軍隊は国民を守るためのものではない

 私の子供の頃には「肩を並べて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです、お国のために戦った兵隊さんのおかげです」という歌があり、まともに軍隊はいつも国民を守ってくれるものだと思っていました。

 今でも自衛隊は災害時などでは真っ先に人々の救助に当たったりして被災者らに感謝されており、それらを見て、多くの人たちは国民が困った時には自衛隊が助けに来てくれるのではないかと期待しているようです。

 それだけに国民は困った時には必ず自衛隊が助けてくれるであろうと期待するのは当然のことかも知れません。万一何処かの国が日本に攻めてくるようなことがあれば、自衛隊が国民を守るために戦ってくれるであろうと考えるのが普通でしょう。

 しかし、自衛隊にしても、軍隊にしても、外国が攻めてくれば、国を守るために戦いますが、それは国家権力を守るためであって、国民を守るのはそれに付随した行為に過ぎないのです。軍隊は国家の組織であって、国民を守るための組織ではありません。国家の権力と国民とは違うことを知るべきです。

 もちろん、大日本帝国の軍隊では、隊員に対して天皇や国家への忠誠を誓わせても、国民を守ることについては教えませんでしたし、おそらく自衛隊にしても同じようなものではないでしょうか。

 あの戦争の時を思い出してください。沖縄戦の時には軍隊は自分らが戦うために都合が悪ければ、せっかく退避している住民を壕から追い出したり、自殺を強要したり、泣き声が邪魔になると言って赤子を殺したりもしました。

 終戦間際の旧満州ではソ連が攻めてくると、高級将校たちは住民を捨ておき早々と内地に逃げ帰り、そのため残された住民は塗炭の苦しみに遭わされました。サイパン島では多くの一般人が追い詰められて島の端の断崖から海に飛び込んで亡くなりました。そのほかにも多くの例があるでしょうが、負け戦の軍隊は国民を守るどころではありませんでした。

 これらは負け戦だったから仕方がなかったと言えるかも知れないとしても、勝ち戦であろうが、軍隊が戦うのに邪魔となれば一般のの国民はそこから排除されることになります。

 戦争中のことでなくても、戦後にソ連が攻めて来た場合を想定した北海道での自衛隊の机上演習の時も、札幌は人口が密集しているので、守るのは困難なので一旦周辺の山地に撤退して反撃するという案が採用されたそうです。

 また軍隊は国民の政府に対する反対を抑圧する手段としても使われます。警察の対応では制御が困難になった時に軍隊を動員して民衆を抑圧するのは、世界中で見られる政府の対応の仕方です。日本でも安保闘争が激しくなった時に、実際に自衛隊を動員する案が浮上していたと中曽根元首相が書いています。

 これらから見ても軍隊が国家の暴力機関であって、国民を守るためのものではないことがわかるでしょう。

 その上、今の日本では国家権力を守るべき自衛隊地位協定によってアメリカの実質的な指揮下にあり、アメリカ軍の許可がなければ日本の国家権力を守ることすらできない仕組みになっていることも忘れてはならないでしょう。

 当然自衛隊はアメリカが許可し、日本の国家権力がそれを望む時に限って、国民を守るために働くことが出来るということです。災害時の自衛隊はその範囲で被災者のために働いているのです。

 国と国民は異なるもので、国民が何よりも守りたいものは国家権力より先に、自分たち家族であり、財産であり、故郷としての国ではないでしょうか。

敗戦の日に

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 1945年8月15日は私の少年時代のあの長かった戦争が敗戦で終わった日である。もう72年も前のことになるが、未だに昨日のことのようにさえ思われる。

 この写真は「焼き場に立つ少年」という有名な写真で、戦争直後にアメリカの従軍記者が撮ったもので、委細は知らないが、すでに死んだ幼児を背負って、親か家族かわからないが、親密だった人が荼毘に付されるのを、直立不動の姿勢で、唇を噛み締めながら必死に悲しみに耐えて、眺めているところである。

