安倍内閣は宗教政権

 第三次安倍内閣の閣僚の一覧表がインターネットに載っていたので見て驚いた。

f:id:drfridge:20170902135731j:plain

 ここにも書かれているように、安倍首相をはじめ

20人のうち18人が神道政治連盟国会議員懇談会に属しているのである。

 戦後占領軍の命令もあり、それまでの現人神だの神祐天助、皇軍などの言葉だけからでもわかる国家神道を政治とは切り離し、政教分離を建前として政府が運営されて来たはずなのに、いつのまにか閣僚のほとんどすべてが神道の信者であるらしい。

 政治家であるから、自分は信じていなくても宗教連盟に加盟している大臣もいるのだろうが、これだけ大多数の閣僚が神道政治連盟に属しておれば、その連盟の理念や綱領、その活動方針が政治に影響しないでは置かないであろう。

 もちろん信仰の自由は保障されているから、閣僚がどのような宗教を信じようと自由である。閣僚の神道政治連盟国会議員懇談会は一般の神道政治連盟とは別組織になっているし、たまたま同じ宗教を信じる人たちが同じ内閣の閣僚に選ばれたということもありうるとしよう。

 しかし、同じ閣僚のまた大部分の14人が超右翼勢力と外国にまで広く認識されている日本会議にも属しているのを見ると、誰しもその異様さに驚くのではなかろうか。こうなると、これらの組織の活動方針と政府の方針が無縁ではありえないであろう。

 これまでの国会での動きを見ると、神道政治連盟が中心になって、元号制定化、国旗国歌法、昭和の日制定、選択的夫婦別姓制度導入阻止などを行なって来ているが、今後もますます戦前復帰の憲法改正国旗掲揚、国歌斉唱の強制等の運動に加担していくことであろう。

 しかし、一般国民の信仰の自由はどこまでも守るべきで、大日本帝国のように神道は宗教ではないとして国民に神道を押し付けることは許すべきではない。神道を押し付けることは他人の心の中まで踏み込んで、他の信仰を抑圧することだからである。信仰の自由は基本的な人権として絶対に譲るべきではない。

 私は戦争で神にも仏にも裏切られて、戦後は全く宗教を信じなくなった。他人の信仰は尊重するが、戦後は神社やお寺に行っても拝んだことはない。神道は宗教ではないと言われてもそれに従うわけにはいかない。天佑を信じ、天皇陛下万歳と言って死んでいった多くの兵士のためにも神道に与するわけにはいかない。

 

私の終活

 卒寿ともなれば、いくら元気でも、そろそろ人生を終える準備もしておかねばなるまい。ましてや私の場合、娘たちが二人ともアメリカへ行ってしまって、あちらに永住してしまっているので、日本にいるのは女房と二人だけなのである。

 昔は沢山いた親兄弟もいつの間にか減って、親のいないのは当然として、五人の兄弟も今は姉一人、弟一人で、姉はグループホームに入っているし、弟は遠くにいてパーキンソン氏病であまり動けないので、いずれも何かの時のあてにはならない。

 女房がいる間はよいが、お互いいつまで生きているか誰にもわからない。年からいえば、残り少ない間にどちらかが欠けることも当然考えておかねばならないだろう。一人になってから死んだ時のことも、どうするのがよいか、娘たちが日本にいないだけに心配になる。

 そんなことで、相続の手続きなどは早くから遺言信託などを頼んではいるが、死後、葬儀や相続の手続きなどのために、娘たちがアメリカから戻って来ても、そうそう長期間は滞在できないであろうし、相続の具体的な手続きや遺産の整理だけでも大変だろうと思い、そろそろ終活をして、身の回りのものを整理しておかねばとは以前から思っていたが、実際に行動に移すとなるとなかなか大変である。

 身の回りの家具や日用品、衣類などといったものは比較的簡単に分けられるが、問題は長年の間に溜まったガラクタの類である。他人にとっては値打ちがなくても、自分にとっては過去の思い出につながるものは、生きている限り愛着があって捨てるに忍びないものが多い。従って、捨てるものと保存するものの仕分けが難しい。

