日本は民主主義国家か

 戦後に作られた民主的な憲法があり、選挙で国会議員が選ばれ、誰しも好きなことを言えるので、日本は民主主義国家だと思っている人が多いだろう。また、最近のバイデン大統領の呼びかけによるイギリスでのG7会合での共同声明でも、民主主義の国が一致して専制主義の中国に対抗して行くとして、日本も民主主義国家の仲間に加えてもらっている。

 しかし、ちょっと考えてみよう。本当に日本は民主主義国家だと言って良いのであろうか。日頃、民主主義だと言われており、選挙で国会議員を選んでおり、世間の常識に従って普通に暮らして居れば問題がないので、何となく民主主義国家だと思っている人が多いのではなかろうか。

 しかし、難しいことを考えなくとも、菅内閣のやり方を見ていただけでも、これが民主主義だろうかと疑問に思うことがいくらでもあるのではなかろうか。色々な国民がいて、色々な意見があり、それを聞いて、皆で色々意見を出し、それを聞いて政策を決めていくのが民主主義ではなかろうか。選挙で国会議員を選べば、あとは任せておけば良いのではなかろう。

 現実には、菅内閣はどうだろう。安倍内閣から受け継いだ菅首相が真っ先に言った言葉は「自助、共助、公助」である。公助は一番後で、国民は政府は当てにするなということであった。これだけで、国民主権の民主主義を目指す政権でないことがわかるではないか。

 その次に出て来たのが、学術会議会員の6名の任命拒否の問題であった。それについて、政府はその理由を全く言わない。任命されなかった人が訪ねても、政府として言わないことに決定したようである。

 政治は言葉で始まるものである。殊に、民主主義は言葉と言葉のすり合わせが行われて、その結果が揉まれて結論が出されるものである。それなのに政府は殊更、黙したままで、任命拒否のの理由を明らかにしない。説明がなければ、議論が始まらないし、結論も出ない。民主的な物事は始まらない。

 その後、今度はコロナ禍の中でのオリンピック開催についてである。コロナ流行の第4波に見舞われて、オリンピックがまた流行拡大の引き金になるのではとする国民の心配にもかかわらず、政府は既定路線の如くに強行開催を目指すばかりで、コロナの下での開催の危険については安全安心の大会を開くというだけで何の具体的な説明もしないままに、開催へ開催へと強引に押し進めようとしている。

 言葉のないまま、国民への説明がないままの、裏での強引な進め方なのである。これが民主主義と言えるのであろうか。民主主義的な議論、国民に対する説明などの言葉がないのである。一旦選挙で選ばれたら、全面的な委託であり、何をしても良いのではない。あくまでも主権者は投票した国民であり、国民と相談しながら政治を進めるのが民主主義であろう。

 昔は選挙による代議員制は共和主義とされ、民主主義とは言わなかったことも思い出すべきであろう。制度的にも死票の多い選挙制度の禁止や、国民の直接投票による代議制の補填、国会運営で多数による強行突破を止め、もっと議論を尽くすなどの改革をして、初めて民主主義に近づけるのではなかろうか。

 選挙による代議員制度の他にも、国民生活にとって関連の強い重要法案についての直接国民投票や、国民の意思表示であるデモや大衆行動も民主主義にとって不可欠な要素であるし、憲法裁判所、 憲法を超えた日米安保条約地位協定の問題が大きく立ちはだかっていることも忘れてはならない。