 この写真は戦後に取られたものであろうが、この姿は戦争末期の少年たちの姿を象徴しているようで、似た世代の私には特に強く訴えてくるものがあり、忘れられない。

 敗戦間際になってくると、アメリカの飛行機は我が物顔で上空を飛び回るし、こちらの軍艦は皆沈められてしまって醜態を晒しているし、日本国中都会と言われるところは殆ど皆空襲で焼け野が原になり、沖縄まで占領され、広島、長崎の原爆投下も加わって、殆ど国民生活が成り立たないまでに追い詰められてしまっていた。

 いくら大本営発表で戦果が唱えられても、、ここまで来ては、誰の目にも戦いの帰趨は明らかであった。ラジオでも本土決戦、最後の決戦、一億火の玉、敵を本土の引きつけて一挙にやっつけるのだといっても、もはや誰も信じられない。

 しかし、大日本帝国に純粋培養されたようなもので、他の世界を全く知らない少年にとっては、天皇の国が負けるという考えは選択肢になかった。おかしなことをいうものだ。最後の決戦ならアメリカに攻めていってからのことではないか。もはやどう見ても勝つ見込みは見当たらないが、神州は不滅、負けるはずがない。そうかと言って神風が吹く可能性もない。結論としては「どうにかなるだろう」としか言いようがなかったことを覚えている。

 それでも、海軍兵学校の生徒として、「天皇陛下の御為には死を賭して与えられるであろう任務を果たさなければならない」と心から思っていた。その時の思いが上の写真の少年の姿に共通しているところがあるように思えてならない。極度に追い詰められてもなおじっと我慢して頑張り抜こうとしていたのであろう。

 この少年がその後どうしたのかは知らない。私の場合、その気持ちが消えていったのはいつだっただろうか。敗戦の報を聞いてもなお残念無念、「帝国海軍は最後まで戦うぞ。貴様たちは帰ったら最寄りの特攻基地へ行け」という上級生の声にも半ば同調していた。 

 しかし、敗戦の事実は変わらない。事実として次第に受け入れて行かざるを得なかった。ただ、本当に敗戦を身を以て感じ、自分のそれまでの精神的な支えが崩れていったのはもう少し先になってからである。復員して大阪に戻り、荒れ果て疲弊した町や近郊を見てからであった。

「国破れて山河あり」とつくづく思いながら、人々の行動や世の中の価値観の急変振りをみて、自分の中のすべてのものがまるで建物が崩壊するように崩れ落ち、虚無の世界へ突き落とされていくのを感じた。

 私にとっての敗戦は単にこの国が戦争に負けたというだけではなかった。それまでの自分の生存の根幹が全て奪われ、無くなってしまったのであった。神も仏も救ってはくれなかった。信じられるものは何もなくなった。

 どうせ人類も何千年先かは分からないが、いずれは滅びるものだ。どう転んでも大して変わりはないのではないか。どんな努力も所詮は無駄だというような自暴自棄のニヒリズムに陥り、あてどもなく闇市や焼け跡をふらつくこととなった。寂しい顔をしていたのであろうか、友人に孤児と間違えられたこともあった。

 自殺を考えたこともあった。当時は多くの若者が暴走したり、薬物中毒になったりし、自殺も稀ではなかった。ひょっとして途中で後悔するかもという微かな希望が自殺から救ってくれたのかも知れない。しかし希望もなく、何の努力をしようという意欲もなく、ただ呆然と生きているといった状態が長く続いていたような気がする。今で言えばPTSDといったところであろうか。

 こうした戦後の虚脱状態から立ち直るのには数年以上もかかったような気がする。同年代の人でも敗戦による衝撃の大きさはかなり違ったようで、敗戦をすぐに喜べた人もいるし、そうでなくても社会の変化にうまく適応して行けた人もいる。

 しかし精神的な発達が奥手で、表の大日本帝国しか知らなかった私は敗戦を契機にした百八十度の世の中の価値観の変動に戸惑い、新たな社会の変化に適応するのに時間がかかったようである。