 それでも仕事の関係のものは、もはや過去のものとして思い切れば、大部分のものはまだ処分しやすい。趣味の関するものでも、道具類などは分けやすい。難しいのは趣味の作品や、自分や家族の歴史に繋がるものである。それにあちこちバラバラに収納されてしまっているものをかき集めて分類し、処分するかどうかを判断し、その手続きを進めていくのも思いの外大変である。

 このところ実際に進めた処分の結果はこうであった。先ずは最早使うことのない膨大な医学書や雑誌、論文その他の書類などを思い切ってほとんど捨てた。分厚い医学書などは今ではただのようなものであったが、本棚の空間はだいぶ開けることができた。それでもまだ医史学関係や医学や医療に関する一般書はかなり残っている。

 ついで、収集していた切手を処分した。若い時に友人がその都度斡旋してくれて、いつのまにか溜まったかなり大量の収集切手を整理して分類し、何回かに分けて売りさばいた。これは思ったよりも良い値段がついた。

 続いて、古くから溜まるに任せていたハッセルの中判を含む20を超える中古カメラや三脚、その他の付属品を売りさばいたが、こちらは嵩が高く、持ち運びだけでも大変で女房にも助けてもらったが、フイルム時代のものばかりで大した値段にはならなかった。それでも物入れの空間を開けるのには役立ったのではなかろうか。

 それが済むと、今度は絵画や版画、写真などで、額に入ったまま物入れに眠っていたものを集めて画商に見てもらった。ところがあるのは中途半端なものばかりで、少しぐらい名の知れた画家の売り絵のようなものはあまり価値がなく、画商の言うには「何か一つでも目玉になるようなものでもあれば、他のものも一緒に引き取るが、目玉になるものがない」ということで引き取ってくれず、結局、これらは古物商に委ねることになった。

 あとはその古物商である。古い食器や花器、飾り物、記念品や贈り物の類、古い紫檀の机、顕微鏡その他、それに上記の絵画類などのガラクタを全て一緒に、古物商を呼んで見てもらい、引き取ってもらった。女房の描いた絵にまで小額にしろ値段がついたので女房は喜んでいたが、車に一杯積み込んで持って帰ってもらえたので、ずいぶん押入れの中をあけることができた。もらったお金は女房と折半した。

 その他、仕事関係の写真や、親の代の写真の類や収集品などはあらかた捨てたが、家族の写真、子供達が小さかった時の作品や孫の作品などはだいぶ整理をして処分もしたが、多くは捨てられずに残した。

 それにも増して捨てがたいものは自分の描いた絵や写真の作品類である。女房の過去の油絵も額付きなので嵩が大きい。膨大な時間をかけて、できるだけ判別して良いものだけ残すようにしたが、選んでもなかなか量は思うようには減らない。

 それに長い間にあちこち旅行した時の関連書類やパンフレットの類を旅行ごとにまとめたものが、それだけでもかなりな量になり、未だ手付かずになっている。

 こう言った類いのものはできるだけ中身を見ずに思い切って捨てないと、中を見だすと思い出につながって、捨てられるものまで捨てられなくなってしまう。

 現段階で、大分身軽になったとはいえ、まだまだ残っているものも多い。時間をかけて少しずつ片付けていかなければならないだろう。

 その上、まだ押し入れの中には布団や枕、毛布、敷布、座布団などのような繊維のものがいっぱい詰まっている。これらは嵩高いので勝手には捨てられず、いつか纏めて何処かに引き取ってもらうより仕方がないであろう。終活といっても本当に大変である。

 長い間に溜まったガラクタは結局長い時間をかけて徐々に処分していかねば仕方がないようである。これでは、片付くのが先か、こちらの命がなくなるのが先かはわからない。

 

むやみに J-アラート を使うな

f:id:drfridge:20170830161739j:plain

 28日のこのブログで、北朝鮮の危機を政府が煽っていることを書いたら、その翌日の朝6時にJ-アラートやらで国民は叩き起こされ、「国民保護に関する情報」として、「ミサイル発射、ミサイル発射、北朝鮮からにさいるが発射された模様です。頑丈な建物や地下に避難して下さい」とびっくりさせられる事となった。

