二人の老人の死

 昨年の暮れに親しい人を二人続けて失くした。

 一人は中学時代(今の高校)の友人で、家族ぐるみで付き合っていたが、夏頃、前立腺癌だと言って病院を受診したその足で、そのままペインクリニックがやっている緩和病棟のような施設に入り、11月末にそこで亡くなった。

 私と同じ歳だからもう90歳を超えているし、病院受診時にすでに骨にまで広範な転移があったので、抗がん剤などの治療は一切せず、2ヶ月間、痛みなどの苦痛にだけには対応してもらって、あとは自由にゆっくりとその施設で暮した事になる。

 その間3度ばかり施設に見舞いに行ったが、次第に衰えていったが、最後までひどい痛みで苦しむこともなく、静かに最期を迎えることが出来た。

 もう一人は、私より9歳上の先輩である。こちらの場合は、夏に100歳のお祝いをした後、姿を見なくなったのでどうされたのか気になっていたら、肺炎を起こし、近くの病院に入院していたが、そのうち心蔵に雑音があることがわかり、阪大病院に転院した由であった。しかし、結局は積極的な治療は出来ないということで、再び別の病院に転院して、そこで亡くなられた。

 直接タッチしたわけでないので、詳しいことはわからないが、心臓の雑音というのは肺炎で入院していたというのだから、心内膜炎を起こして弁膜の障害を起こしたものであろうか。あるいは老人に多い大動脈狭窄でもあったのだろうか。

 それにしても、100歳の肺炎を起こした老人に、心臓の外科的処置を考えたのはどうしてだろうか、疑問に思われる。転院してまで無理な治療を考えるよりも、初めに入院した病院で感染に対する治療の他は、対症的な処置に留めておいた方がよかったのではなかろうか。家人も転院には反対の意向だったとかとも聞くので尚更悔やまれる。

 この両方の経過を見て、どちらが良かったのかは、にわかには判断しかねる。私なら、もちろん友人の方だが、先輩の方は詳しい事情がわからないので、本人の希望や親族の以降周りの関わった人々の判断で良くあれかしと思ってされたことであるから、それに対して外からとやかくは言いたくない、

 ただ、最近老人の医療費のことも絡んで老人の医療のあり方が問題視され、無用な終末期医療をするなとの声が強くなってきているが、基本は本人の意思に従うべきである。

 色々な人がいて色々な考えがあるように、死に方やそれに至る医療に対する希望も多様である。政府や周囲の圧力によって終末期医療が決められるべきではない。あくまで死にゆく人の意思によって色々な死に方があって良いのであろう。

沖縄は日本の半植民地か?

 沖縄は琉球王国として独立国であった。それがヤマトからの侵略を受け、処分されて、約500年続いた王国は潰され、明治になって沖縄県として、我が国に併合されてしまった。

 その後はあらゆる面で、沖縄の日本化が進められ、沖縄の人には日本語が強制され、学校で沖縄弁を使うことを禁止された。産業も内地に統制され、サトウキビなどの栽培を押し付けられ、内地より貧しい生活を強いられてきた。

 その挙句の果てが、あの戦争による犠牲である。戦争では、本土決戦を引き伸ばすために、沖縄戦を出来るだけ長く持たせるようにしたため、住民の犠牲も増え、人口の四分の一が死ぬという悲惨な結果を齎らした。

 そして、戦後は長期間アメリカの統治下にあったが、米軍に銃剣で追われて土地を奪われ、巨大な米軍基地とその活動で、平穏な生活を追われ、米軍の事故や犯罪で苦しめられ、産業発展までも阻害され続けてきた。

 面積で国の0.5%しか当たらない沖縄に、全国の基地面積の70%以上の基地が集中しているが、それには、政府が国内での米軍基地への反対闘争を和らげるために、沖縄に米軍基地を集中させた経緯などのあることも忘れ得ない。

