エレベーターで黙って「開」ボタン どうして

 何日か前のこと、朝日新聞を読んでいたら、「論の芽」という欄に、表題の見出しがあり、どういうことかと思って読んで、何か違和感を感じた。

 『エレベーターで知らない誰かと二人きりになった時、降りる階に着くと、黙って「開」ボタンを押してくれる人いませんか。無言で丁寧な「サービス」をしてくれることに、居心地の悪さを覚える』と書かれていた。記事に続けてあるように、『ジロジロみないで目を伏せたり、「開」ボタンを押したりする程度の距離感が日本文化なのでしょう』ということは納得できるが、私にはどうして居心地の悪さを感じるのか分からない。その人の親切心に素直に感謝すれば良いのではなかろうか。

 『そこまで配慮をする人は、きっと相手にもマナーある態度を求めているはずだ。相手がマナー違反だと判断すれば、今度は怒り出すのでは』と感じ、緊張するのが居心地の悪い原因かというのですが、そういう人もいるかも知れないが、通常はそこまで、想像する必要はないであろう。

 私はマンションのエレベーターなどであれば、そんな時、大抵は挨拶の声掛けぐらいはするし、街のビルのエレベーターなどの場合には、大抵は黙っているが、ボタンの近くに居れば、時には何階ですかと聞いてボタンを押すぐらいのことはしている。ビルのエレベータで、たまたま出くわした人たちに、内心で何を思われているか分からないと、不安や緊張感を感じたことはない。

 無言の配慮は周囲に伝わることを期待しているものではなく、むしろ自己満足であろう。イヤホーンをして一心にスマホを見つめている人は、周囲と断裂した個人の世界に没頭しているのが普通で、「他人が集まった密室」という場の緊張感を和らげようと配慮していることなど稀で、強いていうならば、孤独に逃げようとしているのであろう。

 それは兎も角、無言の配慮が周囲へ伝わるかどうかを気にするよりも、もっと気軽に他人に声をかけられる社会になれば良いということには賛成である。欧米人が知らない人と目があった時に、にっこりと微笑むのは自分はあなたの敵ではないことを示すサインだと誰かに聞いたが、目を伏せたり素知らぬ顔をして関係を断つ姿勢を示すより、和やかで平和的であり、お互いに気持ちが良いのではなかろうか。

 なおついでに言えば、最近発見したのだが、アジア人でも、ヒジャブを被ったマレイシア系統の女性?は、大抵目があったら、にっこり微笑み返すようである。日本人同士でも意識してにっこり微笑んだり、話しかけてみる文化を育てていってはどうであろうか。