肩で風を切って歩こう

 歳をとって歩くのが遅くなり、昔は人を追い抜いて歩いていたのに、この頃は皆に追い抜かれてしまう。歩くのが遅くなっただけではない。疲れ易く、途中で何処かに腰を下ろさねば、長道を歩けなくなってしまった。

 そんな時に、先日SNSか何かで、理学療法士と思しき人が歩き方について話していることに興味を惹かれた。その方が言うには、人が走ったり歩いたりする時には足をを動かすだけではなく、腕も振っているでしょう。人は下肢も上肢も使って歩くようになっているのです。それを下肢だけで歩くと、それだけ効率が悪くなることになるのですと。

 腕も使って歩きましょうというのが趣旨であった。なるほど、周囲を見渡すと、老人は殆どの人が少し前屈みになって、上半身は殆ど動かさずに、足だけ動かして、とぼとぼと小幅で歩いている。杖をついたり、シルバーカーを押したりすると余計に前屈みになる。

 自分のことを考えても、いつも殆ど上半身を動かさずに、足のことばかり考えていたようである。良いことを聞いたと思って、早速試してみることにした。歩く時に意識的に両腕を動かして、腕を振って歩くようにしてみると、確かにその方が歩き易い気がする。

 前屈みになり勝ちな上体も真っ直ぐになり、自然と姿勢も良くなるし、肩で風を切るようで気持ちも良い。脚も多少軽くなったような気さえする。手を振るにも腕を後方に押しやるのが大事だという。そうすれば、実際に歩むスピードも増えるし、足も多少疲れ難いような感じもする。

 四つ足動物から進化した人間は立ち歩行になっても、上肢と下肢は連動してうまく歩けるようになっているもののようである。人は足だけで歩くものではなく、手足を使って歩くものらしい。老人も体を強ばらさず、両腕も振って、姿勢良く肩で風を切って堂々と歩くようにした方が歩き易いということのようである。

 老人たちよ、皆もっと肩で風を切って堂々と歩こうではありませんか。そうした方が楽に歩けて、老人の威厳も保たれようというものです。

 三代澤本寿の型絵染展

 

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グラゴルミサ・幻想

 染色の工芸などにはあまり興味がなかったので、二科展や国展などへ行っても、その部屋は一瞥して通り過ぎるようなことが多かった。

 それにも関わらず、今回わざわざこの方の型絵染めの展示会を見に行ったのは、新聞の紹介記事や写真を見て、まるでヨーロッパの宗教版画の

ようで、型絵染とは思えないような絵に惹かれて、実物を見てみたいと思ったからである。万博公園の中にある大阪日本民藝館でやっていたので、公園の散策も兼ねて出かけた。

 三代澤本寿、みよさわ・もとじゅと読むのだそうだが、長野県松本市の出身で、染色家として芹沢銈介の元で技法を学び、数々の優れた作品を手がけるとともに、柳宗悦を師と仰いで信州の民芸運動の普及にも多大な貢献を果たされた方だそうである。

 1960年代後半からは度々ヨーロッパや中東、中南米なども訪れ、異国の風景やクラシック音楽などもモチーフとして、多彩な魅力溢れた作品を生み出し、生き生きとした色と形に溢れた世界を表現したと言われている。

 実際に見ても、色々と大型の和紙の型絵染めの表現が多く並べられていたが、やはり写真にある本命の作品が一番魅力的であった。スラブ地域でのキリスト教の聖者を両側に配し、真ん中に九世紀後半のグラゴール文字が書かれた四曲一雙の屏風になっている。

 両聖人の光輪は雲母で輝き、文字はすべて繋がっている。また背景の細かいマチエールは染色後に落とす糊を残し、線状の傷を無数に刻み込み、石灰を混ぜた糊のざらついた質感と、ひび割れのように見える和紙の皺で出来ているそうである。

