コロナによるマスクの世界二態

 コロナで殆どの人がマスクをしている。夏は暑くてマスクをするとむせて大変だった人も、年末ともなり、寒くなってくると、あまり負担に感じなくて済むであろうか。

 日本では、コロナが流行る前でも、花粉アレルギーの人が多いためなのか、冬になるとマスクをしている人も多かったので、マスク姿もそれほど異様さを感じないが、時に、何処へ行って、全ての人が皆マスクをしている姿に、思わず異様な世界を感じてハッとさせられることがある。それでも、マスクでコロナが防げるのであれば致し方ないか。

 それはそうとして、最近、マスクについて印象的だったのは、下記のようなことである。ある日の昼間、女房と散歩の途中で、郊外の大きなショッピングセンターへ行った時のことである。センターの広い庭に面したテラスでコーヒーを飲んで休憩した。

 まだそれほど寒くもないし、外の方が空気も綺麗だし、コロナの感染の恐れも少ないからと思ってテラスに席を選んだ。テラスの席には殆ど誰もいず、空いていたので、ゆっくり寛いで、あたりを眺めることが出来た。

 広い板張りのテラスで、少し離れた一番外側に、大きなテントが張られており、中でバーベキューをしているのが見えた。どうもそこがバーベキューの定席になっているらしく、2テーブルに分かれていた。一方は家族連れのようだったが、片方は若い女性ばかり、同じ年齢ぐらいの7−8人がテーブルを囲んでバーベキューをしていた。

 あんなに多人数でバーベキューをやって、コロナの感染の元になるのではなかろうかと思ってよく見ると、皆が揃って、一人残らずマスクをしているではないか。初めは、まだ焼き上がるのを待っている段階なのか、あるいは、もう食べ終わって帰る前なのかと思ったが、そうではない。皆で、それぞれ肉を焼いたりしているようだ。見ていると、マスクを外して食べている人もいる。

 びっくりしたのは、皆が食べる時だけマスクを外し、またマスクをして話したりして、和やかに過ごしていることであった。若いお母さんの集まりで、子供もいるので、皆コロナには気をつけているのかなあと感心させられた。

 いつだったか、テレビで尾身先生が、「ひとと一緒に食べる時もマスクをしていて、食物を口に入れる時だけ、左手でマスクを半分外して、右手で箸を使って食事を口に入れ、すぐにまたマスクをして話をすれば良い」と、マスクを取った時に”おちょぼ口”をのぞかせて、まるで幼稚園の子供にでも話すように、実演しながら話していたのが印象的であったが、まさにその忠実な再現に近い。尾身先生に見せてやりたいような光景であった。

 そういえば間接的な話なので、真偽のほどは分からないが、これに関連して、こんな話も聞いた。ある勤め人が、家で食事をする時まで、奥さんにマスクをするように言われて困っているのだという話である。老人の二人暮らしなのだが、何でも、奥さんが尾身先生の話を聞いて、どう勘違いしたのか、その食べ方を家でも亭主に強要するようになったとかである。テレビの見方もいろいろであろうが、尾身先生も思わぬ所で罪作りなことをしたようである。

 もう一つのマスクの話は、電車の中でのことである。昼の空いた時間帯だったので、電車は空いていた。何処かの駅から乗って来て隣の席に座った中年過ぎのおばさん二人である。二人ともマスクはしていたが、電車に乗り込んで来た時から、大きな声で喋り通し、それも、地声なのか、マスクをしているからお互いに聞こえ難いと思うからか、口角泡を飛ばすといっても良いぐらいの大きな声で、のべつまくなく喋り通し。話の中で「コロナもこれだけ流行ったら怖いね」などとも言っていた。

 あれでは、マスクをしていても、飛沫やエロゾールを周囲に撒き散らし、自分たちが怖い怖いと言いながら、コロナを撒き散らしているようなものではなかろうか。女性の口に戸は立てられないが、乗って来た駅から何駅分ぐらいだったか、我々が降りるまで、瞬時も休む暇なく大きな声で喋り続けていた。

