東京オリンピックは諦めよう!

 今年はいよいよ東京オリンピックだというので、年が明けてからは、普通の新聞までがまるでスポーツ新聞かと思われるぐらいスポーツ記事ばかりといっても良いぐらいになり、テレビもいつつけてもスポーツやっているというぐらいスポーツが大きな割合の時間を占めていた。

 そこへ突然のコロナビールスの出現である。今は朝から晩までコロナビールスの話ばかりで、今こそ大事な時だと政府は突然3月初めからの学校閉鎖を打ち出して関係者を混乱に巻き込んでいる。多分に安倍首相の人気回復のためのパフォーマンスの嫌いがあるが、これまでこのコロナビールスの件について日本政府はオリンピックを念頭に、何とか問題を小さく見せようとして、コロナの水際作戦に失敗した結果がこれなのである。

 感染者の数を見ても、全国的に広がっているのに東京や大阪の感染者数が異様に少ないと思っていたら、案の定、いくつも感染集団おクラスターが現わになってきている。PCR検査を故意にしないようにして実態を隠そうとしていると思えてならない。韓国が多く日本が少ないのも韓国が積極的にPCR検査をして感染者を掘り起こしているのに対して、日本では出来るだけPCR検査を重傷者や接触者に限って、感染者数を抑えにかかっているのではなかろうか。ここまで広がってしまっては、最早隠しおおせるわけはなく、検査体制などをもっと充実させて、正確な発生数を明らかにして対処すべきであろう。

 最早、東京オリンピック開催にこだわる時期は過ぎたと言わねばならないのではなかろうか。今更オリンピックを取り止めた場合の損失は計り知れないものがあり、経済的な打撃は大きいが、コロナビールスの感染拡大はまだ始まったばかりである。やはり経済的な損失より、国民の命を守るのが優先すべきは当然である。

 こういうビールスの感染拡大はいくら感染が効率よく抑えられたとしても、SARSやMARSの例を見ても、収束するまで少なくとも半年ぐらいはかかるものである。早くても7月ぐらいまではかかるものと見ておかなければならないであろう。それに、収束しかかかった時にオリンピックなどを強行すれば、再燃の恐れの強いことも考慮しておかねばならないでろう。外国から訪れる選手や観客がどう反応するかの問題もある。

 オリンピックにはすでに巨大な投資がされているし、開催による経済的な効果も巨額なものなので、政府や東京都、JOCなどは当然今の段階では強行すると言うのは当然であろうが、客観的に見れば、辞めざるを得なくなる可能性も非常に高いと見ておかなければならないだろう。

 5月ぐらいが最終決断の時期だとか言われているが、5月頃に今の感染の広がりの収束の目処が付く可能性は少ないのではなかろうか。いかに効果的に抑えられたとしても、5月に結論を出せる段階になるとは思い難い。その時に無理な判断をしないためにも、今からオリンピック中止の場合の諸問題を真剣に考え、それに対する対応法を進めていかなければならないのではなかろうか。

 今の段階から、オリンピックの中止の場合の方策を考え、それを進めながら、幸い意外に万事がうまく納まってくれて開催出来るようになれば儲けものというぐらいに考えて対処しておけば、中止になった場合のショックやその損失も少なくて済むし、開催が可能になった場合の喜びも大きくなるのではなかろうか。

 現段階でオリンピック開催の可能性については、楽観論や希望論に陥ることなく、客観的に見て、非常に厳しいものがあることを認め、強行出来る条件や、出来ない場合の損失の大きさ、その場合の対処の仕方などを今から綿密に考慮して計算しておかなければならないのではなかろうか。

 

マスクより手洗いを

 新型肺炎( COVID19)が流行り出してから、街はマスク姿のオンパレードである。

マスクをしている人がマスクをしていない人を咎めて喧嘩になった話までテレビでしていた。

 この時期には風邪でなくとも、花粉アレルギーのためにマスクをしている人が多いのは例年のことであるが、何故か日本では風邪の予防は第一にマスクと考えている人が多いようだし、マスクの流行に便乗して、スッピンの顔隠しにマスクを利用している人もいる。寒さ対策、風対策にマスクをしている人もいる。そういう人の中には、外を歩いている時にはマスクをしていて、電車の中では、楽なので、マスクをずらして鼻や口を出している人もいる。

 どうも日本人はマスクがお好きなようである。我が家の女房も、その流行の波を利用してか、近くのスーパーへ買い物に行く時には、化粧の代わりにマスクをして出かけているようである。