 何度振り返ってみても、型絵染とは思えない、中世の宗教的な版画を見る想いで、容易には立ち去り難かった。思わぬ拾い物をしたような感じで民芸館を辞したのであった。

 

 

女の方が男より強い

 新聞の夕刊に、働き盛り世代のコロナ死者の男女比が8対2と出ているのを見て驚いた。記事によると、東京都内で亡くなった新型コロナウイルスの50代以下の感染者は男性が8割だそうである。

 昔から感染症などに対する抵抗力は、女性の方が男性より強いと言われており、自然出産率は男の方が女より1割ぐらい多いが、男の方が女より余計に死ぬので、男女のバランスが上手く取れているのだと言われてきた。

 従って、コロナによる死亡率も当然男の方が女より多いだろうとは思ってきたが、8対2とは余りにもその差が強過ぎるので少し不審に思った。Googleで簡単に調べたところでは、新型コロナウイルスの感染者数は30代から60代で、男54.8%、女46%で、死亡数は男56%、女44%と出ていたので安心した。

 夕刊の記事の数がどこに由来するのか知れないが、そこまで酷い男女差は特殊なグループについてのことであろうか。それにしても、男の方が女より死亡率が高いのは確かで、これはコロナに限ったことではない。SARS でも死亡率は男が女の1.7倍だったし、MARSでの死亡率も、男52%に対し女は23%であったと言われる。コロナでICUの収容された人数も、男が女の1.39倍と記録されているようである。

 これは日本に限ったことではなく、中国でもコロナによる死亡率は男2.8%、女1.7%、イタリアでも男10.6%と女6%となっているようである。男が女より多いのは1918年のスペイン風邪の時もそうだったし、実験動物のマウスでもコロナウイルス感染後の死亡はオスがメスより多いそうである。

 その原因についてはいろいろ言われており、男性の方は喫煙率が高いとか、糖尿病や高血圧、肥満が多いからとか、血液凝固能が強いことなどが言われているが、その他にも、男の方が仕事人間が多く、ストレスを抱えているとか、我慢が美徳とか「たくましさ」を期待されているとか、「気持ちを他者に伝え難い」などの社会的、心理的要因なども挙げられている。

 8対2ほどの差はないにしても、一般に病気、殊に感染症に対する抵抗力は、性ホルモンや免疫機構の違いから、一見男の方が強そうに見えるが、女よりひ弱だと言えるようである。

 長生きするのも女性の方が男性より多いし、連れ合いに先に死なれた女性はこれでやれやれと元気になる人が多いが、男は連れ合いに死なれると意気消沈し、後を追うように亡くなる人が多い。

 子を産んで子孫を残すために、女性の方が生きながらえるように出来ているのであろうか。

 

千手観音の起源

 

 先日たまたま印度の仏像などを中心とした「アジアの女神たち」という展覧会を京都の龍谷美術館で見た。

 仏教はインドから中国を経て伝わって来たものと言われているが、昔、何処の美術館だったのか思い出せないが、インドから中東のかけてのアジアの仏像の集大成のようなものを見て感動したのを思いだした。

 日本の多くの仏像と比べて、その力強い大胆で躍動的な表現に圧倒されたものであった。多くが豊乳と臀部を強調し、性的な表現もあり、ギリシャ彫刻の影響もあるのか、リアルで生き生きとした印象が強かった。

 今回の展示では、日本の仏教や仏像との繋がりなどに主眼が置かれていたようで、インドや周辺地方からの仏像その他の展示はそれほど多くなく、日本の仏像などの展示も多く、相互の関連についての説明が詳しかった。

 その中で、私が興味を引かれたのはインドの多面多臂の女神像であった。インドの神様の名前は難しく一度見たり聞いたりだけでは覚えられないが、何でも、戦いの女神とかで、魔物を退治するその女神が多くの顔と腕を持っており、その多くの腕がそれぞれ違った武器を持っており、魔物を退治するのだが、魔物が殺されて地面が血で真っ赤に染まっている残酷な?絵などもあった。

