移民対策を今から考えよう

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 少子高齢化が進み、人口が減少して行き、労働人口が減りつつあるので、高齢者や女性の活用が進められているが、それでも不足分を補うためには外国人の労働力に頼らざるを得ないのがこの国の現状で、政府も外国人労働者 の受け入れの枠を緩めてきている。

 そんなこともあって、最近ではどこへ行っても外国人の旅行者ばかりでなく、日本で働く外国人の姿も増えた。ひと昔前には、私の家の近くに自動車製造工場があるので、ブラジル人の労働者が多かったが、最近はそれよりアジア系の人が多いのか、外見上では通りがかりに見るだけではわからない。

 しかし、コンビニや、チェーンの大衆料理店、珈琲店などに行くと、至る所で日本語が少し変な外国人労働者を見かけるようになったし、街中でも、明らかに旅行者とは違う、定住しているのではと思われる外国人を見ることが多くなったというより、当たり前になった。

 現在日本に住んでいる外国人の数は約250万人と言われ、国連の定義によるその国に一年以上住んでいる人を移民とした場合、昨年日本に移住した外国人の数は約39万人で、この数はドイツや、アメリカにははるかに及ばないが、イギリスの47万9千人に次ぐ世界第4位だそうで、前年比5万5千人の増加だということらしい。

 その他に、まだ一年に満たない外国人実習生もいるだろうし、留学生も週28時間までのアルバイトが認められているようなので、留学生のコンビニなどでのアルバイトも多いらしいから、どこでも外国人が増え、それに依存しているのが社会の普通の姿になってきているようである。

 それにもかかわらず、以前から問題になっていることだが、日本政府は外国人の日本への帰化を今も極力避けたがっているようで、避難民などの帰化の申請に対しても、世界で最も厳しいような条件をつけて、極力帰化を拒んでいるようである。また、労働力を補うためにも、至る所で実習生制度を取り入れ、契約期間だけ働かせて後は帰国を願う制度を続けて、極力日本に定住されることを避けてきているように見える。

 ところが、日本側の労働力不足を埋めるための、主に単純労働力の要請と、それを呼び込むための名目状の技術実習制度との矛盾が、人手不足の深刻さや技能実習制度の拡大ともに大きくなり、日立製作所技能実習制度などでも技能実習の積もりが単純労働しかさせてもらえないといった人権上のトラブルが新聞などでも取り上げられるようになってきている。上に掲げた写真のようなことも起こっているようである。

 こうしたいわば詐欺的な呼び込み方法は一時的には通用しても、長い目で見れば我が国の信用を落とすものであり、今後中国をはじめとするアジア諸国の発展とともに、日本へ向かう優良な労働力にブレーキをかけ、日本の産業界に取っても禍根を残すことになりかねないことを恐れる。

 将来のことを考慮すれば、日本で最大限の技能実習の効果が得られ、満足して実習者に帰国してもらうことが、日本いとっても利益になることを知るべきであろう。さもないと、今後は中国の発展もあり技術実習などといっても日本は顧みられないことになるやもしれない。

 それに実習制度を五年から十年に延長するらしいが、長期になる程、本人やその家族、ことに子供達の教育などについても責任を持たねばならないであろう。現在でも、知恵遅れ児童などを対象とした特殊学級における外国人生徒の割合が多いことが指摘されているが、これは外国人の子供たちの日本への適応が不十分なことを示している。

 どんな形にしても、もはや外国人を受け入れなければこの社会が成り立たなくなってきている以上、外国人をいかに受け入れ、同化して貰い、将来同じ日本人としてやっていくかを今から考え、基本的な手を打っていかなければならない時が来ているのではないだろうか。

 今の路線のままの外国人労働者の受け入れ体制が続くならば、将来大きな社会問題になることは明らかである。 ヨーロッパ諸国と違って、閉鎖的になりがちな島国で、しかもムラ社会が残り、大和民族の純潔などと考え勝ちな日本社会の将来が思いやられる。

 今から打つ手が将来の移民問題を解決する基礎ともなるものである。単なる一時しのぎの労働者受け入れという考えを捨て、多くの優秀な外国人を受け入れ、日本に定着して貰い、新しい日本人の創生につながるチャンスにすべきではなかろうか。