 色々な人がいるものだから、どんな規制をしても百%守られるものではないが、日本人は予防対策をよく守っているほうではなかろうか。そこそこ皆で注意して、何とかコロナの流行を早く終わらせたいものである。

「傲慢」の次が「陰険」

 他人の悪口はあまり言いたくないが、対象が首相であれば、国民の生活の隅々にまで影響を与える立場にあるのだから、民主国家では、国民が、良かれ、悪しかれ、その人物評をするのは当然のことであろう。

 その政治の結果を国民が評価するのは当然のことであろうし、その長である首相の人物が音沙汰されるのも自然の流れであろう。政治家は国民の委託を受けて政治を行うものであるから、国民が政府や、その施策について感想を述べ、それを行う首相の人物評に及ぶのは当然のことであり、政府はそういう国民の声に耳を傾けて、政治を行うべきであろう。

 そういう観点から、この10年足らずの二人の首相を見れば、日本国民は自ら選んだと言われても仕方がないが、ずっと不運というか、不幸な目にあってきたし、今も尚、不幸な生活を強いられ続けていると言わねばならない。

 前任者の安倍首相の時は、8年余りも、テレビなどで嫌という程、長い間、毎回毎回同じ顔を見せられて、もう見たくない、もういい加減に引っ込んでくれと思っていたが、やっと見なくて済んで、せいせいしたと思ったものだが、それも束の間、今度はどんな人物が現れるのかと思っていたら、三白眼の陰鬱そうな男が現れて、これまで以上に憂鬱な感じがする日が続いている。

 これまで官房長官として、いつでも記者の質問に「答える必要はありません」などとすっけない返答を繰り返していた人物である。

 前首相が見るからに、血筋の良い、金持ちの、怖いもの知らずのボンで、嘘でも平気でつく傲慢な人物であったが、今度の首相は、自ら苦労人を売りに登場した人物であるだけに、外見だけでも陰気な策士の感じである。

 国会の答弁一つにしても、前者は嘘を平気で喋り、官僚などにも忖度させて、嘘を嘘で固めてきたが、後者は官僚の助けを借りて、メモを読みながら答弁するだけで、まともに答えようとしない。答弁能力の欠如さえ疑われる。

 言質を取られないように注意しているのかも知れないが、記者会見まで避けて、陰険にもっぱら影で黙って事を進めるのが得意な人物のようである。学術会議会員の任命拒否の問題や、コロナ対策でも、表面的には何も言わず、影で問題をすり替えたり、裏で自分の主張を通そうととしている。

 初めから、この人物はどうも首相の器ではないと思っていたが、誰が見てもそうなのであろう。最近上西とか言うどこかの大学の先生もそう書いていた。コロナのパンデミックで大変な時にも、GoToトラベルを止めようとせず、国民に何も説明しようともしない。

 首相であれば、もう少し前に出て、例えば、嘘でも良いから、「皆で頑張りましょう」とでも言って、国民に直接呼びかけるようなところがないと、人はついてこないであろう。影で何かを画策しているにしろ、前面に立って姿を見せなければ、首相は務まらない。今後が心配である。誰から見ても、首相の器ではないと思わざるを得ない。

 この国の首相が、傲慢な嘘つきボンの次が陰険な”苦労人”では、あまりにもこの国の国民が可哀想ではないかと思うのは私一人ではなさそうである。

三島由紀夫死して50年

 三島由紀夫楯の会を作り、市ヶ谷の自衛隊基地に乱入し、東部方面総監を人質にして立てこもり、自衛官を集めて演説をし、決起を促したが受け容れられず、自殺した事件から、早くも50年が経つ。有名な作家であっただけに、この事件は衝撃的であり今も忘れられない。

 この50年を記念して、テレビで、三島の言説などの録画が流されていたのを偶然見たが、中に敗戦のショックを受けた後、全てが崩壊したのに、山河がそのまま残っているのが不思議な感じがしたというようなことを言っていたのを聞いて、私の当時を振り返させられた。

 私もどこかに書いたが、戦後、兵学校から帰って、疎開先の河内長野で周囲の景色を眺めた時に、国が滅び、私にとって全てが失われてしまったのに、山野はそのまま残っているのを見て、中国の古人が「国破れて山河あり」と言ったのは、こういう事だったのかとつくづく思ったものであった。

