座って、ブログを書いたり、撮ってきた写真のリタッチをして遊んだり、パソコンから離れて本を読んだり、大きな紙に自画像を書いたりしていると、いつの間にか時間が経ってしまって、もう夕方になる。5時には「ご飯だよ」との声がかかる。

 ビールなどを飲んで、ゆっくり食事をしていると、気がつけばもう6時半ぐらいにはなってしまう。テレビでニュースなど見ていると、もう7時が過ぎて寝る時間になる。こうして一日があっという間に消えてしまうのである。

 これが特別のことがない一日のおおよその経過である。この間に何処かへ出かけたり、誰かが訪ねて来たりすると、それに時間を取られて、ルーチンのことは省略されたり、変更されることになるが、最近はコロナのおかげで、出掛ける用事も減り、毎日が同じような内容になったので、余計に時の経つのが早く感じられるのであろう。

 時の経つのがこんなに速くなるのかと驚かされるばかりである。あまりの速さにめまいを感じる程で、それなら明日のためにもう早く寝ようということになり、余計に朝早くに起きてしまうことになってしまっているようである。