 そんなわけで先日この欄にも書いたが、どこへ行ってもマスクは売り切れである。マスク不足で、病院その他の本当にマスクが必要な所でマスクが足らなくて困るので、政府もマスクの利用や買い溜めに注意を呼びかけているぐらいである。

 このCOVID19は飛沫伝染であるから、患者やビールスを排泄している人の近くに行かなければ、直接感染することはないわけである。人混みの中や、電車その他の狭い閉鎖された空間以外の、普通の通りなどのオープンな空間ではマスクをする必要は全くないのである。

 ただし、中国ではエロゾールといって、飛沫より小さな粒子による感染も否定出来ないという話もあるので、空気伝染ではないが、閉鎖された空間に止まる時には念の為、マスクはしておいた方が良さそうである。

 それより、感染は間接的な接触によることの方が遥かに多いと考えられている。咳などとともに排泄されたビールスが、直接というより、多くは排泄した人の手、場合によっては衣服をなどを介して、例えば、ドアのノブとかエレベータのボタン、つり革、手摺り、その他諸々の物体に付着して、それらの汚染を知らずに、他の人が触って感染るという、接触感染が主流になっているように思われる。

 こうして付着したビールスが、他の人の手を介して、その人の鼻や口、目などの粘膜から侵入して感染することになるというわけである。

 従って大事なことは、危険な場所を出来るだけ直接素手で触らないことと、知らずに接触していることも避けられないので、出来るだけ手を洗って、知らずに着いたビールスを洗い流すことである。マスクより手洗いが大事なのである。

 それと、手を介して粘膜から感染するのであるから、出来るだけ手を肩から上に上げる機会を少なくして、手で目や鼻、口などに触らないようにする工夫をすることも良いであろう。

 人は無意識に手で顔を触ることが多いものである。特に口や鼻や目を手で触らないようにすることは言うほど優しいことではない。マスクなどしていると、その着脱などに絡んで、かえって顔を手で触ることが多くなりやすいかも知れない。

 そう言う意味で、手を出来るだけ頻回に洗うことが感染防御に最も大事なこととなる。出来るだけ不要な所には手を触れない。つり革やノブやボタンなどには出来るだけ直接触れないのも良いであろう。

 しかし、どれだけ注意しても、見えないビールスとの接触を100%完璧に断つことは出来ない。それでも、人体には色々な免疫機構もあるわけだし、ビールスに接触する機会と量を出来るだけ少なくしておけば、感染の可能性を減らせることになるであろう。

 さらには生活の注意をして、体の抵抗力を落ちないようにしておくなども加えて、大事な感染対策のポイントさえ押さえておけば、必要以上に神経質になってビールスとの接触の可能性を完全に絶つことまでを考えなくても良いであろう。

いくら何でももうやめてくれ

 先日テレビをつけたら国会中継をやっていた。どこの国でも政府と野党のやりとりにはいろいろあるのであろうが、最近の日本の政府の対応はあまりにも貧弱で、議論がかみ合わないどころか、政府がまともな答弁が出来ず、子供の言い訳のような、誰が聞いても嘘じゃないかと思わせる返答ばかりで、見ているだけで腹が立ってくる。

 逢坂議員が「前代未聞、言語道断。国会が馬鹿にされている。私物化、公文書廃棄、隠ぺい、改ざん、ねつ造、ごはん論法。終わってる、でたらめだ。そして委員長の仕切りも相当問題がある」と議場で怒りを述べていたが、まさにその通りで、国民はもっと怒るべきである。

  この内閣は歴史上最長になったとか言われるが、やったのは悪いことばかり。安保法制で憲法を破壊し、2度の消費税増税で暮らしと経済も破壊、米国に言われるままに大量の武器を買い、辺野古新基地強行で、民主主義と地方自治を破壊、さらにはモリカケ、桜でモラルまで滅茶苦茶にしてしまった。新型肺炎(COVID19)への対策も誤り、世界から非難の声も上がっている。

 そればかりか、自分が必ずやり遂げると言った北方領土問題も拉致問題も進んでいない。経済でも失敗続きで、今や誇れる大企業もなく、労働者の平均給与は下がり、消費は冷え込んでいる。そんな中で、政権内での権力を官邸に集中して独裁化を進め、官僚に忖度させて、私利私欲に走っているのが今の安倍政権の姿と言えるのではなかろうか。

 森友学園問題での豹変ぶりや、加計学園問題での公私混同に続く、桜を見る会に絡むあまりにも露骨な私利私欲に絡んだ行動、それらが明るみになっても官僚に忖度を強いて、見え透いた嘘で乗り切ろうとする強引さにはただ呆れるばかりである。