 しかし、その警報の範囲があまりにも広すぎ、日本の北半分近くにもなり、そんな広い範囲の何処へ飛んでくるかもわからないミサイルに対して、急いで何処へ避難して良いのか、頑丈な建物や地下室が近くにあるとは限らず、どう対処して良いのかわからない馬鹿げた内容であった。ただ国民を怖がらせるだけで、国民保護どころか国民を愚弄するようなもので、安倍内閣が天佑とばかりにこの北朝鮮のミサイルを利用してさらに大々的に危機を煽っている様子が明らかになった。

 インターネットに安倍首相が金正恩に電話して、「加計学園問題が難しいので、また一発やってくれないか」とミサイル発射を頼んでおり、両者はつるんでいるのだとするフェイクニュースを誰かが仕立てて載せていたが、それもありうるとさえ考えられる状況と感じる人がいるからであろう。

 安倍首相の発言を見ても、朝の会見早々、故意かどうか「我が国北朝鮮がミサイルを発射した」と言ったし、「発射直後からミサイルの動きを完全に把握していた」と言い、ミサイルが我が国を狙ったものでなく、日本を飛び越していくことも知りながら、国土の半ば近くの広範な地域に国民に避難を勧めるるJアラートを出すなど、どう見ても国民保護どころか、国民を脅し、怖がらせて、緊迫した情勢を作り出し、自らに失政を隠し、政府の支持を増やし、軍備増強しようと計算して行動しているとしか思えない。

 そもそも弾道ミサイルといっても爆弾を積んでいるわけではないのである。いわば空の爆弾である。万一落ちたところで大きな被害が出る可能性は初めから少ない。国民の上を自由に飛ぶオスプレイや米軍機の方が危険ではなかろうか。アラートの発令は内閣官房が人為的に決めることになっていることを知れば、ますます怪しくなる。

 Jアラームはあちこちで警報の不備もあったということなので、警報システムのチェックには役だったかも知れないが、そのため学校が休校になったり、電車が止まったり、社会的にもかなりのの弊害も見られたようである。こういうアラートは戦時中の「空襲警報」のようなものであるから、適時に的確に行われないと人々の不安を煽るだけで、信用を失くせば、いざという時に返って危険なことも考えておくべきであろう。

 これだけ広範囲の国民に避難を呼びかけながら、原発の一時停止をしていないのも馬脚を現しているところであろうか。このミサイルが我が国の上空を越えていったというが、上空ではなくて大気圏外のはるかに高い、人工衛星の軌道よりもさらに150km離れた、高度にすれば550kmの軌道を通過したものであり、我が国の上空通過というのも問題があるし、襟裳岬の東方1150kmに落ちたというが、この距離は平壌と東京の距離より遠いのである。いずれも無理に危険と結びつけている表現の仕方であることも気になる。

 イラクリビアの前例から北朝鮮が核やミサイル開発が自衛のために必須と感じているることも理解できるし、アメリカ主導の国際社会で「集団いじめ」にあっているような四面楚歌の北朝鮮が自らのの生存のために必死になっている姿を見れば、国の体制の如何にかかわらず、この問題の解決は話し合いか、さもなければ朝鮮半島や日本列島の全面的崩壊を来す戦争しかないであろう。

 アメリカにとって後者に突き進むだけの利点はないので、恐らくすでに始まっているでろう北朝鮮とアメリカの水面下の交渉の先に希望を託しているものと思われる。そこまで読めば、安倍政府の現在のやり方はアメリカの方針ともどこかで乖離していく恐れが強い。目先のことに捉われて更なる将来を誤らないことを望む。

 国民保護のためには小さな利己の利益より、北朝鮮を含めた東アジアの安定した平和を築くために、意味のない圧力より、6ヶ國協議のような東アジアや関係国の話し合いの復活を通じて、北朝鮮の立場も尊重した平和的な協調を進めてほしいものである。

 