 もともと、現在の日本人と言っても、これまでに大陸や半島からの移民が混血して素晴らしい日本人が出来て来たのであり、いろいろな多様性を持った人々の混成こそが多様な遺伝子の組み合わせで、多様な才能の花が咲くものであろう。縄文時代弥生時代に次ぐ新たな移民時代を迎え、この国の新たな発展が期待できるのではなかろうか。

 少子高齢化はこの国の新生の好機だとも考えられる。多くの人たちの混血こそが優れた新しい日本人を生み出すことになるであろう。大いに外国人を受け入れ、定着して貰い、混血を進めることが日本の発展の道ではなかろうか。

過労死は増える

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 「働き方改革」法案が成立した。政府は一段落というが、経団連は早速今後の課題として裁量労働制の推進拡大などを目指して法案の再提出を言い出している。

 裁量労働制というのは、働いた労働時間ではなく、労使であらかじめ決めた時間を働いたと見なす「みなし労働時間制」のことであり、会社側から言わせれば、能力が低いために普通より長時間かかった労働者に余分の金を払うのはおかしいという論理から来ているものである。

 2007年にホワイトカラー・エグゼンプションを打ち出してから、経団連などが言い続けてきた課題で、労働者の賃金制度を資本主義のはじめ頃に盛んであった、請負制度に戻そうとするものである。

 歴史的に労資の長い戦いの中で、労働者が獲得して来た労働時間制度、それに伴う残業という概念を全面的に否定し、作業形態が変わったことを口実にして、労働の時間観念を奪い、請負制度に戻そうとする画期的な制度変更なのである。

 高度プロフェッショナル制度というのは、自由に時間を配分でき、時間ではなく結果で報酬を払うという仕組みすなわち請負制度の一種になるが、問題はその労働者に仕事の裁量権があるかないかである。今のところ、適用されるのは給料が月1070万円以上のものということになっているが、いろいろな手当や穂樹なども含まれるので、実質7〜800万円でも対象になりうるとも言われる。

 更には、竹中平蔵氏などがこういう法案は 小さく産んで大きく育てるものだと言っているように、一度法案が通れば、あとは政令で時間などは容易に変えられるので、広く適応されていくことのなるのことを考えておかねばならない。

 政府の説明では、高プロの労働者からの要望のごとく言っているが、自分に仕事の裁量権のある労働は少なく、これは明らかに経営者側からの要望であり、結果は過重労働を強いられることにならざるを得ない。自分に仕事の裁量権のあるのは、個人経営者ぐらいであろう。

 労働基準監督官の立場から見ても、労働時間に把握が出来なくなるので過重労働などの指導が困難になるであろうと言われ、労働基準法の遵守をも危うくする恐れが多い。初期の資本主義制度の頃のように過重労働が増え、過労死の多発が止められなくなる恐れが大きくなるのではなかろうか。

バッハ一家の室内楽

 東京の姪の関係で、御影の世良美術館で開催された上記の音楽会に女房と一緒に行ってきた。

 バッハの頃のバロック音楽については、あまりのクラシックな感じがして、今ひとつ関心が薄かったが、最近他にも古楽器の演奏を聴く機会があったりして、多少関心が出来、せっかくの機会だったので聴きに行った次第である。

 バロック・フルートにバロック・ヴァイオリン、バロック・チェロそれにチェンバロという全てが300年前の楽器による構成で、表題の通り、J.S.バッハとその息子たちの曲ばかりで、まさにバッハ一家の音楽を楽しませてもらった。

 こちらはもともと音楽には縁が薄く、聴いた音楽について批評はおろか、感想を述べることさえおこがましいが、今回聴いた4人揃ってのバッハのトリオ・ソナタ ト長調や、最後の曲であった、親バッハがフリードリッヒ2世の求めの応じて作ったのが元だと言われる、ソナタハ短調音楽の捧げもの」というのは中々良かった。

 バロック音楽も幅が広く奥が深いというのか、これまでの馴染みが少ないだけに、案外楽しめるものだと再認識させられた。ただ、チェンバロが全て伴奏を引き受けているのだが、ピアノと違って、管弦楽器が強く響くと殆ど聴き取りにくいぐらいになるのは仕方がないのであろうかなと思われた。