 そして、その多臂(多腕)の由来について、その女神が悪者を退治してくれるというので、周囲の人々が次々に、色々な武器を提供してくれたのだそうで、多くの武器を使うには二本の腕では足らず、多臂になったのだということになっているようであった。

 日本で良く見られる千手観音 (千手千目観音自在菩薩の略称) については、あまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿と言われており、千は満数で、目と手はその慈悲と救済の働きの無量無辺なことを表わしていると説明されているのは周知のことである。

 ところが、仏教がインドから中国を経て伝わって来たとすれば、この千手観音も千手の発想などの起源は、やはりこのインドの女神に結びつくものではなかろうかと思われる。そうとすれば、インドから中国を経て、長い距離と時間をかけて伝わってくる間に、仏の教えも動的なものから静的なものへ変遷するとともに、戦いの神も平和な神へと変身していったのであろうと想像出来て興味を唆られた。

 そういう思いで、千手観音像の千手(と言っても、多くは四十二の手であるが)の持ち物を見ると、宝戟(通常左手に持つ杖状のもので先端が三つに分かれた武器)宝鉤(先端が直角に曲がった棒状の武器)宝剣、宝弓、宝箭と言った結構多くの武器も持ってられるのである。

 これらの武器は恐らく衆生を悪から守るためというように説明されているのであろうが、これもインドの悪魔を退治する、多面多臂の戦争の女神が持った武器に由来するものではなかろうかと思われて興味深かった。

 

アイヌ人の思い出

 北海道に最近出来た「民族共生象徴空間ウポポイ」のことがSNNに載っていた。長年に亘って、大和民族に侵略され、土地を奪われ、生活や言葉まで奪われて、殆ど絶滅に近い状態にまで追い詰められたのが北海道のアイヌ民族である。

 征服者が絶対的な支配を確立し、徹底的に追い詰められた被征服民族が滅亡しかかると、今度は征服者が保護だの、共生だの、保存と言い出して良心の呵責を補おうとするのが世界の歴史での共通事項のようである。

 これまでどれだけ虐待され、追い詰められて、言語まで奪われ、民族の絶滅瀬戸際まで追い詰められたことか。挙げ句の果てに、やっと出来たのがこの施設で、アイヌ民族博物館、民族共生公園と慰霊施設からなっているようである。

 場所は古くからアイヌ人部落の見学の観光地となっていた白老町だそうである。今更の感が強いが、完全に消滅してしまう前に、保存という意味では、貴重な施設が出来たことが、多少なりとも過去の罪滅ぼしになれば幾らかは救われるであろうか。

 私とアイヌ人との繋がりと言えば、学生の時、1951年の夏休みに友人と二人で、1ヶ月ぐらいかけて北海道を廻った時の思い出がある。白老村には行かなかったが、阿寒湖へ行った時のことである。

 ある小さな宿屋に泊まった時、たまたま、その村の近くの家に泥棒が入り、捕まったことが、宿中で話題になっていた。その時に驚かされたのは宿の人たちが「犯人はアイヌではないが、アイヌの血が4分の1混じっている」と言っていたことである。

 当時は大阪でも、朝鮮人部落民に対する蔑視や偏見、差別が未だ強かったが、北海道でのアイヌ人に対する差別はさらに強く、敵対心に近いものすら感じられた。まさか本人がアイヌ人ではないのに、その血が4分の1混じっていると言う強い差別感に驚かざるを得なかった。

 その後、今度は阿寒湖へ行ったが、当時は湖畔で、観光客相手の木彫りの彫刻などを彫って、売っている店が2〜3あった。その内の一軒で、豊かな髭を蓄え、見るからにアイヌ人といった老人が木彫りの熊を掘っていたので、そこへ入って見物方々その老人と話をした。

