本田勝一氏の「中国の旅」を読んで

  たまたま古本で本田勝一氏の「中国の旅」(朝日新聞社刊、1971年発行)を読んだ。丁度「ピンポン外交」と言われて戦後の日中の外交関係がようやく始まりかけた頃の記録であるが、本田氏の旅の目的は戦争中の日本軍の行動を、中国側の視点から明らかにすることであった。

 この時点で日本軍による中国侵略の被害者がまだ生存している間に実際に現地に赴いて具体的な事実を知ろうとしたのには、著者によれば以下のような理由があった由である。

 戦後その時までほとんで日中国交は断絶状態が続き、日本政府は中国を侵略した過去について一度も公式態度を表明したことがなく、中国人が千何百万人も殺されたことを一般の日本人が具体的に知らない状態が続いていたことが背景にある。

 そして「広島や長崎」はもちろん、東京や大阪を始めとする全国の空襲による被害の告発、記録運動が盛んに行われているが、戦争の惨禍を理解するには、被害だけでなく、日本軍による侵略戦争における加害者としての記録も重要で、それがないと、片手落ちで戦争の被害やその残酷さについても正しく理解出来ない。

 さらに日本人が侵略の歴史を知らないことを利用して歴史の歯車を逆転させようとする勢力が台頭し、中国人にも「日本軍国主義復活」を危惧せしめている状況が見られていることにも対処しなければならない。。

 このようなことを踏まえて、中国側の助けも借り、中国の東北地方から、北京、南京、上海その他各地を回り、それぞれの場所で日本軍による中国人の虐殺などの現場を訪ね、生き残った人たちからの証言を集めた本を作られたものである。

 内容にはいちいち具体的な証言がそのまま記録されており、多くの写真も添えられていて、読むだけでもあまりの残酷さに先へ進むのを躊躇せざるをえないぐらいであるが、どの話も1931年から1945年に至る15年の間の戦時の出来事の記録である。それぞれ現場で具体的な残虐行為の証拠である語り手の傷跡などとともに語られており、多少の誇張があるとしても、とても事実を否定することの出来ない証拠と認めざるをえないことばかりである。

 あまり残酷な話ばかりで、おそらく今の若い人が読むと「いくらなんでもこんなことがありえたとは思えない」と言うのではなかろうかとさえ思うが、私のようなその時代を生きてきた者にとっては、当時の時代感覚や実体験としてのの当時の日常生活の記憶と照らして、なるほどこんな悪いこと、残虐なことをしていたのだなと相槌を打つことばかりなのである。

 というのも当時の日本軍は今では考えられないぐらい野蛮な軍隊であったことを覚えているからである。徴兵検査で集められた初年兵が古参の兵隊にどれだけ意味もなく殴られいじめられたことか。戦地へ行けば殺して犯して略奪してもむしろ自慢になるような風潮であった。徴兵される前には男にならしてやれと先輩たちが女郎屋へ連れて行くのが普通の世の中でもあった。

 戦地へ行った初年兵を戦争に慣れさせるためと称して、誰彼の区別なく近くの住民を拉致してきて柱に括り付け銃剣で刺して殺させるようなことまで平気で行われていたのである。当時の日本軍には人権などという思想はなく、中国人は同じ人間ではなく、支那人でありチャンコロであり、敵兵でなくとも民間人でもチャンコロであり、ゲリラであり、場合によっては匪賊や馬賊であったりしたのである。

 日本軍の作戦ではは「現地調達」ということが盛んに言われ、補給を軽んじて何でも占領地で調達しろということだったので、どこかの街や村を占領でもすると、駐屯地を維持するためには付近住民を襲い食料を奪い女を犯すのが当然とされていた。

 それも広大な土地では全てを占領することが出来ないので、敵の反攻を防ぎ退路を確保するために三光作戦と称する殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くすという焦土戦ないし殲滅作戦が各所で行われ、多くの殺した死骸を埋めた万人坑と言われるものさえ出来たようである。

 私自身がこれらを見たり確かめたりしたことはないが、その頃は日本軍が連戦連勝で、子供達は上海や南京、漢口などを占領するごとに地図に日の丸を立てて喜んでいた頃で、戦争から帰った兵隊たちも帰国した安堵感も手伝って、戦地の自分たちの非日常的な経験を話さなければ気が済まなかったのであろう。

 そんな彼らの得意になって喋った話から、部落の焼き討ちや女の強姦、敵兵の銃殺、処刑、日本刀による惨殺などが自慢話しとして子供にまで聞かされ、当時はそれが日常の当たり前の生活の一部であったとも言えるようなものであった。私が彼らの話から最初に覚えた中国語が「クーニャン・ライライ」であったことも示唆的である。兵隊は一銭五厘の切手代だけでいくらでも集まるが、馬はそうはいかないので兵隊より貴重なものだというのもその頃聞かされた話であった。

 南京大虐殺事件でも、本に書かれているような話がなかったなどとは思えないのは、その頃は自慢話のように語られていた百人斬り競争の話が得意顔で新聞に載っていたのを見たし、揚子江?に死体があまり沢山浮いていて、それがスクリュウに絡んで船が動かないという苦情が海軍から陸軍へ送られたとかいう話なども自慢話として聞かされていたからである。

 そういう聞き覚えの記憶や、当時の報道、この本に見られる証言などを照らし合わせると、正確な人数はわからなくとも、とてつもない大虐殺があった事実は否定しえないであろう。当時は「便衣隊」という言葉もあり、子供には詳しいことはわからなかったが、抵抗運動を恐れて兵隊でない一般住民をもこう呼んで敵とみなして虐殺の対象にしたものであろう。

 こういう負の歴史のあった事実をももっと多くの日本人に知ってもらいたいものである。日本人が広島や長崎の悲劇を後世にまで伝えたいと思うのと同じように、同じ人間である中国の人たちが日本軍による残虐行為を後世にまで伝えなければならないと思うのは当然であろう。どちらも、いつまでも加害者を恨むためではなく、相互の和解と末永い友好を築くために、歴史を正しく認めることが基礎となるからである。

 韓国の慰安婦問題もなかったことにしてしまうのではなく、河野談話で日本も認めているとおり、多くの女性が戦場に連れて行かれ残酷な運命を背負わされたことは事実であり、それを忘れてはいけない。

 人は過ちを犯すものであり、過去の罪は決して消えない。嫌なことでもあった事実を否定することは出来ない。罪を認めて新たに出直さねば同じ過ちを繰り返すことになりかねない。野蛮だった大日本帝国とその罪を認めて再出発するのでなければこの国の将来はないであろう。