かってつんぼ

 歳をとれば、悪くなるのは目だけではない。誰しも、耳も少しづつ聞こえ難くなって来る。それでも、日常生活にはそれほど困らないし、テレビの音声も、遠くから聞くわけでないから、さして困らない。テレビの言葉をはっきり聞きたければ、近づけば良いだけである。

 ただ耳が悪いと、自分の声も聞こえが悪くなるためか、声が大きくなる老人がよくいるが、私の場合は自分では分かりにくいが、そんなこともなさそうだと自分で勝手に思っている。

 それでも音楽を聴いたりする時は、小さく絞り込むと高音が聴きづらいと思うことがあり。ボリュームを昔より上げていることが多いようである。

 二階にいると、階下に誰かが訪ねて来ても聞こえない時があったり、電話の音も、女房が対応してくれているから良いようなものの、女房の留守の時などには、電話の音がしているような気がして、電話機の側まで確かめに行った時には、もう切れてしまっているようなことも起こる。

 老人の難聴の場合は、聞こえ難いだけでなく、多くは中途半端なものなので、目の錯覚同様、聞き間違えが多くなることが問題となり易い。女房との会話でも、例えば「残高」が「ランダム」聞こえ、聴き直したり、時には、勝手に解釈して済ませてしまうことになる。

 それが「かってつんぼ」(勝手つんぼ、勝手聾)の始まりなのであろう。聞き取り難かったことは、自分に都合の良いように理解し、解釈するが、都合の悪そうなことは聞こえなかったことにすることになる。

 脳の中枢は入ってきた音の情報を瞬時に総合して判断するので、入って来た個々の情報の中に誤りがあると、その誤った情報も含めて総合的に判断するので、意味不明と取られることもあるが、過去の記憶と照らし合わせて、自分に都合の良いように、歪曲されて判断されることにもなりかねないわけである。

 従って「かってつんぼ」の方から言えば、聞こえ難かった言葉が判断し難かったので、聞こえなかったことにしたり、自分の都合の良いように解釈したりしている訳であり、必ずしも、老人が意図的に歪曲して判断している訳ではないことも理解して欲しいものである。

 最近、テレビのコマーシャルで「出前館出前館」と繰り返し歌うコマーシャルをやっていたが、それがどうしても「狭いから、狭いから」と聞こえて仕方がない。出前物なので「あつ、あつ」と続くのだが「狭いから、狭いから、あつ、あつ」だということになる。

 広告主には悪いが、私はいつも、「狭いから狭いから、暑、暑。狭いから、狭いから、我慢しろ」と勝手に変えて聞いている。赤い法被のような派手な着物を着た男が繰り返し歌うのだが、何度聞いても何の広告か未だに知らない。ただ、「狭いから狭いから我慢しろ」と繰り返しているような気がしてならない。