80歳を超えてから時間にゆとりが出来たので、毎月一度は箕面の滝に行くことにしている。箕面は小学校の時に住んでいた馴染みの場所であり、箕面の駅から滝まで往復して5.8キロと距離も手頃で、渓流沿いの気持ちの良い道なので、朝早く散歩に行くのに丁度良いのである。
気候の良い季節には朝早くても結構来ている人がおり、最近は走っている人も増えた感じがする。出会う人ごとに「おはようございます」と挨拶を交わすのも楽しい。滝の前の広場では徒手体操やストレッチをしている人もいる。
それにさすが日本の滝だと思うのは、滝に着くと、滝に向かって手を合わせて拝む人がよく見られることである。私は戦後に神仏への信仰を捨てたが、未だに多くの日本人は昔ながらのアニミズム的?信仰を続けている人が多いのであろうか。
私の家の近くの神社は三つ角の奥にあるが、そこを通る人の中には角で少し離れた遠方の神社に頭を下げてお参りをしてから通り過ぎる人をよく見かける。たまたま私がその近くを通る時に角で頭を下げられると、まるで私に向かってお辞儀しているように見えて困惑することもある。
日本では神も仏も多分に一緒くただが、神様の方は教えの元となる経典のようなものもなく、自然のおそれに対するアニミズム的信仰の傾向が強く、ご神体といわれるものが山であったり滝であったり、大きな岩であったり、大木であったりすることも多い。自然に対する畏怖が神の根源であり、それがいつしか現世のご利益に頼る世俗的な神社信仰につながってきたもののようである。
従って、通りがかりの時の拝みは何を願うのでもなく、何となく敬うような感じで挨拶しておかねばといったぐらいの気持ちで、半ば習慣的にお辞儀をしているに過ぎないのではなかろうか。
そんな自然や神との関係で、滝に向かえば自然と滝に向かって頭を下げてお祈りする人が珍しくないのであろうか。そういう人の動作はそれなりに尊重してそっと見守るようにしているが、今朝滝の前で見た人は、それとは少し違い、滝の前で滝を背にして斜め横の方向に向かって手を合わせて拝んでいた。
初めはふと何を拝んでられるのかと思ったが、見ていると今度は直角に向きを変えてまた同じように手を合わせて頭を下げて拝んでられる。それでピンときた。四方拝なのだ。もうすっかり忘れていたが、子供の頃によく聞かされたし、やらされたこともあったのではなかろうか。
昔は天と地や、森羅万象の自然と、祖先を祀る行事として、正月や他の祭日などに広く行なわれていたが、戦前までは正月元旦の宮中行事ともなっていたものである。まずは北に向かって起立して北極星を拝み、次いで東、西、南、北と直角に角度を変えて拝み、最後に祖先の霊の眠る山に対してお参りすることになっているようである。
私には遥か昔の記憶が頭の片隅から蘇ってきてすぐ思い出されたが、六歳下の女房はもう知らないらしく、四方拝など今ではもう死語じゃないのという。無理もない。私にとっても戦後70年以上も一度も聞いたことがなかった言葉ではなかろうか。
最近は神社にお参りする若者も増えてきているようだが、神社でなくて、このような山や岩、滝やご神木などをご神体と見て手を合わせて拝んでられる人はどういう気持ちで拝んでおられるのであろうか。単に子供の時からの習慣で、いわば癖のように何とは無しに行なっているのだろうか。
あるいは素直に、それらを通して自然の偉大さに畏怖の念を感じられてのことであろうか。それは想像できても、それと、そこから派生してきた現世御利益的な神に対する感覚と、今の時代を生きる日々の感覚とをどのようにつないで調和させておられるのか、信仰を持たない私にとっては知りたい気がしてならない。
現世御利益ばかりを並べた神社やお寺の看板を見ているとどうしても信仰心とは結びつかない気がするのは私だけであろうか。