 桜を見る会問題をまとめてみれば、どう見ても、これはもう公職選挙法違反であり、その上に東京高検検事長の定年延長問題では、国会で決められた法律の解釈を誤ったのを、国会答弁を変えてまで解釈を変えたと強弁し、法の支配さえ踏みにじむものである。

 かっての国会での吉田首相のバカヤロウ解散を思い出すが、安倍首相の罵詈雑言のヤジだけでも十分それにあたるであろうが、それ以上に次から次へと出てくる「嘘」を正当化する屁理屈は、あまりにも国会を、ひいては国民を馬鹿にするものである。もういくら何でも、ここらで安倍首相にやめてくれと皆で声をあげて怒らなければならない。

 仮に、この人がこのまま政権を続けて、この上憲法改正でもするなら、それこそ本当にナチス政権の二の舞で、日本国はもう終わり。もう一度破滅するよりなくなるのではなかろうか。考えただけでも恐ろしいことである。

 

 

 

 

 

 
 

 

 

我々は彼らのウソを知っている

 朝日新聞編集委員の書いているコラムに、今流行の新型肺炎COVID19に関して、中国政府の対応を批判した内容が載っていた。そこに、国家が事実とウソの線を引く中国に関して、ロシアのノーベル賞作家の故ソルジェニーツインの言葉として、中国のネット上を彷徨うとされる詩が紹介されていた。内容はこうである。

我々は彼らのウソを知っている

彼らも 彼ら自身がウソを付いていることを知っている

彼らは 我々が彼らのウソを知っていることを知っている

我々も知っている 彼らは我々が彼らのウソを知ることを知っていることを

それでも彼らはウソをつき続ける

 これは勿論、中国での中国についての詩であるが、これを読んで「あれ」と思ったのは私だけであろうか。今の日本の国会でのやりとりにぴったりの詩ではなかろうか。

 森友学園加計学園の問題の時もそうだったが、現在議論されている「桜を見る会やその前夜祭」をめぐる政府の答弁、それに検察局の人事をめぐる問題まで加わって、誰が聞いてもウソとわかる政府の言い訳がいつまでも続いている。国や、意味合いは違っているが、まさにこの詩にぴったり当てはまるではないか。

 もういい加減にウソの答弁で国会を混乱させるのはやめて欲しいものである。国会の品位を落とし、国民を愚弄するのもいい加減にしろと言いたい。

 

老いが攻めてくる

 いつだったかの新聞の”なにわ川柳”欄に、「叫んでも泣いても老いは攻めてくる」というのが載っていた。

 私はやがて九十二歳になるが、昨年の誕生日頃まではだんだん歳をとってきた自覚はあっても、自分では八十歳頃とあまり変わらない生活を続けてこれたと思っていた。

 まだ決まった仕事も月2〜3回ぐらいはこなせたし、毎朝の体操、毎月の箕面の滝参り、近くの散歩も続けていたし、趣味の絵や写真の集まり、ギャラリー巡りや映画、演劇、コンサート、小旅行など同じようなペースでこなせていた。

 もっとも箕面へ行っても、若い人に追い越されるようになったし、何処かへ行った序でに他の所へもといったことが億劫になり、そのまま帰ることが多くなったりというような変化はあったが、普通の日常生活に差し障るようなことはなかった。

 八十七歳の時に心筋梗塞になったが、それも冠動脈の少し末梢寄りの部位の狭窄だけで、その時調べて貰った結果で、他の血管には異常なく、血圧も動脈硬化も糖尿病や肥満など悪い指標が何も見つからなかったので、かえって健康に自信をつけたようなものであった。

 そんな訳で、老いが徐々に進んで来てはいても、特に目を見張るような変化もなく、普通の日常生活を続けてこれたが、どうも昨年の夏頃から老いが俄然攻勢に出だした感じである。

 昨年の夏は地球の温暖化が問題になったぐらい、いつまでも酷暑が続き、今年のオリンピックのマラソンが札幌に変更されるようなことまであったが、そのような暑さのためか、9月頃から全身倦怠感が強く、夏の疲れが仲々取れなかった。また心筋梗塞でも起こったのかと心配もしたが、涼しくなるとともにいつしか薄れ、忘れかけていた。

 ところが十月半ば頃からである。老いが俄然攻勢に出て来たようである。どうも脊椎管狭窄症が起こってきたのか、少し歩くと右足が痛くなり、立ち止まらなければならなくなるが、少し休むとまた歩けるといった状態になって来た。