「どこから来たのか」と問うので「大阪から」と答えると「私も大阪にも長いこといたことがあるが、大阪は良い所だった」と言うので、初めはお愛想で言っているのかと思ったが、「大阪のどこらにいたのか」と言う話になると「釜ヶ崎」と答えるので思わずびっくりした。

 どうして釜ヶ崎に住んでいて良い印象を持ったのか、あまりにも私の知る釜ヶ崎と違うので、何が良かったのだろうと怪訝に思ったが、その老人が説明してくれた。

 おそらく和人の進出で追い詰められて、北海道を出て出稼ぎに行かねばならなくなり、あちこち放浪して、釜ヶ崎にも住んだのであろうが、本人が良かったと言うのは「北海度では何処へ行っても『あいつはアイヌだ』と後ろ指刺されるが、大阪では誰もそんなことを言わない。皆同じように扱ってくれた」ということであった。

 大阪ではアイヌ人は滅多に見かけないし、釜ヶ崎では、誰しも自分の毎日の生活で一杯で、他人の出自などに構っている暇がなかったのであろう。それが大阪の良かった理由であったようである。

 その2ー3日前に捕まった泥棒の話と言い、この老人の話と言い、大阪などでは考えられない、北海道でのアイヌ人に対する、偏見や差別の強さに驚かされたものであった。

 あまりにも強烈な印象だったので、もう70年も昔のことなのに、今も鮮明に覚えている。その時、その老人から求めた木彫りの熊二匹と藁の敷物は今もなくさずに大切に持っている。

映画「梅切らぬバカ」

 

 「若手映画作家育成プロジェクト」に選出された映画作家、和島香太郎という人の映画。これまでも障害者の住まいの問題に接してきた人らしい。この映画では、古民家で占い業を営む山田珠子が、近隣住民との付き合いを避け、自閉症の息子・忠男とふたりで暮らしている話である。

 題目は植木の常識である「桜切るバカ、梅切らぬバカ」から来ている。庭に生える一本の梅の木は、忠男にとって亡き父親の象徴だったが、その枝は塀を越え、細い私道にまで乗り出している。私道の奥の隣家に越してきた里村茂は、通勤の妨げになる梅の木と、予測のつかない行動をする忠男を疎ましく思っていたが、妻の英子と息子の草太は、珠子の大らかな魅力に惹かれ密かに交流を育んでいくことになる。

 そうしたある日、忠男の通う作業所に呼び出された珠子は、知的障害者が共同生活を送るグループホームへの入居案内を受ける。自分がいなくなった後の忠男の人生を考え続けてきた珠子は悩んだ末に入居を決めるが、住み慣れた家を出た忠男は環境の変化に戸惑うばかり。

 ある晩、他の利用者とのいさかいをきっかけにホームを抜け出した忠男は、近隣住民を巻き込む厄介な“事件”に巻き込まれてしまう。それには里村の子供も絡み、珠子は忠男を再び家で一緒に暮らすことになると言うのがあら筋。

 自閉症の忠男と周辺の社会の軋轢や齟齬を極端に追い詰めるのではなく、平易に淡々と描いて終わっているの良い。簡単な解決策が見つかるわけでなく、見た者がどう見て、どう感じるかに委ねているようである。

 久し振りで見る加賀まりこの珠子も、自閉症の息子の忠男役も良かった。

 

合理化されたビジネスホテル

  先に書いたように、我が家の甲冑などの展示を見に犬山へ行って来た。以前だったら、日帰りで行くところだが、九十歳を超えては無理は禁物と考えて、犬山で一泊することにした。

 以前ならお城の近くの名鉄ホテルに泊まるところだが、丁度建て替え中とかでやっていない。仕方がないので何処に泊まろうかと思案したが、同じ名鉄観光の経営だとかいうビジネスホテルが、駅前にこの夏にオープンしたばかりなのを見付けて、そこに泊まることにした。

