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探し物

 先日、春になったらまた女房と一緒に旅行に行こうと思ってジパングの会員手帳を出したら、私の方の手帳にだけ会員証のカードがなくなっている。驚いて記憶を辿ってみると一月の末頃に友人と北陸にカニを食べに行った時に、ジパングを使っている。

 ジパングのカードなどこれまで実際に必要になったことはなかったが、その時はどう思ったのか確かカードを持って行った記憶がある。その機会におそらく帰ってからカードを手帳に戻さなかったようである。

 しかしもう一ヶ月以上も前のことである。それ以来すっかり忘れていて、カードなど見たこともないし、気づいたことも全くない。いつも使っている財布にあれば気がつくはずだし、見てもいない。その時持って行ったカバンや服を思い出し、あちこちカバンや服のポケットなど隅々まで探したが見つからない。旅に出た時にはその時に旅先でもらった切符やパンフレットなどを帰ってから纏めてしまっておくクセがあるので、それまで引っ張り出して探してみたがどこにも見当たらない。

 もう仕方がない。なくても何とか問題になることもなさそうだから諦めようと決めた。ところがその後、毎日持ち歩いている財布を使ったついでにもう一度確かめようと思ってふと調べてみると、普通にいろいろなカードを入れているところにはないが、住民票のカードに重なってジパングのカードがちゃんとあるではないか。

 先にジパングカードを探す時にそこも探したのだが、ジパングカードはこれまで会員手帳に挟まれて全面が見れるようになった状態でしか見たことがなく、札入れの中を探した時には札入れのポケットに入っているのを半ば引っ張り出しても、斜めに一部しか見えないので他のカードと見誤って財布にはないと早合点してしまっていたので見つからなかったもののようである。

 それには老眼と片目の中心性暗点で視力が悪くなっていることも関係があるようである。先日も老眼鏡の入った黒っぽいケースをすぐ横の黒っぽい棚の上に乗せたまま、それを見ながら気がつかず老眼鏡がなくなったと思いあちこち探し回ったこともあった。

 年をとると困ったものだと思っていたら、今度は女房がケイタイがなくなったという。どうも2〜3日前に娘とホテルで落ち合った時に使い、その後三人でレストランで食事をしたが、その時ケイタイをコートに入れてたまま、コートを預かってもらったのでその時に落ちた可能性が強いという。コートのポケットやその時着ていた服やバッグなどどこを探してもないという。

 念のためホテルやレストランに電話をしてみたが見つからない。家で私の携帯で呼び出してみても返事がない。同じ日に後で甥などが来たので部屋を片付けたときに何処かへ置き換えた可能性も考えて家中可能性のありそうなところを探したが見つからない。

 ケイタイなので放っておくわけにもいかない。仕方がないからドコモの店に行って相談してみようと近くの店に行って話すと、今はGPSで調べられるのか、ここらにある可能性が高いという地図が出てくる。

 それを見ると我が家の周辺ということになっている。そうなれば外で落としたのではない。家の中のどこかにあるに違いない。家に帰ってもう一度私のケイタイから呼び出して、着信音をたよりに探してみると何とクローゼットの中の服のポケットにちゃんと治っているではないか。

 女房はその日に来て行った服を違った服と勘違いしていたのでその服には考えが及ばなかったようである。私もはじめに服のポケットも一応候補にはあげながらも、女性の服には大抵物入れがなく必要なものはみなハンドバッグやカバンの中に入れるものだと思っていたので、否定されればそれ以上追求する気もなかった。さらにクローゼットの中の服のポケットの中ではケイタイで呼び出してみても着信音が聞こえにくかったためにわからなかったようである。

 ケイタイがなくなった時に落としたという先入観が強くて考える方向が歪んだことと、

着ていた服の勘違いが発見を困難にした要因だったような気がする。こんな経験はこれまであまりなかったが、年寄りの夫婦にはこれからはこんなことがぼつぼつ繰り返されることになるのではなかろうか。年とともに感覚器官の働きが衰え、記銘力や短期の記憶力が落ち、貧しい情報から思い違いや、思い込みが正しい判断の妨げになるのではなかろうか。

 最近はメガネやケイタイから書類まで探し物ばかりしているし、人の名前が出てこなかったり、階段を二階まで上りきった所でさて何しに上がって来たのだろうかと判らなくなったり、夫婦の会話が「それそれ、あれがこうなった」とかやたら代名詞の多い会話になるなどといったことが多くなってきている。上のような見当はずれの思い込みに振り回されることも多くなるに違いない。

 若い時は仕事のことなどで分からぬことを調べたり、何か良い目安や方法がないかと探したり、いつも探し物ばかりしていたが、年をとるほどに今度はもっと身近な日毎の生活で探し物をせねばならなくなる。どうも人生は探し物に始まり探し物で終わるようである。