昭和20年の私家版「盡忠会会報」

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 先の大戦末期の昭和20年の1月から3月までの間に、自分で勝手に作った「盡忠会会報」なるものが、古い未整理のガラクタの中から出てきた。

 2月1日号が創刊号で、3月の大阪大空襲の直前の3月11日号まで、旬刊として出されている。と言っても、自分で書いて、兄弟で回し読みしたぐらいの手書きのものである。

 戦争中で、私は中学4年生、戦争のためにもう学業はなく、学徒動員と言って、毎日工場へ行って、飛行機の燃料タンクの成形のようなことをしていた。しかし、材料は不足し勝ちで、仕事も遅れ勝ち、折角動員されても、中学生などあまり当てにもされていなかった。

 その上、私は20年の4月から海軍兵学校に行くことが決まっていたので、気分的にはゆとりがあった。学業はないし、家で勉強に励むような雰囲気ではなかったし、戦時下で遊びに行くこともままならず、時間を持て余し気味だったので、こんなことをしていたのであろう。

 最後の5号が3月11日発行となっているので、3月13日の夜の大阪大空襲の直前、まだ委細を知らなかったであろうが、10日の東京大空襲の日に当たっていたようである。内容は巻頭言や、「新兵器特輯」があったりする他、笑話や和歌、エッセイ、便利帳のようなものなど多岐にわたっている。

 その中で、必勝道という一文を転載しておこう。当時の一人の少年の心情が分かろう。

       ”必勝道”

 この世界大戦で最後の勝利を得る者は誰か。枢軸か、反枢軸か。これを壱言を以って答れば、それは必勝の信念を堅持し、最後まで頑張り通す者である。(略)必勝の信念がなくては戦には勝てぬ。「負けた」と思った時が負けである。

 こちらが三分に対して、向こうの七分の割で戦って居ると思う時が、実は五分五分の戦いで、五分五分の戦いであると思って居る時は、勝っているのである。こちらが困っている時には、相手も同様、あるいはそれ以上に困っているのである。戦は波のようなもので、その波の高い時もあり、低い時もある。そんな一々の戦局を見て、戦争の前途を悲観したり、楽観したりしてはならない。もっと目を大きく開いて見るべきだと思ふ。

 昭和十七年頃迄は枢軸国に非常に有利であった。しかし、それからは戦局は逆転し、反枢軸国に有利になってきた。太平洋の戦局についてのみ考える時、我々は何故そうなったか、これをここで深く反省し、いけなかった点を是正し、戦局の再逆転をしなければならない。これをよく考ふるに、その最も直接的にして、且つ顕著なるものは大体次の如くであろう。 即ち、それは

一、敵の軍需生産体制、就中航空機並びに、船舶生産態勢整備の結果、その生産量、就中航空機のそれが各戦線において我が方のそれを完全に圧倒したこと。

一、我が蓄積戦力が緒戦の段階において極度に消耗し、更に広大なる戦線に亘る膨大なる消耗を補給する生産力、就中、航空機生産量が加速度的に不足してきた事

などに起因するとみるべきであろう。

 ところが、我々はここに静かに反省すべき事実が存在しているのではなかろうか。我々は軍事的には敵に先制攻撃を加え、あの緒戦の赫赫たる戦果を挙げたが、生産戦には敵アメリカに立ち遅れたのである。

 それが今日の戦局となって現れてきたのではあるまいか。それなれば一刻も早く、生産戦においても、敵を破り戦局展開の道を開かねばならぬ。しかも、これは不可能を可能にするような難事ではなく、可能を可能とする程度なのである。こんなことが日本人に出来ぬはずはない。

 日本は今危機だ。しかし、英国はダンケルクで敗退し、三十万の英兵は着の身着のまま逃げ帰って来る。連日の如く獨逸の大空襲がある。完全な武装師団は一ヶ師団しかないという有様で、もうダメかという所まできた。それでも英国人は手を挙げなかった。

 また、ソ聨も独軍に瞬く間に領土を蹂躙され、レニングラードは包囲され、モスコーも危うくなり、ウクライナは取られ、コーカサスの油田地帯までも危うくなった。レニングラードでは日に数百人の餓死者が出るに至った。それでもなお頑張り、スターリングラードでは、遂に反攻に転じて、戦局を逆転せしめてしまった。