 10月半ば頃から比較的急に起こって来たので、あるいは前立腺か何処かのガンの骨転移でも出来、神経を圧迫するようになった可能性も考えてMRIの検査もして貰ったが、幸いガンの心配はなく、脊椎管狭窄の程度も軽いと言われ、そのまま様子を見ることにした。

 家の中での行動では足の痛みもなく、生活には何ら支障はなく、従来通りの生活を続けていた。出かけた時の間欠歩行も、多少の変化はあっても基本的には変わらず、時々休みながら歩かねばならなかったが、家から駅までぐらいは何とか歩けたし、箕面の滝までさえも間で4〜5回休めば行くことが出来た。

 まあこのぐらいなら歳からいって仕方がないかと思って、老いと妥協していたが、この2月の10日前後から、老いが俄然暴れ出し、攻勢に出て来たのか、家の中の運動までもが妨げられるようになり、右足の痛みやしびれ感がずっと続くようになり、外での歩行も急に悪くなり、まっすぐ歩こうとすると、すぐに右足が痛くなり立ち止まらなければならなくなり、家から駅までの4〜500米さえ、まともに歩けなくなり、とうとう人との約束を守れず、途中で家に引き返さねばならないようなことにまでなってしまった。

 家の中で動くだけでも右足に痛みを感じ、外での歩行はさらに悪く、道路の電信柱毎に捕まっては立ち止まり、右足を上げてしばらく休まなければ次へ進めない状態であった。自分では、まるで犬が電柱毎に立ちションをしているようなものだと苦笑せざるを得なかった。

 それでもその日が一番悪かったと見えて、その2〜3日後に川向こうのホールで映画を見ることにしていたので、行きは駅まで行って、タクシーを拾い、会場まで行ったが、帰りは4〜5回休みを入れながら、何とかホールから家まで1キロぐらいの距離を歩いて帰った。

 ただし、まっすぐな姿勢では無理で、かなり前屈姿勢で腰を折り曲げてでないと歩けなかった。これまで老人が腰を曲げて歩いているのは背骨の骨粗鬆症のためとばかり思っていたが、骨が悪くなくても脊椎管狭窄症のために腰を曲げて歩く老人もありうることを初めて知った。

 しかし、これまで真っ直ぐに背中を伸ばして歩いていたのが、体を屈めないと歩けないのは屈辱である。やっぱり歩くには体を真っ直ぐ起こして姿勢正し、威厳を持って歩けないと恥ずかしい気がしてならない。

 今や、急に老いに攻勢に出られて我が老体は受け身一方である。そうかと言って、こちらから反撃に出る力はもうない。何とかこれ以上の攻撃を止めるか、弱めて貰って、少しでも平穏を維持出来るようにするのが精一杯という所である。

 こうして次第に老いに食い荒らされて命を縮めていくのであろうか。人にはそれぞれの寿命があるものである。いくつまで生きれるか本人には分からないが、もう老いのなすがままに任せるより仕方がなさそうである。

 最早「気がつけば周りは何処も老いたばかり」である。どっぷり老いに浸かってしまっているからには、こちらから老いに反撃するようなことは出来もしないし、望みもしない。出来るだけ、老いがそっと静かに攻めてくれるよう願うばかりである。その結果、あわよくば、あまり日常生活でだけは苦しまないで、命が終える所まで行けるよう、お手柔らかにと願うばかりである。

老人残酷物語

 少子高齢化が進み、人口減少、殊に生産年齢の人口が減り、労働力の縮小によって社会保障制度の担い手が不足して制度の維持が困難になるというので、政府が目をつけたのが老人である。

 「老人を働かせろ」というのが政府の暗黙の企みなのである。「元気な老人が増えた。長生きになった。百歳時代だ」とおだてるが、本音は「高齢者が多すぎる。要らない。邪魔だ。社会保障費が大変なのだ。支える現役世代の苦労を考えろ」という社会の風潮を煽っているのである。

  老人に言わせれば、「現役時代には長時間労働で働かされ、心血管病で倒れたり、鬱やその他の精神病で過労死で命を落とした人も沢山いた中を、何とか乗り越えて、心も体もすり減らして、やっとやれやれ定年を迎えたんだよ。死ぬ前に、この世でちっとは休ませてくれや。それを楽しみに無理して生きて来たんだよ。」と言いたいところなのである。

「百歳まで生きるとは言わないから。そんなに迷惑をかけるつもりはないから、ここまで来たらちっとは楽させてくれや。」とも言っているようだ。百歳まで生きる人は昔より増えたというだけで、そんなに多くない。もっとも生きていても元気な人は少ない。それより定年になってやれやれと思う頃が、ガンになったり、心臓や脳卒中で死んだり寝たきりになったりする人が一番多くなる時期なのである。