 また戦後に、あまりにも急激に変化した人々の行動を見て、三島は嫌悪感を感じたと言っていたが、私も「鬼畜米英」「天佑神助」「天皇陛下の御為に」「最後の一兵まで」が一夜にして戦後の混乱、民主主義、利己主義などへと変わった戦後の人々の変貌ぶりに心底腹が立っていたものだった。

 三島は私より3年上だから、敗戦の時はちょど二十歳だった筈である。従って、私より強く戦前の天皇制の大日本帝国に絡め取られていたのであろう。従って戦後のニヒリズムを彼も私以上に感じていたことであろう。

 ただ私が死のどん底まで落とされても、何とか立ち直れたのは、それまで他の世界を全く知らなかったために、戦後に現れた民主主義や社会主義共産主義などが新鮮で、素直に受け入れられていったからであろうか。3歳年上の私と違って、戦前の世界を多少とも知っていて、判断力もあった三島は、敗戦の絶望をもう少し客観的に見ていたのではなかろうか。

 そこから人々のあまりにも軽薄な急激な行動の変化に対する嫌悪感は、私以上に強かったのかも知れない。それが大日本帝国天皇制社会へのノスタルディアを引き起こしたのではなかろうか。しかしそのベースはニヒリズムで、初めから45歳ぐらいで死のうと考えていたのではなかろうか。

 あとは、それをどう自分なりに納得のいくように色付けをすることにあったような気がする。ボディビルをして体を鍛えたり、楯の会を組織したりしたのも、全てニヒリズムの果ての死への前奏曲であったような気がする。私も戦後のニヒリズムに陥っていた頃は、42歳まで生きていたら十分だと思っていたものである。

 以上は私の単なる印象であり、私は三島について考えたことはなかったし、小説も金閣寺と塩騒ぐらいしか知らない。世間に知られた彼の行動も右翼的で、私の関心外だったので、彼について深く考えたこともない。むしろ意識的に避けていた方である。

 三島由紀夫については、多くの人が随分沢山の事を書き、また話しているので、そちらの方を見て戴きたいが、ここでは、たまたま三島の喋っていた断片を聞いて、戦後の反応が似ていたことを感じたので記しておこうと思っただけである。

国民を欺く沖縄の切り捨て

 沖縄の地図を広げてみよう。アメリカ軍の基地をなぞってみると、それがどれだけ広いか、狭い沖縄の島全体のどのぐらいの割合を占めているのか。

  沖縄県には、31の米軍専用施設があ り、その総面積は1万8,609ヘクター ル 、本 県 の 総 面 積 の 約 8 % 、人 口 の 9 割以上が居住する沖縄本島では約 15%の面積を占めている由である。その規模は東京23区のうち13区を 覆ってしまうほどの広大な面積である。

 沖縄が本土に復帰した昭和47年 (1972年)当時、全国の米軍専用施設面 積の占める沖縄県の割合は約58.7%で したが、本土では米軍基地の整理・縮小が沖縄県よりも進んだ結果、現在では、 国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、 全国の米軍専用施設面積の約70.6%が 集中していることになる。

  ま た 、陸 上 だ け で は な く 、沖 縄 県 及 びその周辺には、水域27カ所と空域20 カ所が訓練区域として米軍管理下に 置かれ、漁業への制限や航空経路への 制限等がある。また、その規模は、 水域が約54,938km²で九州の約1.3倍 空域が約95,416km²で北海道の約1.1倍にあたるそうである。

 沖縄へ旅行したら、どこか高い所からでも見渡してみるとよい。緑の多い良さそうな所は大抵米軍基地か、その関連施設であり。その間に所狭しと密集して建物が建てられている部分が沖縄の人が暮らしている所だと思えばよい。まるで米軍が使って余っている所に日本人が押し込められて住んでいるといった感じである。

 日本の本土の基地と決定的に違うのは、沖縄は戦後も1972年までアメリカの統治下にあり、昔の町や村の関係なしに、住民の希望などを無視して、アメリカの占領軍の銃剣によって脅されて、好きなように基地が作られたことである。それがそのまま、現在の基地となっているのである。昭和天皇が沖縄の米軍統治が続くことに同意していたことも知られている。

