これまでにも書いたことだが、自分が背が低いために背の高い人に劣等感を感じるためなのか、周りの人たちの背丈が気になる。
戦後、占領軍が来て、その巨体を見てびっくりし、こんな大きな奴らと戦争していたのか、これじゃ白兵戦ではどうやっても勝ち味ないなと思ったものであった。1960年過ぎにアメリカにいた時には、34歳だったのに、小柄なものだから、アルコールを買うのに年齢を尋ねられたし、コートを買おうと思ったら、サイズがなくて、子供売り場へ行けと言われたことがあった。
そうはいっても、私は日本の標準で行けば、我々の世代の中でも小さい方ではあったが、決して極端に低いわけではなく、身長約160㎝で、戦争末期であったとはいえ、軍隊の基準内にはいたし、私より背の低い者もまだ何人もいた。同じクラスの同窓生が何人か揃っている姿を見て、女房が「あなたぐらいの年代の人は大体皆このぐらいの背丈なのね」と言ったことがあった。
以前に書いたことがあるが、戦後間もない頃には、これでも満員の地下鉄に乗っても、周りが女性であれば、肩越し、時には頭越しにでも、周囲が見通すことが出来たものであったが、最近は女性でも背の高い人が増えたので、そんなわけにはいかない。ましてや、周りを男性に囲まれると、目が肩より下になり、見えるのは周囲の背中ばかりで、何も見通せないだけでなく、窒息しそうな感じさえする。
それでも、一頃は最近の若い人には背の高い人が多くなったなあと時々感心させられたものだが、そのうちにそれが一般化し、背の高いのが当たり前となり、そのうちに若い人ばかりでなく、世間一般が背の高い人ばかりになってしまった。白髪頭やハゲ頭の人までが皆、背が高くなってしまった感じである。
考えてみたらもう、戦後七十数年も経っているのである。戦後の団塊世代の人達がもはや高齢者の仲間に入ってきているのである。背の高い老人も増えてくるはずである。
その一方で、私のような昭和一桁の背の低い世代の人は、そろそろ寿命が来て次々といなくなるので、背の高い人の割合がなおさら増えていくことになる。まるで世代交代で、大人国の人たちに小人国の人たちが駆逐されていくようである。
我々の世代がまだ大勢いて、元気だった頃には、私と同じくらいの背丈の人も沢山いたので、日本にいて普通に暮らしておれば、日頃それほど背の高さを気にすることもなかったが、仲間が減り、次第に周りを背の高い人たちばかりに囲まれるようになると、いやでも背の高さを意識しないではおれなくなってくる。
長寿社会になったとはいえ、私の周囲を見ればいつしか仲間たちも次第に死んでしまい、もはや僅かしか残っていない。背の高い若い人ばかりに囲まれた世界になるわけである。このまま生きていけば、またアメリカにいた時のように体格の違いを感じながら暮らす日々になるのではなかろうか。
そのうちに電車のドアもマンションの天井も高くしないと頭をぶつける人が多くなるぞと言いたい。社会の標準がそうならないうちに、そっと寿命が切れることを期待した方が良さそうである。