 その他、ヴァイオリンやフルートの独演も良かったし、チェロでは2番目の息子だかのバロック離れの感じのした音楽にも興味を引かれた。そこで気がついたのは、バロック・チェロには足がないので両膝で挟んで楽器を演奏するのだが、長い演奏では疲れないのかなとも思われた。

 何れにしても3時間ぐらい300年昔の音楽の雰囲気の中にどっぷり浸からせてもらって幸福であった。バロック音楽は素人にも結構楽しめるものである。

 また偶然に会場でしばらく会う機会がなかった親戚の一人に出会うこととなりラッキーな一日でもあった。

安倍首相は憲法を守れ

 自民党の総裁選で安倍首相の三選がきまった。思ったような圧倒的な勝利にはならなかったようだが、この人の顔をまだ三年も見なければならないのかと思うと、正直うんざりする。

 自民党の総裁選で石破候補との討論会などで、安倍首相はしきりに憲法改正を主張していた。自衛隊が後顧の憂いなく戦えるようにするには憲法改正が必要だ、憲法を改正しないのは国会議員の責任放棄だというような事まで言っている。

 しかし、政府は国民の委託に答えて政治を行っているのであり、その基本は憲法によっているのであり、首相をはじめ公務員や国会議員は憲法を守らなければならないと憲法に明記してあるのである。

 第九十九条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と書いてある。

 首相としてでなく政党の総裁として言っているというのは言い訳にならない。総裁であろうと、首相は首相であり、同一人物を都合良く切り分けるわけにはいかない。憲法改正の発議は国民の側からなされるもので、政府が先頭に立って進めようとするのは明らかに憲法違反ではないか。

 憲法を改正したい側の論理では、憲法憲法改正の手続きを記した憲法96条で憲法は改正を予定しているのだから、首相が改正を主張しても構わないなどともしているが、法学者はどう解釈するのか知らないが、憲法改正は国民の側からの声が起こった時に対応するためのもので、素直に読めば、それが憲法99条に影響するとは思えない。99条は誰が読んでも、素直に読めば、政府や国会議員などが憲法を守る義務があると書いてあるとしか読めないのではなかろうか。

 その文面に国務大臣憲法を尊重し擁護する義務を負うと明記されているのだから、やはり尊重し擁護すべき首相が先頭に立ってそれを改正しようというのは、誰が見ても条文に違反しているとしか読めないのではなかろうか。

 法的に難しい論理をこねくり回しても、多くの人が素直に読んで素直に解釈出来ることが優先させられるべきではなかろうか。立憲民主主義によって憲法が国民によって政府を縛るものであるとすれば、首相がが先頭に立って憲法を変えると唱えることはどう考えても憲法違反ではなかろうか。安倍首相が発言を取り消すのでなければ、国民は首相を憲法違反で告発すべきではなかろうか。

 

「敬老の日」か「老人の日」か

 

 9月15日が「敬老の日」で、週末と重なるので、その代替として17日の月曜日が休日になるのだとばかり思っていたら、法律が変わって、今は9月の第3月曜日が「敬老の日」ということになっていることを知った。

 そんなことはどうでもよいのだが、毎年この日になると例年メディアは老人の事を書きたてて来たものだが、この頃のように老人が多くなってしまうと、もう高齢化社会だの、超高齢化社会だのと改めて言うこともなくなり、今では、少子高齢化の社会の現実の中で、今後どう生きて行くべきか、老齢年金などの社会保障をどうするか、労働力減少にどう対対していくかなどが現実の問題として社会に迫って来ている。

 もはや社会の趨勢は敬老などと言っているゆとりはない。元気な老人には働いてもらわなければ社会が回らないような状態である。定年は延長されるし、年金の受給開始年齢も遅くなる。家族は少なくなり、住まいもバラバラになり、孤独死なども多くなっている。それでも「敬老の日」なのだろうか。

 「敬老の日」の名称については私は初めから反対であった。もともとこれは「老人の日」であったのを国民の祝日にする時に誰が決めたのか知らないが、「敬老の日」としてしまったものである。邪推すれば、”若い者に老人を敬うように言うてやるから老人は大人しくしててや”と言う暗喩が含まれているような気がしないでもない。