 かように、他国民に出来ることが、どうして我ら三千年の歴史を有する大和民族に出来ないことがあるものか。断じて出来る。我々はただ一途に頑張り、戦局転換の神機を掴むのみである。

 

原爆記念碑の碑文の意味

 8月6日は広島の原爆投下記念日である。多くの犠牲者の霊に応えるべく、広島原爆死没者慰霊碑(公式名は広島平和都市記念碑)が建てられ、その碑文には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。

 この碑文の趣旨は、広島市の公式解釈によると「碑文は すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え、憎しみを乗り越えて、全人類の共存と繁栄を願い、真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」とされている。

 しかし、この碑文の意味については、この「『過ち』は誰が犯したものであるか」について、建立以前から議論があり、被害者である日本が「過ち」を犯したかのような文言となっており、改めるべきではないかという意見も多く、「あくまで原爆を投下したのは米国であるから、『過ちは繰返させませんから』とすべきだ」とする意見もあり、碑にトルーマンの写真が貼られたようなこともあった。

 また、講演に訪れた極東国際軍事裁判で判事だったインドの法学者ラダ・ビノード・パールは「広島、長崎に原爆が投ぜられた時、どのような言い訳がされたか、何のために投ぜられなければならなかったか。」と、原爆投下を正当化する主張を強く批判したが、慰霊碑を訪れた際、碑文の内容を聞き、「原爆を落としたのは日本人ではない。日本人が日本人に謝罪している」と非難した。

 これに対し碑文の作成者である、自身も被爆者である雑賀広島大教授は

広島市民であると共に世界市民である我々が、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。」と抗議した由である。

 広島市の見解は「わずか一発の原子爆弾が引き起こした、この悲惨な出来事を体験した広島市並びに広島市民は「核兵器は人類滅亡を引き起こす"絶対悪"である」という人類にとって最も重要な真実を直観し、「二度とヒロシマを繰り返してはならない」と決意しました。そして、原爆犠牲者の冥福を祈るとともに、戦争や核兵器の使用という過ちを繰り返さず、人類の明るい未来を切り拓いていくことを誓う言葉として、刻まれたものであるという。

  つまり、碑文の中の「過ち」とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しているのだという。

 碑文の意味はそれで良いとして、ただ、私がいつも思うのは、原子爆弾は平和な世界に突然落とされたものではないということである。その背景にあった長期にわたる残虐な戦争の最後の場面で起こった悲劇であることを忘れてはならない。

 原爆について、日本では被害ばかりが強調され、日本の戦争加害について、忘れられ勝ちである。この戦争はアメリカとの戦争だけではなく、そもそも、日本の大陸侵略から始まったものであり、その戦の手段として最後に落とされたものである。

 原子爆弾は日本やドイツでも開発が研究されていたものであり、アメリカが先行したに過ぎないのである。まかり間違えれば、日本が使用した可能性も捨てきれない。

 そうでなくとも、日本のアジア大陸での残虐で非人道的な侵略に続く、アメリカとの戦争で使われたもので、日本の中国大陸における幾多の加害をも忘れたはならない。被害は忘れ難くとも、加害は忘れれ易い。原爆被害が忘れ難いのと同様に、中国人にとって、例えば、南京大虐殺が忘れがたいことをも理解すべきである。

 

 

 




八月はやっぱり特別な月

 2018年の8月9日のこの欄にも「8月はやっぱり特別な月」という文章を書いているが、毎年8月になると、いやでも戦争のことを思いだす。

 8月6日の朝の原爆による閃光と、それに続くドンという地響き、外へ出て見上げた原子雲は、3月13日夜の大阪大空襲の空一面の火の玉とともに、いつまでも忘れることは出来ない。広島は私のいた江田島からは20キロぐらいの距離であった。

 そして9日には長崎への原爆投下。続いて、15日のお盆の中日には、敗戦で天皇詔書を聞き、「どうにかなる」としか言い様のなかった日本の敗戦が確定し、それまでの自分のすベてが、ガタガタと崩れ始めたのであった。

 それでも、「帝国海軍はまだ戦うぞ」、と叫んだものの、25日頃には、呆然として広島の焼け跡を通り、燐の匂いを嗅ぎ、白と赤の斑点になった裸の被災者に出逢って、夜行の無蓋貨車で大阪へ引き揚げた。

