千手観音の起源

 

 先日たまたま印度の仏像などを中心とした「アジアの女神たち」という展覧会を京都の龍谷美術館で見た。

 仏教はインドから中国を経て伝わって来たものと言われているが、昔、何処の美術館だったのか思い出せないが、インドから中東のかけてのアジアの仏像の集大成のようなものを見て感動したのを思いだした。

 日本の多くの仏像と比べて、その力強い大胆で躍動的な表現に圧倒されたものであった。多くが豊乳と臀部を強調し、性的な表現もあり、ギリシャ彫刻の影響もあるのか、リアルで生き生きとした印象が強かった。

 今回の展示では、日本の仏教や仏像との繋がりなどに主眼が置かれていたようで、インドや周辺地方からの仏像その他の展示はそれほど多くなく、日本の仏像などの展示も多く、相互の関連についての説明が詳しかった。

 その中で、私が興味を引かれたのはインドの多面多臂の女神像であった。インドの神様の名前は難しく一度見たり聞いたりだけでは覚えられないが、何でも、戦いの女神とかで、魔物を退治するその女神が多くの顔と腕を持っており、その多くの腕がそれぞれ違った武器を持っており、魔物を退治するのだが、魔物が殺されて地面が血で真っ赤に染まっている残酷な?絵などもあった。

 そして、その多臂(多腕)の由来について、その女神が悪者を退治してくれるというので、周囲の人々が次々に、色々な武器を提供してくれたのだそうで、多くの武器を使うには二本の腕では足らず、多臂になったのだということになっているようであった。

 日本で良く見られる千手観音 (千手千目観音自在菩薩の略称) については、あまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿と言われており、千は満数で、目と手はその慈悲と救済の働きの無量無辺なことを表わしていると説明されているのは周知のことである。

 ところが、仏教がインドから中国を経て伝わって来たとすれば、この千手観音も千手の発想などの起源は、やはりこのインドの女神に結びつくものではなかろうかと思われる。そうとすれば、インドから中国を経て、長い距離と時間をかけて伝わってくる間に、仏の教えも動的なものから静的なものへ変遷するとともに、戦いの神も平和な神へと変身していったのであろうと想像出来て興味を唆られた。

 そういう思いで、千手観音像の千手(と言っても、多くは四十二の手であるが)の持ち物を見ると、宝戟(通常左手に持つ杖状のもので先端が三つに分かれた武器)宝鉤(先端が直角に曲がった棒状の武器)宝剣、宝弓、宝箭と言った結構多くの武器も持ってられるのである。

 これらの武器は恐らく衆生を悪から守るためというように説明されているのであろうが、これもインドの悪魔を退治する、多面多臂の戦争の女神が持った武器に由来するものではなかろうかと思われて興味深かった。