オリンピックを見直そう

 オリンピックに政治を持ち込むななどと言われているが、オリンピックは昔から政治的なものである。ナチスドイツがベルリンで民族の祭典としてナチスの宣伝にオリンピックを利用したのは有名な話である。 

 オリンピックの競技も個人で争うもので、国の競争ではないと言われながら、これも守られていない。相変わらず、金メダルをいくつ取ったとか言って騒いでいる。

 オリンピックが政治と無関係であったことはなく、モスクワオリンピックのボイコットもあったし、オリンピックがテロの対象となったこともある。来年のオリンピックについても、アメリカが中国をボイコットしようという話もある。

 今回の東京オリンピックも、安倍元首相が福島の「アンダーコントロール」と言って誘致して以来、多額の賄賂を使っていたことがバレたり、復興五輪と言っていたのが、コロナに打ち勝つ証に変わったりと、その場その場で、政府の言うことも変わっている。

 今やオリンピックは国威発揚に、商業主義の利権が絡まって、本来のスポーツの祭典からは遠いものになってしまっている。熱中症で倒れる人のある真夏に、それも夜中に競技を行う意味がどこにあるのだろう。莫大な放映権のために競技の季節や時刻が決められ、選手の条件など考慮の外である。

 その挙げ句の果てが、コロナの第五波で緊急事態宣言が出ている中で、ハルマゲドンでもない限り開催するとして、国民にはコロナで人流を抑え集客を制限しながら、人命を賭けてまで、一大集会を行おうと言うのであるからおよそ常識はずれの、大会開催である。

 しかも、その準備にも、最後まで紆余曲折が伴った。大会委員長が女性蔑視で途中で交代し、開催前日になって、今度は開会式のディレクターや音楽担当者の過去における、ナチス擁護やレイシスト発言問題となり、急遽交代させられるなどといったハプニングまであった。

 元を正せば、安倍元首相がコロナでオリンピックを延期することになった時に、2年延長の案があったのを自分の都合で、一年延期と決めたために、コロナ流行の真っ最中に、国論を二分して強引な開催することになってしまったのである。

 式典の担当者達も、安倍政権中にその伝手などによって決められたため、問題の多い人物が多く任命されたことになり、外国からの批判に応えて、急遽入れ替えをせねばならなくなったものであろう。

 そこで、大坂なおみや八村選手の起用が考えられたのであろう。これで、日本がいかにも多様性を重んじているように見せかけようとしたのであろう。

 しかし、馬脚はすぐに現れるもので、アフリカ人であるという差別的な理由で、日本で25年も活躍してきたセネガル出身のラティール・シー(Latyr Sy)氏が、組織委からオリンピック開会式の出演をキャンセルされたことを、告発したというニュースが出ていた。

 それに、SNS上などでは、大坂なおみや八村選手の起用についての批判も多く、「日本国籍であるが、普通の日本人ではない」というような批判が多い。大会直前にディレクターらを辞めさせ、大坂なおみらを起用したのも、事実を糊塗し、国外向けの多様性尊重の見せかけに利用したに過ぎないことがわかる。  

 彼等の起用に反対の声が多いだけでなく、事実としての国内における男女や、人種、 LGBTなどに対する差別は依然として強く、その解消が未だ遠いことは明らかである。  

 ついでに言えば、彼等のパフォーマンスのために、東北の子供達が夜間に動員され、出演させられたこともあったようである。

 オリンピック選手や関係者のコロナ感染者も増え、毎日の統計による国内のコロナ感染者数も次第に増えて来ている。最悪の事態になった時に、オリンピックを中止するのか続けるのか、政府の公式の発表はないが、その恐れも十分で、いつ、どのような処置がとられるのか心配である。

 本来、世界の人たちが皆で楽しくスポーツを楽しむ筈のオリンピックが、国や資本に振り回され、選手や観客にその皺寄せが行き、ましてや感染症による人命を賭けてまでの開催を見ると、ここらでオリンピックそのものを根本的に見直さなければならない時期がきているように思われてならない。