 南河内の家族のもとに引き上げた時には、久しぶりの大阪の夏の緑の山を見て心から「国破れて山河あり」と思ったものであった。蝉が鳴き立てて、これで良いのかとせき立てたが、何をする気力も無くなってしまっていた。

 一身を戦争に捧げようとしていた自分の、全てがなくなり、身代わりの早い周囲の大人たちに無性に腹が立ち、一人取り残されて、深い虚無の淵に落ち込んで行くのをどうしようもなかった。

 それから、もはや76年も経つが、いまだに、まるで昨日のことのように思い出す。私の過去を振り返って見ると、生まれてから敗戦のその時までと、その後は全く分断された違った世界を生きて来た感じである。

 私にとって戦争に敗れたことは、私の内も外も、全てが喪失したことを意味し、以来、私は無神論者になり、今なお、それは続いている。受けた障害から立ち直るには5年も10年もかかったと言えよう。

 私だけではなかろう。沖縄を訪れた菅首相が「僕は戦後の生まれなので戦争のことはよく知らない」と言って顰蹙を買ったが、もはや、戦争を体験した人たちは殆どいなくなってしまった。それでも今なお、夏になれば戦争を思い出す人が増えるようである。

 朝日新聞の歌壇・俳壇を見ていても、戦争についての歌や句は近年減って来ているが、夏になると、毎年数が増えている。あの日本の大陸への侵略から始まった無惨な戦争のことは、何としても子々孫々にまで伝え、人類の歴史で、再びあのような残虐、悲惨なことが起こらないようにしたいものである。

 

脱皮し損じた蝉

 梅雨が明けると途端に蝉時雨が始まり、我が家の庭もうるさいぐらいである。蝉の抜け殻もいくつか見つけた。

 7年間も土の中で暮らし、やっと地上に出て来て、脱皮して蝉になると、もう1週間ぐらいで死んでしまうらしい。1週間しかない命であれば一所懸命に鳴く筈である。

 うるさいといわれても、その短い間に、必死に鳴いて相手を探し、相手と結ばれ、子孫を残して死んでいかねばならないのである。うるさいのも我慢してやらねばなるまい。

 それでもうまくいけば良いが、どこの世界でもそうだが、大部分がうまく行っても、全てがうまくいくことはありえない。どんなことにも、必ず失敗も伴うものである。思わぬ事故が起こったりする。それが自然の掟でもあろう。

 我が家の開け放されたテラスのサンルームに、時たま蝉が紛れこんで来ることがある。天井近くの桟とガラスの天井の間に入り込んで出れなくなることが多い。飛んで逃げようとするのだが、ガラスの天井にぶつかって出れない。少し下方へ飛べば逃げられるのだが、それがなかなか出来ないらしい。いたずらにバタバタするがどうにもならない、そのうちに疲れてじっとしているが、やがては死んでしまう。

 折角蝉になっての最後の一週間しかない命。それではいくらなんでも可哀想である。気がついた折には、脚立を持ってきて登り、うちわ二枚で誘導してやって、何とか逃してやることにしている。やっと広い空間に出れた蝉は「ありがとう」と言わんばかりに外へ飛び出し、一直線に植え込みに向かって去って行く。こちらも何かすっきりとした感じがして、小さな喜びに浸れる瞬間である。

 それよりもっと深刻な蝉の災難もある。5〜6年も前のことであろうか。庭の木の下の方から出た枝で、蝉が脱皮しかけているのを見つけた。珍しいのでじっと見ていたが、いつまだ経っても動かない。良く見ると、蝉の体が半分、幼虫の割れた背中から出て、反り返った姿勢にまでなり、もう一歩で羽根も殻から出て脱皮出来るすんでのところで死に絶えてしまっているのである。

 恐らく、この蝉も他の仲間達同様、7年間だかの長い間を地中で暮らして、やっと地上に出、残りの短い期間を蝉になって、最後の花道を飾ろうとしていたのであろう。それが、最後になって、思いもかけない不幸にあって、どうしても脱皮することが出来ず、そのまま夢敗れて自滅せざるを得なかったのである。