 敗戦を契機に昨日まで熱烈に忠君愛国と言っていた人が急に民主主義を唱え、為政者の無能を批判して、自己の利益だけを追い、占領軍に媚びを売るなど、周りの人々の豹変ぶりに無性に腹が立ち、時代に背を向けていた時期も続いた。

 その傷はその後も完全に消えることなく続き、これまでの人生にもあちこちで影響して来たのではなかろうか。未だに何処かにニヒリズムの痕跡を残しているような気がしてならない。

 これが私にとっての敗戦であった。もうこんな経験を次の世代の人たちにして貰いたくない。戦争はするべきでないし、若い人たちには広く世界に開かれた知識や判断を養う教育をして欲しいものである。

 

「おはよう」の押し売り

 他のところでも書いたように、私はここ十年ばかり、月に一度は女房と一緒に箕面の滝まで歩くようにしている。阪急の箕面駅から滝まで往復5.8キロ、渓流沿いの道で、春は新緑、秋は紅葉を愛でながら行き、滝を眺めて帰って来るととても気持ちが良い。

 たいてい箕面線の一番電車で行くが、地元の人が多いので、こちらが行く頃には早くも降りてくる人もいる。最近では走っている人も増えたようだし、滝の上にある政の茶屋にサイクリングのチェックポイントがあるので、自転車で上がって行く人もいる。

 最近は減ったが、猿の群れに遇うこともあるし、山の上に鹿がいるのを見ることが出来ることもある。何の鳥か、遠方の枝に止まった鳥を望遠レンズで観察している人がいたりもする。

 大抵は一番電車が箕面駅に着くのが5時10分頃なので、そこから出発して滝まで往復して6時14分の電車に間に合うように降りてくるので、かなりの速度で登り降りしていることになる。

 年をとるごとに次第に歩く速度は落ちてはいるが、まだまだ連れ立って登っているような人達を何組か追い越して行くことになる。朝の山道はさっさと歩いた方が気持ちが良い。森の緑や谷川のせせらぎの音、鳥の鳴き声など自然に包まれて歩ける幸せさえ感じる。

 その上人知れぬ深山と違い、所々で人に出会うのもよい。山道などは一人で歩くのも悪くはないが、少しは人気があって、出会う度ごとに人懐っこくお互いに挨拶を交わすのもまた楽しい。いつからか、出会った人には必ず誰にでも「おはようございます」と挨拶をすることに決めている。

 大抵は向こうからも「おはようございます」と返事が返ってきて、こちらも気分が良くなるものであるが、世の中には色々な人がいることもわかる。すぐに喜んだ声が返って来ることもあるが、中には仕方がなさそうに返事をする人もいる。「おす」とか何とか口籠もったまま通り過ぎる人もいる。

 だいたい女の人は挨拶は返さなければと思う人が多く、返事をされるのが普通だが、若い男性では、日頃から挨拶に慣れていない人もいるのか、挨拶をしても黙って通り過ぎる人もいる。人によっては、道ですれ違った人にいちいち挨拶するのを煩わしく思う人もいるのではなかろうか。

 返事はいろいろだが、こちらは滝道の公園の範囲内では、走っている人や自転車の人は別として、滝に向かって登り降り、歩いている人には、すべての人に例外なく「おはようございます」と挨拶の言葉をかけることにしている。挨拶することによってこちらの心も解放されるので、自分のためにしているのである。

 あまり律儀に声をかけるので、女房に「挨拶の押し売り」だと言われたこともあるが、「おはようございます」と言われて怒る人もいないだろうし、声を出すことがこちらにとっても気持ちが良いので止められない。

 アメリカから来た孫たちも、一緒に滝まで行ったことがあるが、おはようはOHIOと同じと言ったらすぐに覚え、一緒におはようございますと挨拶していたことがあった。

 朝早くの滝道は何回行っても気持ちの良いものである。遠方にお住まいでなければ、是非一度早起きをして試して見られてはどうだろうか。

情けない政府

 最近沖縄の米軍所属のオスプレイがオーストラリアで訓練中に着艦に失敗して墜落し、3名の兵士がなくなる事故が起こった。

 オスプレイはその前にも、沖縄での訓練中に、空中空輸に失敗して墜落したこともあり、日本政府は近々北海道でオスプレイを使った日米の共同訓練が行われることも考慮して、暫くの間オスプレイの飛行を中止するように米軍に申し入れたそうだが、米軍はオスプレイは世界中で飛んででおり、運用上必要で、飛行を中止する理由はないとして引き続きオスプレイを計画通り飛ばしているようである。

