アイヌ人の思い出

 北海道に最近出来た「民族共生象徴空間ウポポイ」のことがSNNに載っていた。長年に亘って、大和民族に侵略され、土地を奪われ、生活や言葉まで奪われて、殆ど絶滅に近い状態にまで追い詰められたのが北海道のアイヌ民族である。

 征服者が絶対的な支配を確立し、徹底的に追い詰められた被征服民族が滅亡しかかると、今度は征服者が保護だの、共生だの、保存と言い出して良心の呵責を補おうとするのが世界の歴史での共通事項のようである。

 これまでどれだけ虐待され、追い詰められて、言語まで奪われ、民族の絶滅瀬戸際まで追い詰められたことか。挙げ句の果てに、やっと出来たのがこの施設で、アイヌ民族博物館、民族共生公園と慰霊施設からなっているようである。

 場所は古くからアイヌ人部落の見学の観光地となっていた白老町だそうである。今更の感が強いが、完全に消滅してしまう前に、保存という意味では、貴重な施設が出来たことが、多少なりとも過去の罪滅ぼしになれば幾らかは救われるであろうか。

 私とアイヌ人との繋がりと言えば、学生の時、1951年の夏休みに友人と二人で、1ヶ月ぐらいかけて北海道を廻った時の思い出がある。白老村には行かなかったが、阿寒湖へ行った時のことである。

 ある小さな宿屋に泊まった時、たまたま、その村の近くの家に泥棒が入り、捕まったことが、宿中で話題になっていた。その時に驚かされたのは宿の人たちが「犯人はアイヌではないが、アイヌの血が4分の1混じっている」と言っていたことである。

 当時は大阪でも、朝鮮人部落民に対する蔑視や偏見、差別が未だ強かったが、北海道でのアイヌ人に対する差別はさらに強く、敵対心に近いものすら感じられた。まさか本人がアイヌ人ではないのに、その血が4分の1混じっていると言う強い差別感に驚かざるを得なかった。

 その後、今度は阿寒湖へ行ったが、当時は湖畔で、観光客相手の木彫りの彫刻などを彫って、売っている店が2〜3あった。その内の一軒で、豊かな髭を蓄え、見るからにアイヌ人といった老人が木彫りの熊を掘っていたので、そこへ入って見物方々その老人と話をした。

「どこから来たのか」と問うので「大阪から」と答えると「私も大阪にも長いこといたことがあるが、大阪は良い所だった」と言うので、初めはお愛想で言っているのかと思ったが、「大阪のどこらにいたのか」と言う話になると「釜ヶ崎」と答えるので思わずびっくりした。

 どうして釜ヶ崎に住んでいて良い印象を持ったのか、あまりにも私の知る釜ヶ崎と違うので、何が良かったのだろうと怪訝に思ったが、その老人が説明してくれた。

 おそらく和人の進出で追い詰められて、北海道を出て出稼ぎに行かねばならなくなり、あちこち放浪して、釜ヶ崎にも住んだのであろうが、本人が良かったと言うのは「北海度では何処へ行っても『あいつはアイヌだ』と後ろ指刺されるが、大阪では誰もそんなことを言わない。皆同じように扱ってくれた」ということであった。

 大阪ではアイヌ人は滅多に見かけないし、釜ヶ崎では、誰しも自分の毎日の生活で一杯で、他人の出自などに構っている暇がなかったのであろう。それが大阪の良かった理由であったようである。

 その2ー3日前に捕まった泥棒の話と言い、この老人の話と言い、大阪などでは考えられない、北海道でのアイヌ人に対する、偏見や差別の強さに驚かされたものであった。

 あまりにも強烈な印象だったので、もう70年も昔のことなのに、今も鮮明に覚えている。その時、その老人から求めた木彫りの熊二匹と藁の敷物は今もなくさずに大切に持っている。