 蝉には人間のような感情や思考はないものの、人に当て嵌めれば、泣くにも泣けない哀れさである。何の為の長い長い暗黒の世界の中での生活だったのであろうか。ようやくやっとの思いで地上に出、これから蝉になって木に登り、空を飛んで相棒を見つけ、存分に楽しんで、最後の仕上げを飾ろう思っていたのに、返す返すも残念である。人間であれば、慰めようもないところである。

 自然界は冷酷である。どんな生物の世界でも、種族を支え、繁栄させるためには、多くの犠牲をも払わなければならないのである。個々の個体から見れば、多くの欠損や犠牲、消耗などをあらかじめ組み込まれて種が成り立っているものである。全体として成功すれば、その為の犠牲は止むを得ないというのが生物の掟ではなかろうか。

 それにしても、7年の後の7日の生命、何とか成就させてやりたいではないか。あの偶然に見た、脱皮にしくじった蝉の姿がいつまでも忘れられない。

 

 

 

 

 

 

 

  

オリンピックを見直そう

 オリンピックに政治を持ち込むななどと言われているが、オリンピックは昔から政治的なものである。ナチスドイツがベルリンで民族の祭典としてナチスの宣伝にオリンピックを利用したのは有名な話である。 

 オリンピックの競技も個人で争うもので、国の競争ではないと言われながら、これも守られていない。相変わらず、金メダルをいくつ取ったとか言って騒いでいる。

 オリンピックが政治と無関係であったことはなく、モスクワオリンピックのボイコットもあったし、オリンピックがテロの対象となったこともある。来年のオリンピックについても、アメリカが中国をボイコットしようという話もある。

 今回の東京オリンピックも、安倍元首相が福島の「アンダーコントロール」と言って誘致して以来、多額の賄賂を使っていたことがバレたり、復興五輪と言っていたのが、コロナに打ち勝つ証に変わったりと、その場その場で、政府の言うことも変わっている。

 今やオリンピックは国威発揚に、商業主義の利権が絡まって、本来のスポーツの祭典からは遠いものになってしまっている。熱中症で倒れる人のある真夏に、それも夜中に競技を行う意味がどこにあるのだろう。莫大な放映権のために競技の季節や時刻が決められ、選手の条件など考慮の外である。

 その挙げ句の果てが、コロナの第五波で緊急事態宣言が出ている中で、ハルマゲドンでもない限り開催するとして、国民にはコロナで人流を抑え集客を制限しながら、人命を賭けてまで、一大集会を行おうと言うのであるからおよそ常識はずれの、大会開催である。

 しかも、その準備にも、最後まで紆余曲折が伴った。大会委員長が女性蔑視で途中で交代し、開催前日になって、今度は開会式のディレクターや音楽担当者の過去における、ナチス擁護やレイシスト発言問題となり、急遽交代させられるなどといったハプニングまであった。

 元を正せば、安倍元首相がコロナでオリンピックを延期することになった時に、2年延長の案があったのを自分の都合で、一年延期と決めたために、コロナ流行の真っ最中に、国論を二分して強引な開催することになってしまったのである。

 式典の担当者達も、安倍政権中にその伝手などによって決められたため、問題の多い人物が多く任命されたことになり、外国からの批判に応えて、急遽入れ替えをせねばならなくなったものであろう。

 そこで、大坂なおみや八村選手の起用が考えられたのであろう。これで、日本がいかにも多様性を重んじているように見せかけようとしたのであろう。

 しかし、馬脚はすぐに現れるもので、アフリカ人であるという差別的な理由で、日本で25年も活躍してきたセネガル出身のラティール・シー(Latyr Sy)氏が、組織委からオリンピック開会式の出演をキャンセルされたことを、告発したというニュースが出ていた。

 それに、SNS上などでは、大坂なおみや八村選手の起用についての批判も多く、「日本国籍であるが、普通の日本人ではない」というような批判が多い。大会直前にディレクターらを辞めさせ、大坂なおみらを起用したのも、事実を糊塗し、国外向けの多様性尊重の見せかけに利用したに過ぎないことがわかる。  