危機を煽って金儲け

f:id:drfridge:20170823141216j:plain

 北朝鮮が核開発や弾道ミサイルの打ち上げを行なって、アメリカを自分たちに有利な交渉の席に着かせようとして、一気に東アジアの緊張が高まっているが、今のところ戦争を望む者はおらず、アメリカ政府も言っているように交渉で解決しようとしていることは明らかである。

 北朝鮮イラク戦争などの経験から、自衛のために核やミサイルを持つことを目指しているが、実際の現在の段階でこれを使えば自国が壊滅させられることも知っており、アメリカも東アジアで今の時点で戦争の起こす可能性は低い。

 日本や韓国にいるアメリカ人も普段通りだし、韓国がが平静なことを見ても分かるであろう。むしろ、アメリカやそれに乗せられた日本がこの機会に便乗して、今にでもミサイルが日本に飛んでくるぞとばかりに、必要以上に危機を煽り立ててそれを利用しようとしている方が目につく。

 日本ではミサイルが飛んできたらどうするかと行って、アラーム警報を鳴らし、住民の退避訓練が行われた所まである。それもミサイルが飛んできたら体を低くして頭を抑えろだとか、バケツリレーで火を消せだとか、およそ時代遅れの対応を勧めているに過ぎない。

 そんなことで国民を騙せると思っているわけでもないであろうが、そんなことより狙いはこの機会を利用しての軍備増強である。来年度の予算で防衛省は過去最大の5兆2500億円を要求することになったと新聞は報じている。ステルス戦闘機36機、オスプレイ17機、無人偵察機グローバルホーク3機、イージス・アショア一1基とか言われている。

 兵器と言われるものの値段があってないようなもので、上記のうちグローバルホークは値段が25%程つり上り、さらに今後もっと上がる可能性があるからと言って躊躇されているとか報じられている。

 これで一番儲けるのはアメリカの軍需産業である。トランプ大統領のバイアメリカ政策にとっては願ってもない機会であり、相手である。兵器ほど高額の消耗品で、使わなくともすぐに時代遅れで更新しなければならない物はない。

 アメリカの言うままに高額の出費をしてアメリカ軍の補填用の武器をたくさん買うぐらいなら、もう少し高齢者の年金や医療保険少子化対策、貧困対策、その他国民経済のために緊急を要する問題も山積しているのだから、そちらの方に、お金を回して欲しいものである。

 それまでしてアメリカに尽くしても、いざ有事の際にアメリカがどこまで日本を守ってくれるか甚だ疑問である。アメリカにとっては日本が利用価値がある間は、日本をとことん利用すれであろうが、不利になれば自己の大きな犠牲を払ってまで日本を守るはずはない。

 今朝の新聞を見ても、元の自衛隊の幹部も日本を守るのは日本であり、日米同盟でアメリカの果たす役割は、日本が攻撃された時、敵国に反撃するのがアメリカの役割だといい、尖閣諸島防衛などににアメリカが出動するようなことは考えられないと言っている。

  アメリカとの友好関係を反故にする必要は更々ないが、徐々に真に独立した日本を考えていくべき時がきているのではなかろうか。

国はいつでも国民を守ってくれるか

 最近の朝日新聞に戦争孤児のことが載っていた。もう今の若い人にはわからないだろうが、敗戦後何年間かは東京でも大阪でも周囲が焼け野が原だった大きな駅の近くには闇市が出来、闇屋や買い物客に混じって、浮浪者や傷痍軍人、娼婦が欠かせない存在であった。

 殆どの国民が飢え、その日暮らしであったが、戦争によって傷付き、不具になった人や、家族を失った人、親を失った子供たちさえも誰も助けてくれないので、人の集まるところに群がって、人に物をせびったり、盗みを働いてでも、なんとか生きる道を探すよりなかった。

 敗戦後の国にはこれらの人々を助ける余力もなく、多くのこうした人々は自力では生きられず、多くに人たちは次々に亡くなっていった。周囲の人たちも自分が生きることに精一杯の時には、周りの人たちを助ける余裕もないので、こういった弱者はむしろ忌み嫌われ、排斥さえされていったことも忘れられない。

