時の経ち方

 いつか、このブログにも歳をとると時の経つのが速くなることについて書いたが、最近の出来事ほど時間の経過が速く、過去へ遡れば遡るほど時間が長く感じられるようである。

 客観的な時の流れる速さは永遠に変わらないが、主観的な時の経ち方は時と場合によって、随分と違って感じられるものである。一般に、過去の時間が短く、先の時間の長いことは、子供の頃の「もういくつ寝たらお正月」という歌でもわかるように、期待の大きなものは待ち遠しくて仲々やって来なかったものである。

 もっと長い人生について見ても、子供の頃の時間と老人の時間では、随分と時の経ち方が違うようである。子供の頃は学校から帰って、ランドセルを放り出して遊びに出て、散々遊んで、やっと日が暮れる感じだったのが、老人になると朝起きて朝飯を食い、ゴソゴソしている間にすぐに昼食の時間が来、昼寝をしたり、少し散歩をしたりしていると忽ち日が暮れて1日が終わってしまうこととなる。

 毎日、日記をつけているが、つい書き忘れて、気が付けば、忽ち2〜3日過ぎてしまっており、一昨日何をしたか思い出せなくて困ることになる。何処かへ行った日がつい昨日かと思っていたら、もう1週間も前のことになっている。80歳から90歳までの10年間などあっという間に過ぎてしまい、周りにいた友人たちもあらかた死んでしまった。

 東日本大震災の時にテレビを見ていて、原子炉が爆発してもう日本は終わりかと思ったり、津波に追われて先に山の上に逃げた人が、後から登ってくる人に、必死に「早く、早く」と叫んでいたのを見たのも、つい昨日のことのようである。今も頭の中には、はっきりとその映像が残っているのに、実はもう9年も前のことなのである。

 阪神大震災で、三宮の商店街が潰れ、ビルが倒壊し、生田神社の鳥居が倒れたのを見たのも、その前年にカリフォルニアの地震があり、その直前に生まれた孫がもう25歳になるのだから、つい昨日のことのように思えても、もう4分の1世紀も昔のことなのである。

 それに対して、子供の頃の時間は長かった。私が子供の頃には、東郷平八郎の写真が居間にあったし、乃木大将や広瀬中佐などの日露戦争の話をよく聞かされた。また、関東大震災の時に大勢の人が被服廠趾で焼死したとか、浅草の十二階が倒壊したとかの話を聞かされたし、東海道線で東京へ行った時も、丹那トンネルを超えると、震災の被害のために、どっしりとした昔からの農家の建物でなく、バラックのような建物ばかりなのだと説明されたりしたものだった。しかし、いづれも自分が生まれるよりも前のことで、自分には関係のない、随分昔の出来事だと思っていた。ましてや、明治維新などとなると、遥か彼方の歴史上の出来事としか思えなかった。

 ところが、暦の年代を見れば、日露戦争は1905年、第一次世界大戦の終了が1918年。明治維新でさえも1868年と、未だ百年も経っていない過去の出来事であった。関東大震災となると1923年なので、私が生まれるより僅か5年前のことに過ぎなかったのである。東日本大震災からでさえもう9年も経つのである。私が子供の頃には、まだ人々が噂をしていたのも当然であったわけである。

 我々の世代には第二次世界戦争と敗戦、大日本帝国の消滅いう大きな試練をくぐり抜けなければならなかった運命があったので、戦前と戦後ではっきりと歴史に線が引かれてしまっているので、それによって時間感覚も変えられてしまっている向きもあり、それが戦前は遠く、戦後は近い今に続く歴史になっている面もあるのであろう。

 60代の時、何かの話を頼まれた機会に知ったのだが、丁度その時が敗戦から40年後に当たっていたが、振り返ってみると、日露戦争から敗戦までも40年と丁度同じなのを知って驚かされたことがあった。日露戦争は遥か昔の話だと思っていたのに対して、敗戦から40年というのは私にとっては、まだまだ戦争の影が色濃く残っていた身近なことだったからである。

 自分に関係の深い事柄はいつまでも忘れ難く付き纏うのに対して、関係が薄くなる程、距離が自然と遠くなり、それに纏わる時間の感覚も遠くなって行くものらしい。そうとすれば歳をとって次第に時間の経過に加速度がついていくのも、老人が次第に娑婆を離れてあの世の飛んでいく過程の表れなのかも知れない。