 日本政府も、基地に関連する国民のトラブルや,基地反対闘争などを避けるため、本土の米軍基地を出来るだけ目立たないようにし、その分沖縄に基地を集中させる方向に動いたので、本土の分まで沖縄にしわ寄せがきて、沖縄での基地の問題は一層深刻なものとなっていった。それに対して、沖縄の人が反対するのは当然のことであるが、政府は本土で基地反対の運動が強くなることを恐れて、沖縄に基地を集中するように取り計らってきたとも言えよう。

  米国に完全に従属した形の安保条約があり、それに付随した日米地位協定によって、日本政府はアメリカの方針通りに基地を提供、維持しなければならないので、それに対する国民の不都合や反対を抑えるために、出来るだけ本土では基地を国民の日常生活から見えにくくして、その分、「僻地」である沖縄に集中させて、国民の視線をそらそうとして来た節がある。
 本土にもアメリカ軍の基地はあり、軍の自由な行動により、色々な不都合が起こっているが、直接、日々の生活の強い障害とまではなっていないので、あまり大きな問題となっていないが、実態は沖縄と同じだということを自覚していない人が多い。
 一方沖縄に対しては、政府は全住民の反対といった状態にも関わらず、アメとムチで、あくまでも強引に、アメリカの意向に沿うように施策を進めざるを得ない有様である。
 沖縄戦の敗戦時、時の司令官は自決する前に、最後の電文で「沖縄県民はよく戦った。将来、沖縄県民には特別のご配慮を」と送った由だが、それ以来、今日まで、日本政府の沖縄県民に対する対応はあまりにも違うのではなかろうか。
 戦後75年も経過しているのである。すぐには無理であっても、政府は憲法改正よりも先に、もうそろそろ憲法よりも優先される、不平等な安保条約を改正して、米国と平等な条約とし、沖縄の米軍基地を撤去し、沖縄の住民が真に平和な生活が送れるように「特別な配慮を」する必要があるのではなかろうか。

 

 

 

国境のトイレ

 世界のあちこちを旅行していると、思わぬ経験をするものである。詰まらないような事でも、変わったことは、断片的にいつまでも、記憶に残っているものである。小さな出来事などで、開け広げには話しにくいような事は、どうしてもそのまま記憶の奥にとどめ置かれがちであるが、思いもかけず、時にひょっこりと頭の中に浮かび上がって来るものである。

 鉄のカーテンがなくなって、漸く東西のヨーロッパが自由に往来出来るようになった、20世紀の終わり頃の話である。オーストリアのウイーンから、ハンガリーのブタペストへ行った時のことである。国境は自由に通れるようになったところであったが、まだ通関などの手続きに慣れていないためか、随分時間がかかった。

 そのため、待っている間のことであった。ただし、尾籠な話になることを許されたい。その間に、トイレに行った時のことである。トイレは清潔であったが、入って驚かされたのは、蓋のない便器の中に、人の前腕ぐらいの太さも長さもある、巨大な便塊が横たわっているのである。誰かが流し忘れていったものであろう。こんなに大きな便塊を見たことがない。どんな巨人が残していったのであろうか。余りにも大きいので、流れないのだろうかと思った。

 私のものなど、歳をとったためもあるかも知れないが、親指の太さぐらいしかないが、それとは全然比較の対象にもならない大きさである。世の中の人間の体格のばらつきは、外見だけでも、余りにもと言って良いぐらい大きい。最近は身長が2メートルを超えるような人も見かけるようになったが、反対に、かってインドの空港で見たネパール人らしき人達のように、家族が皆揃って1メートルぐらいしかない人たちもいる。

 体重にしても、昔アメリカにいた時には、私と女房を足したよりも重い人が同僚にいたことを思い出す。反対には、餓死寸前のような骨と皮だけのような避難民の姿も見られる。体格にそれだけ差があれば、当然、食べるものも、出すものも、それに伴って違ってきて当然であろう。 