 上野駅の地下道などに屯していた浮浪児たちを当時の言葉で「狩り込み」といって一斉に捉え、トラックの荷台に乗せて、そのまま夜の山奥に捨てたといったことまであった。

 これらの人々は決して怠惰であったわけではなく、殆どの人は普通の善良な国民であった。それどころか国のために戦って傷ついた人であったり、戦災で家を焼かれ家財を全て失った人たちであるとか、夫の戦死で戦争中は「誉の家」として表彰されていたのが敗戦で打ち捨てられた人、あるいは学童疎開している間に都市の空襲で親も家族も亡くしてしまって孤児になってしまった子供達などであったのである。

 当時の世論では皆が戦争の犠牲になったのだから仕方がないとする声も強かったが、戦争による被害の性質や程度は人それぞれであった。戦争中は「一億一心」だの「忠君愛国」と言い、「挙国一致」が叫ばれたが、国が敗れれば全てがおじゃん。世の中の秩序も失われ、誰も助けてはくれなかった。

 政府や為政者たちは敗戦の交渉時にも、戦後においても天皇制を守ること、天皇の責任を回避することには最大限の努力はしても、自分たちの生き残りに汲々として、国民の窮乏を救う努力は二の次で、殆ど放棄されていたと言っても良い。占領軍に媚び、かろうじて治安を維持していくのに精一杯であった。

 どこからの助けもない一般の人たちは、敗戦後の混乱した無政府状態では、人々は勝手に生きるよりなかった。強い者は生きれても、弱い者は生きられない惨めな世の中であった。そういう時代には、モラルは低下し、弱肉強食となり、占領軍に媚を売ったり、隠匿物資を着服したり、裏社会で権力者と結びついて、大衆の犠牲の上に生き延びた一部の人たちもいた。

 戦争に負け、外国軍隊に占領され、社会が崩壊したこういう時代の社会が如何に惨めで、政府も国民を救ってくれず、如何に多くの人が飢えや窮乏のために亡くなっていったことか。亡くならなくてもこの戦争や敗戦によってすっかり運命を変えられてしまった人たちの多かった事実も忘れてはならない。

 

戦前の移民政策

 私の子供の頃は日本の人口は7千万人だと教えられていた。朝鮮半島や台湾の植民地の人口を加えて1億人ということであった。それでもよく聞かされたのは「こんな小さな国土にこんな大勢の人を養って行ける訳はないだろう。」ということだった。

 そんな言葉に乗せられて始まったのが、南米への移民政策であった。その頃の日本の農村は貧しく、「働けど貧しくじっと手を見る」状態で、移民をして新天地を開拓しなければ、というキャッチフレーズで貧しい農民たちを勧誘して、国策として移民政策を進めたのであった。その頃の国の経済の収支バランスは例年少し赤字であり、それを出稼ぎ労働者からの海外からの送金で何とか辻褄を合わせるような状態であったことも関係があったのかも知れない。

 昭和の初めは凶作が続き、貧しい農家などは新天地開拓という国策に乗せられて大勢の人が遠く南米まで移民することになったようである。ところが政府の援助は移民を送り出すところまでで、その後は自己責任で保護はなく、初めての知らぬ異国で移民たちは随分苦労させられたようである。しくじって帰ってきた人もいたが、多くの人たちは残るも地獄、帰るも地獄で、そのまま前向きに我慢するよりなかったらしい。

 その後、昭和ももう少し進み満州に傀儡国家が出来、ここを日本が支配するようになると、今度は満州こそ日本の生命線と言われるようになり、王道楽土のキャッチフレーズも加わり、満蒙開拓団が貧しい農村を軸に組み立てられ、村ごとの所もあるぐらい、国策として大規模な移民が奨励され、送り出された。

  ところが、大々的な宣伝に乗せられ希望を持って送り出された彼らの運命は、あの戦争の結末によってこれ以上のない悲惨なものになってしまったのはご承知のとおりである。この時も国は彼らを助けなかったのである。