 こうして、長年にわたる沖縄の住民の犠牲や反対を強引に押し切り、米軍に言われるままに協力して基地を維持強化してきたのが日本政府なのである。

 最近の辺野古基地建設のやり方を見ても、内地では出来ないことを政府が金と力で強行しているのは、最近のニュースが示している通りである。政府の対応の仕方は内地とは明らかに違っている。

 本来のヤマトである内地のためには、沖縄を犠牲にしても良いという発想、沖縄は周辺諸島であり、戦争でアメリカに占領された島で、沖縄の住民より日本全体を考えた時には、沖縄を犠牲にしても仕方がないという発想が、未だに政府にもあるに違いない。沖縄を日本の半植民地としてしか見ていないのである。

 那覇に住む女性が留学先の韓国で「我々は日本から解放され、奪われた言葉を取り戻した。沖縄は本当に気の毒だ」と言われたそうである。(朝日新聞2018.12.28、社説余禄、箱田哲也氏)

 「沖縄独立論」という本も出ているが、これだけ虐められれば、出来れば独立して昔の「琉球王国」に戻りたいという郷愁に駆られたとしても不思議ではない。

 同じ国民として、沖縄の人々にも我々と同等な平和で健康な生活を保持する権利があると信じる。沖縄の運命に無関心ではおれない所以である。

大坂なおみ選手の優勝おめでとう! 

 テニスの4大選手権である全豪チャンピオン選手権大会で大阪出身の大坂なおみ選手が見事に優勝した。試合の中継を見ていて、初めは3位にでもなれば目出度いことだと思っていたが、本当に優勝してしまった。先ずは心からおめでとうとと言いたい。

 全米の大会で優勝してからにわかに有名になり、いつしか日本の代表選手になって注目を浴びるようになったが、お父さんがハイチ人の混血で、アメリカの生活が長く、英語が主言語で、日本語は一般の日本人ほどうまくないので、初めの頃は本当の日本人ではないと言われたりしていたが、今回の優勝ですっかり日本人とされて、新聞でも今度の優勝を一面トップで伝えるような有様である。

 ただ少しきになるのは、北海道に住んでられる祖父はテレビに出るが、お父さん、お母さんはどこに住んでれれるのか、全く報道もされないことである。また、スポンサーの日清食品が広告に彼女に写真を利用したが、わざわざ肌を白くしてのせ、外国からもクレームがあり、その広告を廃止したようなことも起こっている。

 世界選手権で自国の選手が優勝することはその国民にとっても喜ばしいことであるが、テニスなどはあくまで個人の競技であり、国として争うものではない。大阪選手が優勝したことは喜ばしいことであり、その彼女が日本の出身者であることはその喜びを倍増するものではあるが、決して国家を代表して戦っているわけではない。

 テレビで試合を観戦していると、競技場で日の丸の旗を振ったり、必勝と書かれた日の丸印の鉢巻を巻いて応援している人の姿をわざわざ大写しにして見せていたが、彼女は日本のために戦っているのではない。自分のためにテニスをしているのである。彼女の名前が優先すべきである。

 日本の観戦者に認識しておいてもらいたいのはこの点である。来年のオリンピックを控えて、スポーツを国威発揚に利用しようという傾向が強いからである。今から「ニッポン、ニッポン」の声が聞こえ、日の丸の旗がちらついてくる。

 オリンピックでも、日本の選手にぜひ頑張って良い成績を収めて欲しい。しかし、それはあくまでも出場する選手の栄光を期待するものであって、日本という国が「金が幾つ、銀が幾つ」という競争ではない。あくまでも選手個人に対する応援である。オリンピック委員会も国威発揚への利用を批判している。

 国家の選手などに対する奨励金もあくまでも選手や競技そのものに対するものであって、国威発揚を通じての国家への貢献を期待するものであってはならない。スポーツはいずれもあくまで個人レベルのもので国家が介入すべきものではない。

 これを確立しておかないと、選手に要らぬ圧力をかけることになり、選手の実力発揮への障害にもなる。選手の成績如何によって、国民の選手に対する人間としての評価まで変わりかねないからである。