 名前からしてミューホテル犬山エクスペリエンスとか称して、新しいチェーンでの展開を考えているらしいビジネスはテルだったが、新しいだけに、建物の構造も運営もビジネス客用に徹底的に合理化して造られたと思われて興味深かった。

 観光やレジャーなどの用途でなく、ビジネス客だけを相手にするとすれば、それに徹すればそれなりの徹底した合理化が考えられるであろう。これまでにも、あちこちのビジネスホテルに泊まったこともあるが、多くは、普通のホテルを狭く安く凝縮したようなもので、それぞれに合理化の仕方に哲学があって面白かったが、次第に合理化も頂点に達して行くような気がする。

 このミューホテルは駅の真前の、これ以上には望めない立地条件に恵まれている。建物の構造も、これ以上は考えられないような合理的で単純な構造となっている。校舎のような横長の廊下一本で賄える構造で、一階は端にエントランスやレセプションルームがあり、一階はあとは殆どが管理部門や必須な設備などと、大浴場で占められ、2階から5階までが殆ど同じような構造の客室になっているらしく、外から見ると学校か会社の寮かのような感じである。

 そこに食堂棟が斜めにくっついており、食堂へはホテル内からそのまま行けるし、反対側からは、外部の客も受け入れられるようになっている。

 玄関から入ると、広いレセプションの空間になっており、受付や待合、売店などがあるが、受付は狭く若い女性が一人いるだけである。ただその前にかなり大きな機械が据え付けられており、宿泊の手続きなどは全てそれで済ますようのなっている。予約をして前払いを済ませておれば、必要事項を入力するだけで、部屋のカードから食事券、領収書まで全て出てくるようになっている。

 便利と言えば便利だが、ホテルについて受付の人に対面することもなく、機械の操作だけでは、慣れない者にとってはちょっと落ち着かないが、これからはこういうのが普通になっていくのではないだろうか。

 そのカードを持って、廊下を通り、エレベータ室の前のガラス戸でカードをかざせば扉が開き、中のエレベータに乗って部屋に向かい、カードをかざして部屋に入ることになる。

 部屋の中がまた合理的に出来ている。入ったすぐ横がトイレとバスなのはよくある通りだが、多くのビジネスホテルのように、窮屈なトイレ付きバスと違って、両者を分離し、バスはシャワーのみとして、トイレを少しばかりゆったりとさせている。

 シャワールームはその代わり、天井からの大きなシャワーと手持ちのシャワーを備え、少し豪華にしている。大浴場を備えたビジネスホテルなどでは、部屋の浴槽の利用率が少ないので、トイレとシャワーを分けたのは良かったと思う。

 トイレを出て反対側を向けば鏡と洗面台があり、それに続いてカウンターがあり、そのの下がタオル、夜着などの物入れ、上の方にはコーヒカップなど収納場所もある。コーヒを沸かしたり飲んだりすることも出来る。

 カウンターの奥がベッドになっているのも普通のパターンであるが、その奥の窓側のスペースは狭いが、壁にくっついた作り付けの椅子と、小机と自由な椅子が一脚あるが、固定した椅子の下が金庫とは驚かされた。

 ベッドの足元の壁面には、今時の大型のテレビが置かれ、勿論WiFiも使える。あとは、部屋の装飾は額も、花ひとつもないが、壁面が狭くて、大きなテレビが置かれているので寂しい感じはしない。

 仕事で来て、一泊するだけなら、まあまあ許せる範囲内ではなかろうか。中途半端な古いホテルより、新しいだけでも気持ち良く過ごすことが出来た。恐らく、運営も合理的に考えられており、スタッフも殆ど見かけなかったので、恐らく犬山ホテルに勤めていたという中年の男性の他は、殆ど非常勤職員で賄っているのではなかろうかと思われた。

 一般のシティホテルや観光地などのホテルでは、対面のサービスも大事であろうが、ビジネスホテルに徹すれば、今後はこのような益々合理化の進んだホテルが増えるのではなかろうか。