 一概に老人といっても、老人は若者と違って人によるばらつきが大きいもので、元気な者もいるが、病人も多いし、病人でなくても体のどこかが悪くて一人前に働けない者も多い。認知症やその候補者も多いことなどをも考えに入れておかねばならない。 

 そんな老人を政府は働かせようとしているのである。政府はあくまで希望すれば七十歳まで働ける機会を確保する。政府は機会を与えてやるという態度である。体の弱い老人のためには不規則な労働環境も考えるなどともいっている。そうは言っても、老人を働かせるのは簡単である。働かなければ生きていけないようにすれば良い。いやでも進んで働いてくれることになる。

 定年を延長するというが、給料は下がるし、年金の支給は遅くなる。貰えるお金は減る。もともと給与が少なく、蓄えの少ない老人は働かざるを得ないのである。ヨボヨボでも老骨に鞭打ってでも働かされることになる。 

 老人はAIなどの新しい環境にはついていけないし、何でもすることは遅い。若者に命令され、能率の悪さを罵られ、若造に怒られて、老人のプライドが許さない。邪魔者扱い、いじめの対象にもなるなど、老人の働く環境は決して恵まれたものではない。

 つい愚痴の一つもこぼしたくなる。安倍首相の好きな戦前の 「大日本帝国」は「家族制度を大事にして、老人をもっと敬っていたぞ」と言いたくなる。2019.12.21の新聞の川柳にこんなのがあった。「働けよ払えよそしてコロリ逝け」これが政府の本音ではなかろうか。

 

人生100歳時代は幸福か?

 最近政府は少子高齢化で老人が増え若年者が減って、社会保障の若年者の負担が増え、老年者の医療や介護費が増えたことへの対策として、全世代型の社会保障なるものを打ち出してきている。その中で、人生100歳時代とか言って、元気な老人が増えたことを仕切りに強調し、65歳の定年を過ぎてもまだ働きたい人が多いので、70から75歳ぐらいまでは働けるようにし、老齢年金の支払いを遅らせ、老人医療費の負担を増やそうとしている。

 人生百歳時代といえば、一見老人を寿ぎ、豊かな老後を尊重するように聞こえるかも知れないが、まともに聞いてはならない。子供が減り労働力が不足し、他方で老人医療費が増え、介護する人が不足し、社会保障制度が行き詰まってきたために、全世代型社会保障などと言って、老人への支払いをケチり、老人をもっと働かせて、老人の社会保障費を切りつめようとする算段なのである。

 100歳老人というが、実際に100歳まで生きられる人はどれぐらいいるのだろうか。昨年の統計数字では、100歳を超える人は近年増えたと言っても、およそ7万人で、その9割は女性である。その中で、元気で独り立ちして生活出来る人はごく僅かで、ことに男性では例外的にしかいないようである。

 今後100歳を迎えるぐらいの世代が生まれた時代は、毎年おおよそ200万人の赤ん坊が生まれて、100万人が死に、自然増が約100万人だったから、それを見ても百歳まで生きている人がいかに稀であるかが分かるであろう。百歳超えが7万人といっても何年かの累積数であるから尚更である。

 平均寿命で見ても、男は80歳、女は86歳であるが、一人で身の回りのことをこなせる健康寿命でいうと、男71歳、女76歳ということになり、その差額は当然自立しては暮らせないことを示しているわけだから、百歳まで生きるのが如何に大変なことだということがわかる。

 そういうことから見ても、政府のいう百歳時代というのは、単なるキャッチフレーズであり、社会的に労働力の対象としての最高年齢はせいぜい健康年齢ぐらいのものだと判断しなければならないであろう。大雑把に言って、男70歳、女75歳ぐらいが労働力の対象となる限度と考えるべきであろう。

  しかも、これは平均値に過ぎず、政策の対象となる場合には、何事も得てして平均値で考えらガチであるが、老人になるほど体の条件のバラツキが大きくなるもので、そのばらつきは若年者とは本質的と言っても良いほど異なるものであり、老人を対象とする場合に、若年者同様の平均値で判断しては大きな誤りを犯すことになることにも注意すべきである。

 人生百年時代は今なお夢であり、目標とはしても、それを根拠に政策を考えるべきではない。政府のいう人生百年時代は幸福どころか、やっと巡ってきた老人の静かな生活を奪い、老いた体に鞭打って働かされ、年金まで減らされて、肉体的な衰えに、経済的貧困までおい被さって命を終えねばならない「姥捨て」の世界となるのではなかろうか。