 「こどもの日」が子供を主体にした呼び方で、「子供を大事にする日」や「子供を可愛がる日」でないのに年寄りの方はなぜ老人を主体とした「老人の日」でなくて「敬老の日」として老人を国民全体から疎外した存在としなければならないのであろうか。

 まだ老人人口が僅少で若者が主である社会であれば、まだしも、敬老という倫理をかざした日を考えるのも判らないことはないが、国民を構成する一部の人たちを対象とするならば、対象とする人たちが主体となるべきで、対象とする人たちを全体から疎外するような分け方をすべきではないであろう。

 「老人の日」はあくまで老人の権利を守る日であり、敬老するかどうかはそれに付随する若い人々の問題である。国民の祝日とするのであれば、対象となる集団の主体性がまず認められるところから始めるべきであろう。

 「こどもの日」の他にも、「女性の日」、「障害者の日」、「LGBTの日」、「がん患者の日」他、いろいろ考えられるであろうが、当然全てで、対象となる人々が主体で、他の人々が対象とする人たちを助けたり、慰めたりすることが主体ではないのと同様である。

 人は誰しも自ら生きる権利があり、周囲の人たちの援助は得ても、疎外されてはならないのは当然であろう。

 今日のように超高齢化社会となれば、以前にも増して「敬老の日」という外からの働きかけよりも、主体としての老人の生活や権利の擁護を主張し、老人の生活を守り、より豊かにしていくためにも、「敬老の日」をやめて「老人の日」に戻すべきだと思うが如何だろうか?

 

 序でに老人の日に絡んで我が国の100歳老人についての厚生省の統計記事が新聞に出ていたので、備忘録として、ここに書き留めておく。

 今年は百歳以上の老人が過去最多の6万9785人昨年より2014人増え、女性が6万1454人、88.1%を占める。今年新たに百歳になった人は3万2241人、昨年より144人増加で女性が2万7788人。最高齢者は女115歳、男113歳。ちなみに国民の平均寿命は」男80.98歳 女87.14歳とのこと。

 

 

東山魁夷展

 京都の近代美術館で東山魁夷展があったので見に行ってきた。これまでにもこの画家の絵はよく見てきたが、唐招提寺の障壁画はテレビで見せて貰っただけで実物を見る機会がなかったので、それが見たさに訪れたようなものであった。

 東山魁夷展とあらば、どうせ込み合うだろうと思って開館よりも早く行ったので、大勢の人が押し寄せる前に、目的の障壁画をまるで独占するようにゆっくり見ることが出来たのが最大の得点であった。この人の絵は墨と緑青だけの単色の静謐な感じのするものが多いが、その単純な画面が返って何かスピリチュアルな世界に引き込んでくれるような所が人々を惹きつけているのであろう。

 この作品の展示のはじめの方は、初期の赤みがかった山の風景や、緑一色の道、林や湖と馬などと、ユニークであるが見慣れた絵が続いている。ドイツの風景や建物もあったが、私も訪れたことにあるハンブルグに近い小さな町ツエッレにもこの画家が訪れていたことを思い出した。

 出品作品の数もかなり多かったが、何と言っても、今回の目玉は唐招提寺の障壁画であった。これらはかなりのスペースをとって部屋ごと再現されており、実物通りにゆったりと見ることが出来るようにしてあったので値打ちがあった。

 障壁画の中には、桂林の特徴的な山の風景もあったが、圧巻は最後の空間を占める日本の海岸の風景であった。盲目になって日本の土地を踏んだ鑑真和尚が経験したであろうという日本の海を和尚を忍んで描いた絵である。海中の岩に砕ける波から、海岸に打ち寄せる波、砂浜にゆっくり満ちては返す静かな波までを巧みに描いているのはさすがである。いつまで見ていても見飽きない。

 それに、私は薫風という揚州の建物の周囲の柳の絵も好きだ。風に吹かれてそよぐ柳の様を描いた作品は本当に五月の薫風を感じさせてくれる。スケールが大きいこともあり、臨場感が強く、本当にそこにいてそよ風を感じているようで、立ち去り難い感じがした。