 精鋭を誇った関東軍も戦争末期にはほとんどが南方戦線へ転進し、満州には補充部隊のような戦力しかなく、ソ連の参戦とともに、軍の幹部は一般人を捨て置いていち早く内地に逃げ、残された人々は誰にも保護されることなく放置され、過酷な経験を強いられ、多くの犠牲者を出し、日本まで引き上げることの出来た人はごく限られて人たちだけとなったと言われる。

 いづれの場合を見ても、国はその時その時の国の方針によって国民に勧め国民を利用するが、事態が変われば、決していつまでも面倒を見てくれるものではない。政策が変われば、その時の政府に都合の良いように扱われることになり、最悪の場合にはすっかり捨てられることにもなることが分かる。

 満蒙開拓団の場合など、うまくいけば日本の生命線である王道楽土の満州の建設者として褒め称えられるべきであったのであろうが、現実に起こった結末は命さえ保障されずに敵地に放り出される運命であったのである。

 国家は都合が悪くなれば、一部の国民を見殺しにして顧みないこともあることの歴史的証査ともいえるのではなかろうか。

 

ふたつのフィリッピン映画

 最近、偶然フィリッピンの映画を二本立て続けに見た。

 一つはMa Rosa(邦題:ローサは密告された)というフィリッピンの監督、ブリランテ・メンドーサの作で主役の女性はカンヌ国際映画祭で主演女優賞をもらっている。

 もう一つはBlanka(邦題:ブランカとギター弾き)。こちらは監督は日本の新人監督の長谷井宏紀氏。ヴェネツィアビエンナーレヴェネツィア国際映画祭の全額出資を得て作られ、ヴェネツィア国際映画祭他で多くの賞を得ている作品である。

 両作品とも、マニラの貧民窟で逞しく生きる人々を描いたもので、ギター弾きは本物の流しの盲目の人で、他の出演者もほとんどがスモーキーマウンテンあたりで監督が見出した素人ばかりということだった。

 どちらもなかなかの力作で見応えがあったが、Ma Rosaの方は貧民窟で小さな雑貨店を営むが、麻薬も扱っており、警官に踏み込まれて夫婦が逮捕される。ところが警察も腐敗していて、常習的に金を積んだら釈放するという裏取引を持ちかけるような所なのである。

 親が逮捕されたのを知った息子や娘が警察署にやって来て、親から金を要求されていることを聞き、それぞれ子がそれぞれに無理をして金を算段するが、集めても要求額に少し足りない。最後にその分を母親のRosaが任せろとばかりに質屋に行ってケイタイを売って、用立ててくるストーリであるが、 Rosaの演技が素晴らしい。 

 最後の串刺しの饅頭(?)を一つづつ食べながら街を眺める彼女の逞しい表情にはこちらもついホロリとさせられるものがあった。

 マニラの貧民窟やそこで暮らす人々の様子、腐敗した警察内部のまるでヤクザのような裏事情などもよく描かれており、私には日本の戦後の闇市なども思い出されたし、マニラの貧民窟の様子もいくらかわかるような気がした。

 なかなか力強い作品で、最近見た映画の中では一番印象深いのではないかと思われた。

 一方、Blankaの方も主演の11歳の少女の演技も歌も立派だったが、監督が見つけてきた子供たちの演技も素晴らしく、全体としてもなかなかよく出来た作品に仕上がっていた。

 この映画がヴェネチアで映画賞を貰った3日後にこのギター弾きが亡くなったと出ていたのも印象的だった。

 こちらもマニラの貧民窟での孤児たちの逞しい生き方をうまく描いており、それでいて少女の母を買おうとする発想や、盲目のギター弾きとの友情など印象に残る場面も多かったが、MaRosaに比べると、見方が第三者的で、ストーリーももう少し整理した方が良かったのではなかろうかと感じた。

 現在のフィリッピンの経済状態がどうなのか、その中でマニラの貧民窟の現状などがどうなのか、フィリッピン映画の現状がどうなのかについて詳しい知識はないが、人々はどんな厳しい条件に置かれてもそれなりに工夫して逞しく生きるものだなと考えさせられた。

 今の日本と照らし合わせても、両作品ともに見て良かったというのが今の感想である。