 彼等の起用に反対の声が多いだけでなく、事実としての国内における男女や、人種、 LGBTなどに対する差別は依然として強く、その解消が未だ遠いことは明らかである。  

 ついでに言えば、彼等のパフォーマンスのために、東北の子供達が夜間に動員され、出演させられたこともあったようである。

 オリンピック選手や関係者のコロナ感染者も増え、毎日の統計による国内のコロナ感染者数も次第に増えて来ている。最悪の事態になった時に、オリンピックを中止するのか続けるのか、政府の公式の発表はないが、その恐れも十分で、いつ、どのような処置がとられるのか心配である。

 本来、世界の人たちが皆で楽しくスポーツを楽しむ筈のオリンピックが、国や資本に振り回され、選手や観客にその皺寄せが行き、ましてや感染症による人命を賭けてまでの開催を見ると、ここらでオリンピックそのものを根本的に見直さなければならない時期がきているように思われてならない。

情けない祖国

 安倍内閣の時には、あまりの滅茶苦茶振りに腹の立てどうしだったが、今の菅内閣となると、最早、怒りより情けなさが先行する。

 安倍氏の場合は「金持ちの坊ちゃん?」で、怖いもの知らずなので、森友、加計学園問題や桜園遊会などの公私混同の問題を起こすし、黒川人事のような無茶を通そうとしたりすることが多かった。

 トランプ大統領が決まった時には一番に飛んで行って、ゴルフで個人的な関係を作り、大統領のポチと言われるようになったし、オリンピック誘致では、「アンダーコントロール」と嘘の大見えを切ったりしたのも彼らしい。

 また、コロナ対策では、思いつきで、役に立たないアベノマスクを配ったり、自宅待機ということで、愛犬と戯れ、コーヒーを飲み自宅で寛ぐ映像を流して失笑を買ったのも、本領を発揮というところである。最後に最長政権達成とともに、無責任にも、仮病を使って急に辞めてしまったおまけまでつく。

 ところが、それを引き継いだ菅首相は、安倍氏とは全く異なる。田舎から出て来た、叩き上げの人物だという触れ込みであったが、長い間の官房長官としての物事の対応振りを見ていると、この人は番頭であっても、主人の器ではないとしか見えなかった。

 案の定、就任早々言ったのが「自助、共助、公助」でまずは自分でしろ、国は当てにするなということであった。これはどんな為政者でも最初に言う言葉ではない。次いで、すぐに学術会議会員選挙での不承認問題が出てきた。これについては政府は未だに何の説明もしない。

 国民に説明する、国民を説得する、責任を取るという3Sが民主的な政権の基本である。ところが菅政権では、それが全く守られていない。それどころか、緊急事態宣言で飲食業者に休業を要請するのに、酒屋の組合や銀行に圧力をかけて、取引停止圧力で、飲食業者に休業を強制しようとする、ヤクザまがいの手法まで使おうとするなど、情けなくて見ておれない。

 しかもやることなすこと、全てが失敗の連続である。コロナ対策にしても、初めから、流行のまだ治らないうちから、Go To 政策を進めて感染収束に失敗し、第二波、第三波と流行を繰り返しているのに、蔓延防止宣言を作ったり、緊急事態宣言を中途半端で打ち切って、感染の再燃を起こしたりと失政を繰り返して来た。

 そして挙げ句の果てに、人々が心配しているのを押し切って、常識では考えられない、緊急事態宣言下でのオリンピック開催まで強引に進めようとして、国論を分裂させ、多くの国民の怒りを買っている。

 それでも、国民からの追求に対して、「安全安心の大会を開催する」とだけ繰り返すが、安全安心の基準や、どうしたら安全安心の大会が開けるのか何の説明もしない。

 大会が開けば、盛り上がって、反対の声も収まるであろうと高を括っていたようであるが、実際にオリンピック中に第五波が予想以上に広がって来ており、どうする積もりであろうか。東京の感染者が2848人、大阪でも741人と急増していても、「人流も減っているので、中止はありません」と明言し、国民の心配には答えようとしない。

 内閣の支持率が30%まで落ち、不支持率が上がるのも当然であろう。一部の人が騒いでも、無視して強行突破すれば良いと考えているようだが、政府に対する不信がこれほど広がったのは、安倍政権時代にもなかったことではなかろうか。

   夏富士や国の衰へまざまざと

 と、朝日俳壇に出ていたが、多くの人が同感されたことであろう。菅首相の思惑では、オリンピックを起爆剤に人気も回復し、秋の選挙を乗り切れるのではないかと踏んでいるようだが、この秋の国政選挙がどうなることであろうか。

