「敬老の日」か「老人の日」か

 

 9月15日が「敬老の日」で、週末と重なるので、その代替として17日の月曜日が休日になるのだとばかり思っていたら、法律が変わって、今は9月の第3月曜日が「敬老の日」ということになっていることを知った。

 そんなことはどうでもよいのだが、毎年この日になると例年メディアは老人の事を書きたてて来たものだが、この頃のように老人が多くなってしまうと、もう高齢化社会だの、超高齢化社会だのと改めて言うこともなくなり、今では、少子高齢化の社会の現実の中で、今後どう生きて行くべきか、老齢年金などの社会保障をどうするか、労働力減少にどう対対していくかなどが現実の問題として社会に迫って来ている。

 もはや社会の趨勢は敬老などと言っているゆとりはない。元気な老人には働いてもらわなければ社会が回らないような状態である。定年は延長されるし、年金の受給開始年齢も遅くなる。家族は少なくなり、住まいもバラバラになり、孤独死なども多くなっている。それでも「敬老の日」なのだろうか。

 「敬老の日」の名称については私は初めから反対であった。もともとこれは「老人の日」であったのを国民の祝日にする時に誰が決めたのか知らないが、「敬老の日」としてしまったものである。邪推すれば、”若い者に老人を敬うように言うてやるから老人は大人しくしててや”と言う暗喩が含まれているような気がしないでもない。

 「こどもの日」が子供を主体にした呼び方で、「子供を大事にする日」や「子供を可愛がる日」でないのに年寄りの方はなぜ老人を主体とした「老人の日」でなくて「敬老の日」として老人を国民全体から疎外した存在としなければならないのであろうか。

 まだ老人人口が僅少で若者が主である社会であれば、まだしも、敬老という倫理をかざした日を考えるのも判らないことはないが、国民を構成する一部の人たちを対象とするならば、対象とする人たちが主体となるべきで、対象とする人たちを全体から疎外するような分け方をすべきではないであろう。

 「老人の日」はあくまで老人の権利を守る日であり、敬老するかどうかはそれに付随する若い人々の問題である。国民の祝日とするのであれば、対象となる集団の主体性がまず認められるところから始めるべきであろう。

 「こどもの日」の他にも、「女性の日」、「障害者の日」、「LGBTの日」、「がん患者の日」他、いろいろ考えられるであろうが、当然全てで、対象となる人々が主体で、他の人々が対象とする人たちを助けたり、慰めたりすることが主体ではないのと同様である。

 人は誰しも自ら生きる権利があり、周囲の人たちの援助は得ても、疎外されてはならないのは当然であろう。

 今日のように超高齢化社会となれば、以前にも増して「敬老の日」という外からの働きかけよりも、主体としての老人の生活や権利の擁護を主張し、老人の生活を守り、より豊かにしていくためにも、「敬老の日」をやめて「老人の日」に戻すべきだと思うが如何だろうか?

 

 序でに老人の日に絡んで我が国の100歳老人についての厚生省の統計記事が新聞に出ていたので、備忘録として、ここに書き留めておく。

 今年は百歳以上の老人が過去最多の6万9785人昨年より2014人増え、女性が6万1454人、88.1%を占める。今年新たに百歳になった人は3万2241人、昨年より144人増加で女性が2万7788人。最高齢者は女115歳、男113歳。ちなみに国民の平均寿命は」男80.98歳 女87.14歳とのこと。