科学の人種主義

 

 私の子供の頃には、子供向けの科学雑誌などにも、人種間の身体の違いについて書かれたものが多かった。その頃はまだ日常の生活で外国人を見る機会もそれほど多くなかったので、珍しいらしもの見たさに、結構興味を持って見たり読んだりしたものであった。

 当時はまだ西洋の白人、東洋の日本人、支那人、インド人、南洋の土人、台湾の蛮族、アフリカの黒人、アマゾンの未開人などの区別が色々と話され、それぞれの体も生活に適応して、日光の少ないヨーロッパなどでは肌が白く、アフリカのように太陽のきついところでは黒いのだとか、アフリカ人はもっぱら狩猟民族なので、早く走れなければならないので、足が長くなったが、アジアの農耕民族では手足が短いのだなどとの説明を受けた。

 また、頭蓋骨では、横顔で、頭頂部と顎を結ぶ線と、上顎部の先端と下顎骨の付け根だったかを結ぶ線とのなす角度を何とかと言って、猿から人間に発達するにつれて大きくなっていくが、同じ人間でも、黒人より白人の方が大きいことが図解されていて、白人が人間の中で一番進化していることを暗に誇示しているようなものがあった。子供だったもので、そんなものかと思わさせられたが、もっと他の計測をしてみたらどうなのだろうかと思ったりしたものであった。

 その後、大人になって医者になってから、1960年頃、アメリカの医学雑誌を見ていて驚かされたことは、日本とは違い、やたらと白人と黒人を比較した成績が沢山載っていることであった。当時でも、アメリカでは論文発表の競争が激しかったので、取っ付き易い人種の外見上の違いを取り上げて、比較して見たのかなと考えても見たが、それらの成績はどれを見てみても、その殆どがあまり差がないようなもので、どうしてこんな詰まらないことをするのかと訝しがったものであった。 

 日本では考えられないが、当時の白人の頭には人種差別が染み込んでいるので、無意識的にでも、科学的にも人種差を明らかにして、白人の優位性を示したいという心情からきているもののようであった。アメリカでは人々は人種によって別々に住んでおり、人種の坩堝ではなく、ミックスド・サラダといったほうが良いといった社会の事情が人種差別をより鮮明にしているのであろう。

 このような人種間の優劣を証明したい人々、人種主義者によって、科学は利用され続けてきた。しかも人種主義者は多くの場合、より大きな権力や財力を手にしており、自分たちが属すると信じる「人種」の優位を科学の装いの下で主張することによって、他の集団への支配や迫害、殺戮を正当化しようとしてきたのである。

 植民者が先住民を、奴隷所有者が奴隷を、ナチスユダヤを、カースト上位者が低位者を、白人が黒人を正当化するために生物学的な優越性を主張することによって、他の集団への支配や迫害、殺戮を正当化してきたことは歴史が示している。

 確かに人類は長い歴史の間に遺伝的にも環境からも多様に分化してきており、遺伝的な違いによってアフリカ人には鎌状赤血球症が多く、嚢胞性線維症はヨーロッパ系の人に多いなどということも知られているが、人種の定義は世界各地で異なっており、多くの比較で、集団内の差異は集団間のそれよりもずっと大きいのが普通で、人種間の比較は多くの場合徒労に終わっている。「人種」とは単に恣意的に貼られた粗雑なレッテルに過ぎないのである。

 最近は遺伝学の進歩により、遺伝情報にもとづいて特定の集団を他と識別したり,個人を特定の集団に分類したりすることも可能であるが、そのような遺伝的な類似性に基づいて分けた人類集団は,現在広く使われている人種のグループ分けとは必ずしも一致するとは限らない。人種や遺伝学的なグループ分けが特定な病気にかかりやすいとか、薬の効きが良いと言ったこともわかってきているが、これらの分類ははどれも人々の優劣とは関係がない。

 人類はどのように分類してみても、それぞれに多様で、社会への適応を見ても、それぞれに長所も短所もあり、多様性が恒久的な優劣に結びつくものではないことが科学的にも次第に明らかになって来ているのではなかろうか。