 大坂なおみ選手もそうだが、その他にも今や大勢のの混血の選手が日本人選手として寄与するようになっているので、ともすれば偏狭な民族主義に走りがちな国民世論があるだけに、注意が必要だと思われる。

 現に、相撲界でも、「日本人力士」と「日本出身力士」が区別されている社会である。大坂選手も「本当の日本人か」と言われたり、写真で肌の色を白く変えられたりしていることが起こっている。

 成績が良い時は日本人として褒められ、そうでなければ本当の日本人から排除されるようなことが起こらないように、日本国籍があれば、どんなに個人差があっても同じ日本人として皆を同じように受け入れることがスポーツにも必要であることを認識すべきである。

大坂なおみ選手がこれからも日本の選手として活躍し続けられるようにテニス以外の日常生活が自由に暮らせるような環境を維持してあげて欲しいものである。

 

危ない子供の喧嘩

 自衛隊機に対する韓国軍艦のレーザー照射事件が、ただでさえ戦時中の徴用工や慰安婦問題でこじれている日本と韓国の関係を難しいものにしている。

 レーザー照射問題の日本側の主張が仮に正しいとしても、こういう軍隊同士の現場での小さなトラブルは、二つの軍が同じ場所でそれぞれ勝手に行動してれば、必ずと言って良いほど起こりやすいものである。

子供の喧嘩のようなものであろうが、お互いに武器を持っているだけに放置は出来ない。慎重に対処しなければならない。

 しかし、多くは両軍の責任者同士で話し合えば解決しうる問題である。いきなり外交問題にするようなものではない。旧自衛隊の指揮官であった田母神氏も、このようなことはよくある事で、大きな問題ではないと言っていたぐらいである。

 それを今回はどうも日本の上層部が焚き付けて突然外交問題にしてしまい、河野外相を急遽韓国に派遣して抗議させたのが始まりだったとか言われている。

 一旦外交問題となれば、双方の国とも面子があるので容易には引き下がれなくなる。これが相手がアメリカであったらどうだったのであろうかと思う。どうしてアメリカに対しては沖縄の問題一つにしても、あれだけの民意の反対を無視してまでも、何も言えない日本政府が、韓国に対してはどうしてこう傲慢に振る舞うのであろうか。

 韓国に対しては、日本は長年の植民地支配で、ずいぶん迷惑をかけているのである。ドイツなどでは、今も移民がドイツ国籍を取る際にも、過去の加害の歴史まで知ることを要求しているぐらいに過去の誤りに謙虚になっているのである。

 加害は忘れやすく、被害の記憶はいつまでも残るものである。更に、韓国が”恨”の国であることを知れば、尚更、過去について謙虚であるべきであろう。国民感情は条約で法的に片付ければ、それで終わりという訳にはいかない。

 今回の日本政府の対処の仕方を見ていると、その根本的な配慮が誤っていることが、問題をこじれさせた最大の問題ではなかろうか。そういうことに、気づいていないのか、気づいていていながらあえて無視しようとしているのか、どちらかであろうが、もう少し慎重に行動すべきではなかろうか。

 将来を見越した近隣国との友好関係を考えるならば、細かいトラブルの直接の原因解明よりも、その背景にある歴史的な問題をいかに解決していくかが問われているように思われる。

 

カタカナ語

 先日「若者言葉」について書いたが、それで少しは自分の若者言葉などの知識も増えたかと思っていたら、なかなかそうはいかない。

 昨日、新聞の広告欄に「妻のトリセツ」と大きく出ていたが説明が一切ないので何のことかわからない。女房に聞くと「知らないの。取扱説明書のことだよ」と言われた。

 聞いたらすぐに分かったが、昔なら略しても、「取説」もしくは「取り説」とでも書いたところであろう。日本語の良いところは漢字なので、一字でも意味があるので、略して書かれていても元の意味を想像しやすいところである。健康診断なら「健診」、生命保険なら「生保」、特別急行列車なら「特急」という具合に略しても、容易に意味が理解できるので便利だったのである。