 私も、オリンピックが実際に行われるようになれば、世論も大分変わるのではなかろうかと思っていたが、今回は、メディアの情報などだけからでも、これまでにないコロナへの不安と、政権へのと不信が広がっているのを感じている。外国紙の中には「東京五輪菅首相のためだけに開催されるている」と批判しているものもある。

 ここらで、もう菅内閣にはお引き取り願って、この際、自民党惨敗、政権交代となってはくれないかという夢を抱きたいが、警察官僚を抑えた陰険な菅首相がどう立ち回るか、恐ろしい気がしてならない。

 コロナの第5波は既に来ている。今後の感染状況の中で、オリンピックは実際どうなっていくのだろうか。1964年の夢とは全く異なった惨めなオリンピックになってしまったが、その後はどいうことになるのであろうか。恐る恐る未来に近づいて行くよりなさそうである。

一年ぶりの大阪

 脊椎環狭窄症で歩行障害が起こり、続いて、この世のコロナの感染が広がり、自分の歳のことも考えて、それを機会に仕事も完全に辞めた。そうなると、大阪へ出掛けねばならない機会もなくなり、コロナで出来るだけ不要な外出は控えるようにという要請もあって、近くは毎日散歩しても、大阪まで出掛ける機会がなくなった。

 以前は大阪まで行くのに、阪急電車の回数券を使っており、22回利用出来る回数券が1ヶ月に一冊では少し足らないぐらいであったが、今はもう殆ど使われなくなってしまった。もういつから大阪へ出ていないだろうか。はっきり思い出せない。

 そんな中で、以前の仕事の後始末のようなことで、どうしても大阪まで出掛けなければならない用が出来た。ラッシュアワーや夜間を避ければ、梅田近辺なら大丈夫だろうと思い、約束して、正午頃の電車に乗って出掛けた。

 昼間なので、電車は空いていてゆっくり座れ、20分ほどで梅田に着いた。昔だったら、電車に乗るにも、降りてからの事を考え、梅田の到着ホームのエスカレーターに近い、前から2両目の真ん中の扉の近くに座り、電車が梅田のホームに滑り込んだら、早々に席を立ち、扉の近くまで進み、電車が止まって扉が空いたら、いの一番に飛び出して、真っ先にエスカレータに乗っていたものだったが、今ではそうはいかない。

 急ぐ人が先に降りてしまってから、ゆっくりホームへ降り、杖をついてヨタヨタと歩み、エスカレーターのレールを掴んで、じっと立ってエスカレーターの動きに身を任せることになる。

 昔なら、歩きながら定期券入れを出して、カードを用意しながら改札口へ進み、速やかにカードを通して通り過ぎるところだが、今では改札の前で一度立ち止まって、カードを出して挿入し、ゆっくり通過せねばならない。

 改札を出てから、外のエスカレーターまでの距離でも、ゆっくりしか行けないので、元気な時のように、大急ぎで先を争うようにエスカレーターに乗り込むことも出来ない。杖をついてでは、足元も不確実で、エスカレータを歩いて降りるようなことも考えられない。手摺りに掴まり、杖で体を支えて、じっと立ち尽くして、機械の動きに身を委ねるしかない。

 エスカレータを降りれば、今度はムービングウオーク。この乗り継ぎの短い間には、直角方向の人の流れを横切らねばならない。以前なら大急ぎで敏捷に人の間を縫って横切ったものだが、今は人の流れを見ながら、よちよちと人の間をくぐり抜けるようにして進むよりない。

 ムービングウオークはエスカレータと同じで、レールを持って、じっと立ち止まり、 歩いて行く人にどんどん追い抜かれていくのを見ているばかり。ムービングウオークを降りると、今度は広い広場を、来る人行く人の大勢の流れの中に紛れて、かなり長い距離を歩かなければならない。

 昔は、ここでも、ちらほら横のショウ ケースの飾り付けに目をやりながら、大股で闊歩したものだったが、今では半ば杖に頼りながら、とぼとぼ歩くより仕方ない。とぼとぼ歩けば遠いこと。後から来る人がどんどん追い抜いていく。前からスマホを見ながら近づいて来る人にも注意しながら歩かねばならない。

 ようやくそれが済んだら、今度は下りのエスカレーター。また、じっと立ち止まって、機械の動きに身を任せる。その次は、地下街の歩道。そこも、もたもた周りの人の流れに気をつけながら、杖に縋って進み、ようやく東梅田の地下鉄の駅に辿り着く。昔はなんでもなかったのに、ああ、しんど!