 そう考えれば、この国境のトイレで見たものも、いちいち多くの人の排泄物を調べているわけでないから知らないだけで、決して特別なものではなく、単に世界のトイレで流されている、想像を超えてバラエティに富んだ排泄物の一つに過ぎなかったのかも知れない。

 そうは言うものの、未だに、それを見た時の「あれが同じ人間のものか」という強烈な印象は、いつまで経っても忘れられないものである。

取り残された小さな日本人

 毎月一度は箕面の滝まで行くことにしてきたが、秋の紅葉を見るために、11月だけは別にもう一回、昼の時間帯に、行くことにしてきた。

 週末は混んでいるから避けて、今年は11月17日の火曜日に出かけた。ところが、箕面の駅を降りて驚いた。平日なのに、駅前広場は人で一杯である。何事かと思って見ると、吹田市のハイキンググループであろうか。大勢がそこで集まって、箕面の山へ出掛けるようである。紅葉が見頃なので、その他の人たちも多い。

 秋晴れで、あまり天気が良いので何処かへ出掛けたいところだが、コロナが怖いし、人混みは避けたいので、手近な所ということで、箕面は例年以上に人が多いのかも知れない。紅葉はまだ少し早いぐらいだが、月の初めよりはずっと鮮やかになっている。

 これだけ人が多いと、人混みの中を滝道を行くのは嫌なので、川の反対側の裏道を行くことにした。それでも追い抜いていく若い人や、降りてくる人などが結構いた。それでも、滝道のようなことはないと思っていたら、途中で少し休んでいる時に気がつくと、すぐ後ろから大勢の団体客が長い列を作って上がってくる。先ほどの吹田の連中である。それを避けるため道端に避けてやり過ごす。

 マスクをしている人が多いが、マスクをしていない人も結構いる。お互いにぺちゃくちゃ喋りながら歩いている人たちも結構いる。あれではクラスターも起こりかねないのでは、などと思いながら、集団が通り過ぎるまで待っていた、こちらが老人なので、具合が悪くて休んでいるのかと思い、「大丈夫ですか」と声をかけられたのには驚いた。

 一団が通り過ぎても、立ち止まって喋っている男が二人いたので、見ていると、団体の世話係のようで、遅れて上がってくる仲間が来るのを待って、最後を確かめて後について上がっていった。団体の世話は大変だろうなと同情する。大勢の中には色々な人がいて、横道へそれたがる人や、遅れて来る人などが必ずと言っているものである。

 そんなことを思いながら団体が去った後、少し距離をとって進んで行った。やがて、百段近い長い階段を降りて、しばらく行くとこの道は橋のところで滝道と合流する。そこからは嫌でも大勢の人と一緒になる。しばらく行ったあたりで、初め私は気がつかなかったのだが、滝道から来た小柄な老人が一緒になっていて、女房に声をかけた。私を見て同じ年頃かなと思ったらしい。

 「90ぐらいですか」と。女房が92歳と答えると、「私も92歳」と言う。私が引き取って、「同じ年ね、昭和3年。何月生まれ?」と聞くと「10月」「と言う。「私は7月生まれ、3ヶ月早いね」と。相手が小さいので、「女房がやっぱりあなた方ぐらいの人は戦争で大きくなれなかったのね」と言うから、それを伝えると「昔は152センチあったが、今は4センチ縮んで148センチ。あんたは164〜5センチ位かね」と聞き返す。小さい人から見れば私でも大きく見えるのかも知れないと喜んだが、正直に「158センチ」と教える。

 お互いに小さくて、同じ年だということを確かめると、急に親近感が湧いてくる。爺さんも元気で、結構速く歩いている。「お互いに元気でなあ」と言って別れた。

 最近の日本人は平均して背が高くなったものである。一頃は若い人だけの現象だったが、最近はそういう人達がもう歳をとってきたので、中年の人まで、日本人は皆、背が高くなってしまった。戦争を知る世代はもう時代遅れになってしまい、背の低い我々二人の卒寿翁だけが、背の高い新日本人の中に、取り残された感じとなってしまった。

