空一面から火が降ってくる

 こんなことはもう二度と見れないし、見たくない。もう二度とあってはならないことである。何のことかと言えば、戦争中に起きたアメリカ軍のB29爆撃機による1945年3月13日夜の大阪大空襲である。

 戦後もう75年も経ってしまい、今や戦争体験者も少数となり、世情は再び次第に戦前の空気に似てきてもいる。あれほど「過ちは二度と繰り返しません」と皆が誓ったのに、それすら忘れられて、再び陰鬱なファシズムの影が忍び寄りつつあるので、ここらで私の戦争体験談を書いておきたい。何かの参考にでもなれば幸いである。

 当時、私は大阪の天王寺駅の近くに住んでいた。戦局は日々に悪化しつつあり、アメリカ軍は南方の太平洋の島々から、フイリッピンを占領し、次いでは台湾、沖縄と南方からじわじわと日本列島を目指して北上しようとしていた。一方、サイパン島を占領してからは、日本本土を直接爆撃することが可能となったので、日本の大都市を空襲で破壊して戦力を潰すとともに、日本人の戦意を奪おうとしていた。

 その頃の日本は、大都会でも、殆どが木造の家屋で、それが密集していたので、火事には弱く、実際にも、度々火事を繰り返していた。そこで空襲対策として、貯水槽を掘ったり、家屋の間引きをしたり、防火演習をしたりもしていたが、これらの対策はいずれも何処か1ヶ所ぐらいの火事に対応するようなもので、多数の爆撃機による空襲のようなな同時多発の大規模な火災に対応出来るような対策は何もなかった。

 そのような事情を十分知った上で、アメリカ軍の日本本土の空襲は計画されたもので、一年でも一番乾燥していて燃えやすい春先を狙って、爆弾よりも軽くて大量に運べる焼夷弾を用いた焦土作戦が行われた。それに対して、当時は最早、日本の戦力は殆ど無に等しい状態で、アメリカ軍のなすがままに、日本の大都会が次々に焼き払われて行くのを傍観するよりない有様であった。

 一連の大空襲の始まりは、先ずはは3月8日の東京大空襲であった。次いで一日置いて10日が名古屋、更に13日が大阪、15日が神戸という順に日本の大都市が次から次へと一晩毎に焼け野が原になっていったのであった。

 従って今夜ぐらい、今度は大阪だろうという予測は立てられていた。案の定、夜になると「潮岬上空を敵大編隊が北上中」という警報があり、空襲警報のサイレンがなり、やがて間も無く、敵編隊が上空に現れ空襲が始まった。

 その時の焼夷弾による空襲がどのようなものであったか。現在の戦争を知らない世代の人たちにとっては、想像も出来ないことであろう。爆撃機から次々と落とされた焼夷弾の束が空中でバラバラになり、燃えながら空から降ってくるのである。それはあちこちに降ってくるというようなものでなく、空中見渡す限り、空一面から燃えた火が降ってくるのである。見渡す限り空一面に花火が上がっているようなものとでも言えようか。

 あんな景色はもう二度と見れない。シュルシュルシュルという音も聞こえた。空から一斉に火が降って来る。しかし、こちらはどうすることも出来ない。ただ呆然と見上げているだけである。そのうちに、塀の向うの隣家に火が落ちて燃え始めた。騒がしい声が聞こえていたが、そのうちに幸い消えたという声が聞こえて一瞬安心した。しかし、ここも後に隣からの類焼で燃えてしまった。

 と思えば、今度は裏のお寺の大きな伽藍に火がついて燃え出した。しかし、どうすることも出来ない。バケツで消せるような火事ではないし、塀の向こうにかなりの庭があってその向こうなので近づくことも出来ず、ただ見ているしかない。そのうちに屋根まで燃え広がり、真っ赤な炎の中で大黒柱が倒れ、お寺がすっかり燃え落ちるまで、ただ呆然と見ているだけであった。

 焼夷弾は幸い我が家には落ちなかったが、そのうちに数軒離れた南の家も燃え出し、駆け付けて来た警防団の人が「火に囲まれるから逃げて下さい」と言うので、毛布だけ被って、皆で家を出、すぐ近くの天王寺美術館の慶沢園の垣根をよじ登り、庭を通って美術館の地下へ避難した。

 美術館は少し高い所にあるので、周囲の見晴らしが効く。しばらく落ち着いてから、恐るおそる周囲を眺めてみると、四方が一面に燃えて、空まで赤くなっている。公園の北の外れの松屋町筋に近い所に、武道館だったかの大きな建物があったが、そこも燃えだし、燃え尽きるまで見ていた。四方全てが火の海で、まるで地獄絵を見ているようであった。

 しかし、我々は幸い美術館に逃げて、町の焼け落ちていく様を遠望していただけであったが、全面的な火災の中に巻き込まれていった人はどんなに苦労されたことであろうか。多くの人が焼け死に、家を失い、家族もバラバラに逃げ惑ったことであろう。それこそこの世の地獄だったに違いない。船場に住んでいた私に友人も焼け死んだ。その夜は一睡もしないで朝を迎えた。見渡す限り殆どの街が燃え尽きて、火は治まって来ていた。

 明るくなってきたので、家に帰ることにした。我が家ももう焼けてないのではと思って、そっと帰ってみると、なんと我が家は残っているではないか。ところが安堵したのも束の間、裏へ回ってみて驚いた。我が家を境として、そこから先は見渡す限りの焼け野が原である。全てがなくなってしまっている。

 天王寺五重塔もないし、唯一、上六の近鉄百貨店の鉄筋の建物だけが見える。我が家から上六までは天王寺西門前から椎寺町、上九を経て行くので、そこそこ距離があると思っていたが、それがすぐそこに見えるのである。あとは一面の焼け野で何もない。見渡す限りの褐色の焼け野が原の中に、あちこち焼け焦げた土蔵だけが寂しそうに残り、その間に、竃の残り火の様な赤い火がちょろちょろと燃えているのが見られた。

 南を見ると、8階建ての近鉄(当時は大鉄)百貨店の建物が見えたが、すっかり燃え尽くしたようで、焼けたビルのいくつも並んだ真黒な窓から、黒い焼けた煤が斜め上に走っていた。一晩で周りの姿がすっかり変わってしまい、その一面の焼け野が原の中で、ただ呆然とするよりなかった。神国である大日本帝国の聖戦を信じ、忠君愛国、滅私奉公、天皇陛下の御為には命を捨ててでもと頭から信じていた私であったが、いくら天佑神助があってもこんなことで、まだ戦争に勝てるのであろうかと思わざるを得なかった。

 最近の新聞で、空襲を経験した人が今でも花火が嫌いと言っている記事があったが、私も戦後長らく花火を近くで見ると、空襲を思い出すので、出来るだけ避けていた。まともに花火が観れるようになったのは、もう歳をとってからのことである。新聞記事にあった人も、花火大会に招待されたが、怖いのでずっと目を閉じていたら、「花火で寝ている人を初めて見た」と言われたそうである。

 これは決して避けられない天災ではない、人災である。中国などへの侵略戦争から始まった15年戦争の結末の一齣だったのである。こんな経験はやがて死に行く我々だけの記憶として、封印したいものである。これから生きていく人たちは、皆で努力して、何としてでも、こんな経験だけはしないで済むようにして欲しいものだとつくづく思う。