 地下鉄の行き先は、梅田から一駅先だったし、ホームも車内も空いていたのであまり問題なかったが、地下鉄を降りると、今度は長い階段を上がらなければならない。地下鉄の駅には、必ず何処かには、地上まで出れるエレべーターがある筈だが、何処にあるか判らないし、そこまで行くのがまた一仕事ということになるので、階段を利用することにする。

 地下鉄の階段は何処でも随分長いものである。この駅でも、地上に出るまでに60〜70段ぐらいの階段を上がらねばならない。壁際の手摺りに掴まり、杖で一段一段、階段を確かめながら、上がる。幸い、心肺機能は悪くないので、途中で休むこともなく、えっちらおっちら、何とか地上まで上がる。

 一息ついて、建物から通りへ出ると、急に真夏の太陽が照りつけて、今度は暑いこと、暑いこと。以前なら、少し先の進行方向にある信号の青や赤を読んで、それの合わせて歩調を調節し、場合によっては駆け足で、大急ぎで信号を渡るというようなことも出来たが、今はただ周囲の人に抜かされても、我関せずを決めて、自分のペースでゆっくり進むよりない。

 幸い目的地は駅から5分もかからない所だったので、問題なく到着し、用事も幸い短時間で済んだ。

 さて帰る段になって、折角一年振りで、大阪まで出て来たのだから、せめて梅田のあたりだけでも、ぶらついて変貌振りを確かめ、序でに故障したカメラを西梅田のビルの4階にあるソニーの店まで持って行ってはなどとも考えて見たが、その日の大阪は36度という。これでは、外を長時間歩くのは危険だし、想像しただけでもしんどいので、来た道を駅まで戻り、長い階段を今度は降りて、梅田に戻ることにした。

 階段は上りよりも下りの方が危険なのである。上りは転んでも、それだけで済むが、下りは下手をすると、階段から転げ落ちて、一命に関わることにもなりかねない。若い時なら鼻歌交じりで、半ば駆け降りるようなことさえ平気で出来たが、今ではそうは行かない。長い下りの階段は、恐る恐る最大の注意を払いながら、手摺りと杖を頼りに、登りの時よりも時間をかけて、一段一段確かめながら降りた。

 それでも自慢しても良いのは、丁度私より先に、同様に杖をついて階段を降りかけていた老人がいたが、私の方がその人よりは動作が敏捷で、その人とは反対側の手すりを持って降りたが、下まで降り切った時には、いつしかその人を追い抜いて、私の方が先を歩いていたことである。

  梅田へ戻って、地下なので暑くはないし、未だ時間も体力も余裕があったので、そこで、地下街だけでも少し見物して帰ろうと思い直し、地下道を御堂筋線の駅前広場まで歩いた。

 そこで、広場が改修中であることや、阪神百貨店の地下売り場が新しくなっていることなどを見届け、更に、大阪駅中央口までの地下道が、工事中だが、広くなったことや、中央口から西口までの通路も付け替えられて、東口から真っ直ぐに行けるようにになったことなどを確かめた。

 その上で、中央口から大阪駅に上がり、地上から旧阪神百貨店のビルが、サウスタワーとして、もう何十階か高くまで立ち上がっている事も確かめた。そこから更に西のソニーの店まで行こうかどうしようかと少し迷ったが、久し振りだから、あまり無理はするまいと思い直し、大阪駅の中をくぐって北側へ抜け、そこからヨドバシカメラの回廊を巡って、阪急の北口へ出て、帰った。

 折角一年振りで大阪へ出掛けたのだから、もう少しあちこち見物したかったが、やはり昔のように気軽には動き回れない。結局、何処へも寄らずに帰ることになってしまったが、体力や、暑さのことも考えれば、大阪まで出ることが出来、元気で帰ることが出来ただけでも、有り難いことだと思わなけらばならない。

 93歳の私の久し振りの大阪までの一人旅は、こんなところかと思いつつ帰宅した。やれやれ一安心というところである。