 それがカタカナ書きとなると、表意でなく表音になるので、「トッキュウ」と書かれていても、特別急行列車なのか、特別休暇なのか判らない。ましてや、この頃は英語などから来た言葉のカタカナで書かれた短縮系の言葉も多いので、初めての人などには余計に判らない。

「トリセツ」に引っかかっていたら、今度は 今朝の新聞では、LGBTに関する記事で「アライ」という言葉が出てくる。何のことかと思ったら、どうも「アライアンス」(alliance)

の略のようであった。そうかと思ったら、すぐ後で今度は「SOGIハラ」と出てくる。

 こうなるともう元の言葉を調べないと何のことかも判らない。これは英語である。Sexual Orientation and Gender Identity の略で、LGBTセクシャルマイノリティの人たちを指すのに対して、すべての人が持つ性的指向性自認を表す言葉だそうで、それに対するハラスメントを「SOGIハラ」というのだそうである。

 この頃は新聞や雑誌などにも、こういったカタカナ語が多くなった。アグリだのコスパ、オフレコ、コンサルぐらいなら私にもわかるが、どんどん新しいカタカナ語が出て来るので大変である。今はやりのIT関係になると、もうカタカナ言葉のオンパレードである。

 殆どが英語から来ているが、日本的な発音のカタカナ書きとなっているので余計に難しい。ストレージStorageで、アジャイル開発とあるのでどんな開発方法なのかと思えば、agileすなわち敏速な開発方法のことらしい。

 もうこうなると老人にはついて行き難い。ただ、有難いことに、最近はスマホ(これはスマートホンというよりよく通じるが)で簡単に教えてくれるので、労を厭わねば、老人でも何とかついて行けるかも知れないが・・・

愛国者とナショナリストの違い

 フランスのマクロン大統領は第一次世界大戦終戦100年の式典で「ナショナリズム愛国主義への裏切りだ」と演説。「自国第一、他国軽視」を「国家に大切な道徳的価値観を捨て去る振る舞い」といったそうである。

 日本ではSNSなどを見ていると、安倍内閣の批判などの対して、いわゆるネトウヨなどから一斉に反日だという声が上がるようだが、ナショナリズムは国民の統合に楔を打ち込むようなもので、政府への批判のない民主主義は考えられない。色々な多様な意見が出て、それが議論され、集約されていく過程で民主主義は成り立つものである。

 アメリカでトランプ大統領を批判することを愛国的とした回答は民主、共和の支持者共に6割を超えているそうである。

黒人作家のJames Arthur Baldwinは「世界のどの国よりも米国を愛するのと同じ理由で、私は米国を断固、批判し続ける」と言っている。

 政府を批判しない愛国者はいない。政府の批判を知らず、政府への同調のみを煽るものはナショナリストであって、愛国者ではない。ナショナリストNationalistと愛国主義者Patriotの違いを知るべきである。

 故郷を愛し、国を愛すればこそ、道を誤らせないために、批判が起こるのであり、批判のない愛国などあり得ない。

政府は国民が愛せる国にするためにこそ、国民の声に耳を傾け、外からの強い誘惑にも負けず、自分たちだけの利害に振り回されず、真に国民のための政策を進めるべきであろう。

悲劇の横綱稀勢の里

 横綱稀勢の里がとうとう引退した。横綱になってから一度優勝したが、その時の怪我が元で負けと休場が続き、引退に追いやられてしまった。

 本人はもっと相撲を続けたかったのであろうが、横綱の品位を維持するにはやむを得ないことであったのであろう。

 私は、もともと横綱にしたのが間違いだったと思ってきた。長い間大関だったが、優勝を期待されながらも、肝心な時にいつも勝てずに歯がゆい思いをさせて、昇進の機会を何度か逃した来た力士である。