 それにもう一点、今回の展覧会での思わぬ経験をした絵があった。「月こう(竹冠に皇)」という夜空の月の光りに照らされる竹林を画面一杯に描いた大作である。

 近くで大きな画面に向かい合っていると、周辺の竹の梢が揺らいでいるではないか。目の錯覚で揺らいで見えたのであろうか。じっと見ていると確かに周辺の竹の穂先が動いているのを感じる。確かに揺らいでいる。絵を見てそんなことを感じたのは初めてであった。

 念のため、一度離れて他の絵を見てから、もう一度見直して見ても、じっと見ているとやはりあちこちと竹の梢の先がそわそわと動いている。自分が静かな夜に、月明かりの下で、竹林の中に佇んでいるような感じであった。

 昔、雪舟が書いたネズミが本当に動いたとかいう話を聞いたことがあるが、静止した静かな絵の中の竹の梢が動くというのは、恐らくこちらの目の錯覚であろうが、作者の腕前の結果か、こちらの幻想かわからないが、初めての経験で忘れられない記憶となった。

 おかげで京都まで出かけた甲斐があったと思っている。

 

コスタ・リカの奇跡

 中米のコスタ・リカという小国が軍隊を廃止して、平和に暮らしているという話を以前から聞いていたので、箕面市のホールで「コスタ・リカの奇跡」というコスタ・リカの紹介映画があるので見に行った。

 アメリカが自分の庭のように振舞っている中米で、コスタリカが1949年にどうして軍隊を廃止して、その後アメリカの侵略戦争などが世界的に多かった時代に、平和にやってこれたのか疑問だったが、これまでコスタ・リカについての詳しい話は聞いたことがなかった。

 近年のアメリカ近辺の歴史を見ても、戦後70年に限って見ても、グアテマラ侵攻を始めとして、キューバ、ハイチ、ドミニカ、ニカラグアパナマからグレナダまで、中南米の国でアメリカに侵攻されたり、介入を受けなかった国はないのではなかろうか。そんな中で、コスタリカだけが自ら軍隊を廃止して、侵略もされず、どうやって国民を守り、平和を維持し続けてこられたのかが不思議でならなかったので、興味深く映画を見た。

 ただ映画は色々な人によるコスタ・リカの歴史に沿った解説の話が多く、字幕も読みにくく、その上、こちらのコスタ・リカの歴史についての前知識が乏しかったこともあって、十分理解出来たとは言えなかったが、単に軍備を廃止し、そのお金を教育や医療など回したと言っても、国の歴史であるから文字通りのような綺麗事である筈はなく、いろいろな紆余曲折の上、複雑で困難な過程を経て、何とかやっと軍隊なしで平和を維持して来たもので、今なお多くの問題も抱えている現状を垣間見ることが出来た。

 軍備を廃止したきっかけも、もともとクーデターで勝利した後に、前政権の反撃を止めるために、それまでの軍隊を廃止して、自分たちの警察力や民兵の組織などで自分たちを守るようにしたのがことの始まりだったようである。

 その後も正確ではないが、ニカラグアに攻め込まれたり、アメリカに同調して自国内にニカラガ侵攻のための基地を置かされたり、アメリカのために警察軍を外国に派遣したりもしているし、アメリカに同調して海外派兵?を決めた大統領を学生が憲法違反だとして裁判を起こして勝訴し、その決定を撤回させるようなこともあったようである。

 また、軍事費を教育に回して教育を無償化し、大学なども作ったが、1990年以降は麻薬の密売などが増えて治安が悪化するなど、いろいろ問題も抱えているようで、なかなか平穏無事な国というわけにもいかないようでもある。軍隊は廃止しているが、治安維持のための警察力は持っているし、必要なときには徴兵も出来ることになっているようである。

 四国と九州を合わせたぐらいの国土で、人口も500万足らずの小国なので、日本などとは事情が異なるが、わがままな大国であるアメリカのお膝元にありながら、独立を保ち、アメリカの要求を蹴ったりしてでも、軍隊なしで平和を保っている姿には参考にすべき点も多い。

 日米条約はイラクアフガニスタンととアメリカの条約よりも、アメリカに有利な不平等な条約と言われているが、日本ももう少し毅然として、アメリカから独立して、アメリカに言われるままの軍備増強よりも、教育や社会福祉に予算を回し、国民のための政治に目を向けて欲しいものである。