 まだ六〜七十代の頃、同級生たちと一緒に歩いているのを見た女房が、「あなたぐらいの年代の人は皆そのぐらいの背格好の人が多いのね」と言ったことがあったが、私の年代でも私は小さい方ではあったが、同じ位の者は幾らでもいた。

 前にも書いたが、私の若い頃は、電車のドアにつかえるような人は西洋人と見てよく、日本人でそんな人を見たら「ウへー」と言ってびっくりしたものだったが、今ではそんなのは日常当たり前の光景になってしまっている。

 最近は女性でも、ドアにつかえる背の高い人も見かける。もう随分前のことになるが、日本で始めてミニスカートが流行った頃は、日本の女性はまだ6頭身ぐらいの人が多く、足も大根足と言われていた頃なので、何も背の低い女があんな格好をしなくてもいいのにと思ったものだったが、最近の若い女性のスタイルの良いこと。八頭身は当たり前だし、足がスラット長く、見ただけでも惚れ惚れするようなスタイルの女性が溢れている。

 いつの間にか時代が変わってしまった。もう90歳も過ぎれば、骨董品のようなものであろうか。昔は憧れに過ぎなかった”理想的”な体格の人が、現実の人達の平均的な姿になったしまったと言っても良いぐらいである。

 大勢いた同年輩の友人たちも、もうあらかた死んでしまって、会う機会もなくなっていたところに、ひょっこり私よりも小柄な同年生まれの老人と会話を交わしながら、周囲を歩く多くの背の高い日本人達と比べて、最早我々の世代は肉体的にも時代遅れになってしまった昔の日本人なのだなと感じさせられたのであった。

 

インパール作戦のようなコロナ対策

 いよいよコロナの第三波がやってきそうである。ところが、もはや政府は最早GoToは止められない。仕方がないから、「静かなマスク会食」とか、「小さな五つ」などと個人の注意や、「褌を締めなおせ」などといった精神論しか言えない。戦争末期の大失敗のインパール作戦そっくりではないか。

 誰が考えても、人の移動が感染を拡大することがよく分かっているのだから、先ずGoTo を止めて、方策を考えるべきところなのに、経済優先で前倒しで始めたGoToは、一旦始まれば、もう急には止められない。大艦は素早く向きを変えられないのである。

 そもそも、コロナが収束した後にする筈だったGoToを、利権がらみに、前倒しして始めたのが間違いであった。まだコロナがくすぶり続ける中でGoToを始めれば、コロナの再燃が起こるであろうことは素人にも容易に想像出来たことであったし、そんな大掛かりな政府の事業は色々な利害が絡むので、一旦決まれば、そう簡単には変えられないことも、初めからはっきりしていたことである。

 こう見ると、今の政府の政策は、初めから負け戦とわかっている、インパール作戦 とあまりにも似ていることに気が付く。あの時も、一旦大本営で決まった作戦は容易には変えられなかった。勝機がないことがわかっていても、最早猪突猛進するよりなかったために、どれだけ多くの兵士の尊い命が失われたことであろうか。それでも総指揮官の牟多口将軍は部下を見捨てて、自分だけは日本へ逃げ帰っているのである。

 今回の相手は世界中に蔓延しているコロナである。GoToに的確な手を打たないで、子供に言うような個人的な注意だけで、どれだけ効果があるのであろうか。国民は言われなくても自分の体を守るために手を打ち、注意しているのである。

 それにマスクをしたまま、左手でマスクを片方外して、箸で飯を口に入れ、マスクをし直して喋る、というような食事を日常的に続けられるものだろうか。「五つの小」も個人的な注意としては悪くないが、政府の施作としては、もっと大きな船を動かすような施作でないと有効ではないであろう。ひょっとして、政府は初めから責任を国民に押し付けて逃げ切ろうとしているのではなかろうか。

 先ずは政府が社会的に有効な施策を打ち出し、それに個人的な注意の喚起をつけたすのが政治ではなかろうか。この際は思い切ってGoToを止め、早めに補償を伴った自粛を要請するなりして、改めて、徹底的なコロナ対策に取り組むべきであろう。早くコロナを制圧すれば、それだけ早く経済も回復出来ることを知るべきであろう。