 ところが、相撲界の要望として、最近の相撲界では、上位力士が殆どモンゴール勢に占められる状態が続くので、何とかして日本の力士の横綱を実現したいという思惑が強くなって来ていた。

 そうした時に、稀勢の里がたまたま優勝したので、この機会こそ生かさなくてはと思って、無理に稀勢の里横綱にしてしまった嫌いがある。

 それまでの過去の成績を見てみても、もう少し様子をみてから判断するのが順当であったのではなかろうか。

 私は無理に横綱にしても、決して将来うまくいくはずがない、本人を苦しめることになるだけだから、まだ絶対横綱にするべきではないと思っていた。

 テレビで出て来た稀勢の里のお父さんも、もう少し様子を見てからの方が良かったのではないかと、喜びとともに不安を隠しきれない姿で写っていた。

 案の定、本人は真面目な努力家だったのだが、その甲斐もなく、無理をした怪我も災いして、横綱としての成績を上げることなく、無念の引退に追い込まれてしまったのであった。

 大関のままであったら、もっと気楽であったであろうし、同年輩の好敵手であった琴奨菊を見てもわかるが、今でも関取を続けてられたのではなかったのではなかろうかと思われる。相撲世界の中で弄ばれて、命を縮めてしまったようにも思われる。

 相撲というのは特殊な世界で、以前から何かあると問題にされてきたことであるが、伝統的な神事の絡んだ大衆芸能の形で受け継がれてきたものであり、近年は競技スポーツの色合いが濃くなった複雑な世界なのである。

 その複雑さから時代の変遷にうまく対応出来ずに、右往左往しているところに根本的な問題があるような気がする。柔道などはうまくスポーツとして国際化に成功したが、相撲は伝統的な神事などを含んでいる故にスポーツとして割り切れず、そうかと言って神事などの伝統を重視し過ぎると時代に取り残される。

 事実近年になると、古いしきたりなどが若い人たちに敬遠されるようになり、相撲の人気が落ち、力士希望者の減少が続くようになってきた。

 それを乗り切る手段として、相撲の国際化が試みられ、初めはハワイ勢の導入が図られたが、体格の違いもあり、たちまちハワイ勢が上位陣を独占するようになると、そこでストップがかかることとなった。

 ところが日本の力士だけでは層が薄くなり、人気を維持するのが難しく、今度はモンゴール勢の力を借りねばならなくなった。ハワイ勢と異なり同じ東洋人で、外見も体格も日本人に似ているのが好まれたのであろう。

 それで初めのうちは順調で、人数も増え、彼らの日本相撲界への順応もよく、次第に日本人と同様に遇されるようになってきた。しかし、彼ら人数が増え、力も強くなり、日本勢が押され気味で、再び上位陣を彼らが独占するようになってくると、伝統のある相撲はやはり日本人でなければという暗黙の声が強くなってきたのであろう。

 そのうちに千代の富士貴乃花などがいなくなり、上位陣が殆どモンゴールを初めとする外国勢となると、伝統的な神事が絡むこともあってか、何とか日本人の横綱を期待する声が大きなって来たのであろう。

 そういうところに、大関稀勢の里の優勝がやってきた。相撲協会やファンは今度こそは19年振りかの日本人横綱の出現だとばかりに、無理にでも稀勢の里横綱にしてしまった。

 ところがこれにはおまけがあり、4年前に旭天鵬が平幕優勝を達成しており、彼がその時すでに帰化して日本人になっていたことがわかり、日本人力士と言えずに、”日本出身力士”と無理な呼称を使わざるを得なくなったのは皮肉であった。

 そこまでして伝統的神事や、民族性に拘らねばならないのは、単に相撲界の伝統の問題だけではなくて、現在の日本社会全体の閉塞性、閉鎖性を顕にしたものでなければ良いがと思うがどうであろうか。

  私は 伝統的な神事との結びつきは形式のみに留めて、競技スポーツに徹することが今後の相撲の発展の道であろうと考えている。