ALSの女性の「安楽死」

 私の誕生日である七月二十四日の新聞の一面に、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性の安楽死で医師が二人逮捕されたことが出ていた。

 過去にも何回か、終末期医療を巡って、安楽死が問題になったことがあり、今回はどういうことかなと思って見たところ、今回の事件は終末期の医療ではなく、ALSで死を望んだ女性とネットで相談した、主治医でもない遠方の医師が、女性の所に訪れて、薬物を投与して死に至らしめたもので、嘱託殺人の疑いで逮捕されたものである。

 ALSの女性は自分を「惨めだ」「これ以上生きたくない」と言っていたようで、ネットで知り合った医師に相談し、何度かのやりとりの上で、「苦痛なく死なせることが出来る」と聞いて安楽死を依頼したもののようである。

 宮城県でクリニックを営む医師と東京都居住の医師が、二人で京都の女性宅を訪れ、介護人に席を外させて、女性と面談し、僅か10分余り滞在しただけで、二人が帰った後に、女性の容態が急変して死亡したということらしい。

 詳しいことはまだ分からないが、どうもこのケースは、主治医が死の迫った患者の苦痛を知り、最終的な決断で安楽死の道を選んだという、これまでのケースとは少し違うようである。当然、過去の東海大学大学事件(1992年)の裁判の判決で言われた安楽死の要件を満たすものではない。

 絶望的な未来に直面してしまったALSの人の苦しみは「どんなに辛い症状でも、生きることを否定してはいけない」という第三者の言葉で納得出来るような簡単なものではないことはよく分かる。この女性はブログに「海外で安楽死を受けることを望んでいる」と書いていたそうである。安楽死を認めている国もあるぐらいで、安楽死尊厳死などについては、それはそれとして、もっと議論がなされるべきであろう。

 しかし、今回の事件は、それとは少し違うようである。自分の死は生と同じく本質的には自分で決めるべきものであろう。しかし、社会的には、人の生命は極端まで支えるべきである。ALSである参議院議員の船後靖彦もいうように、「死の権利」よりも「生きる権利」を守る社会にしていくことが何よりも大切である。少なくとも、難病患者に「生きたい」と言い難くさせるようなことがあってはならない。

 難病に侵されたりした人が「死にたい」と考えることがあることは理解出来るし、その心情に共感することは大事である、しかし、社会はそういう人たちに対しても、あらゆる手段を講じて「生きたい」と思えるように支えるのが、人間社会のあるべき姿であろう。

 そう考えると、今回のケースはそこからは明らかに外れている。嘱託殺人と言われても仕方がない。新聞によれば、この医師は過去に厚生省の医務官を7年ばかり勤めていたようで、或いは、政策的な集団を対象とした健康や死の取り扱いに慣れて、個々の人間の尊厳に対する謙虚さが薄れ、優生学的な思想に傾いたことが関係しているのかも知れない。死亡した女性に死期が迫っていたとは言えないし、SNS で意思の疎通は付いていたとしても、直接の面接は初めてだったのである。伝えられる情報に間違いがなければ、これは明らかに優生思想にもとずく殺人行為である。

 かっての「やまゆり園事件」の犯人の「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させれば世界平和に繋がる」という優生思想に共通したものを感じないわけにはいかない。

 麻生大臣の老人につての発言「死にたいと思っても『生きられますから』なんて生かされたんじゃかなわない。さっさと死ねるようにしてもらわないと」とか、「90になって老後が心配とか言っている人がいるが、『お前いつまで生きているつもりだ』」という発言でも分かるように、この資本主義の競争社会では、つい知らず知らずにでも、命の選別、優生思想が顔を出してくる。

 また、SNSで見ると、人気バンドの歌手である野田洋次郎が「大谷翔平選手や藤井聡太棋士芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思っている」というのもあるそうで、これはまさに恐るべきナチスと同じ考えであり、優生思想が案外広がっているのかも知れない。

 いかなる人も、他人を死に追いやることは許されない。どんな人の命も価値に変わりなく、全ての命が同様に尊重されるのが、本来の人間社会のあるべき姿であることを認識することが重要である。ALSの女性の嘱託安楽死の記事を読んで感じたことである。

補遺:石原慎太郎氏がこの事件についてSNSに書いている。優生思想は競争社会では捨て去れないのであろうか。

f:id:drfridge:20200728153106j:plain