 それを聞いて江崎沖縄、北方領土担当大臣は「地位協定をもう少し見直さないといけない」と言ったが、協定見直しに消極的な政権側から見れば、新任大臣の認識不足に過ぎず、大臣も後からそれを否定することになった。

 この大臣は就任早々記者に「国会答弁で立ち往生するのを避けるために『役所の答弁書を朗読する』」と言って問題になったり、首相から飲酒について注意を受けるなどをして、野党の追及の標的にされそうな新人大臣だが、それだけに沖縄問題などについてもまだ素人なので、つい常識的な発言をしたのであろうと思われるが、それこそ常識に叶う正論ではなかろうか。

 日本政府の方こそ、一方的なアメリカ追随で、当事者能力にかけるというべきではなかろうか。国民は政府が国民を守るために、少なくとも独立国家として、オスプレイの飛行禁止ぐらいはアメリカに要求出来るぐらいの強い態度をとって、それこそ地位協定の改定をしてもらいたいところである。

 沖縄の少女殺害事件などの時においてさえも、米軍の軍属の範囲をいくらか変えただけで、地位協定の改定にまでは踏み込めなかったので、あまり期待は出来ないだろうが、国民を守る責務のある政府としてあまり情けない姿をいつまでも続けて欲しくないものである。

  

八月は特別な月

 一年は十二ヶ月あり、季節が巡り、それぞれの月にそれぞれの用事や行事、思い出があり、忽ちに年が巡ってしまうものだが、その中で私にとって一番特別な月と言えば、以前にも書いたが、やはり八月である。

 もともと、子供の頃から八月は夏休みがあって、特別の月であった。海や山へ遊びに行ったし、昆虫採集をしたりして、近くでも存分に遊ぶことができた。ただ、友人たちがそれぞれ田舎(故郷)へ帰るのに、田舎のない私には帰る所がなく、友人たちを羨ましく思ったものだった。

 子供の頃は別としても、八月の猛暑の続く間は、冷房のなかった時代には、夏は仕事も適当に手を抜いて休むべしという風潮があった上に、誰にとってもお盆が大きな年中行事で、帰郷したり墓参りをしたりで、誰しも非日常の生活の多い季節となっていた。

 しかし、私に取って八月がその上に特別の月となったのは昭和二十年からである。その年のことは今も忘れることができない。私の九十年の歴史はそこでポッキリと折れ曲がってその前後で全く違った世界の記憶を作っているのである。

 その年には八月早々、六日の朝八時十五分広島へ原子爆弾が投下され、閃光に遅れて轟音が響き、続いて見た雲ひとつない青空には、むくむくと登っていく悪魔のような原子雲が見えたのである。その強烈な印象は今もはっきりと網膜に焼き付いたままである。戦後も長い間、空高く上昇する入道雲を見る度にこの原子雲が思い出されたのであった。

 次いで七十二年前の今日、九日には今度は長崎への二度目の原子爆弾攻撃があり、十五日の正午には聞き辛い録音の玉音放送で敗戦を知らされて呆然となり、二十四〜五日には広島の焼け跡を宇品から広島駅まで歩いて復員することになった。この年はお盆など頭の中には全くなかった。

 それからもう七十年以上がいつの間にか経ってしまった。世の中はすっかり変わってしまったが、八月は色々な事が重なりいつも忙しい。昔に倍する七月からの猛暑を引き継ぎ、台風が荒れ、蝉しぐれが続き、花火や夏祭りがあり、ヒロシマナガサキ敗戦記念日と言っている間に、やがて土用波が押し寄せる頃となり、河原のジャズフェスティバルが催され、高校野球が始まり、決勝戦が終わるとたちまちお盆。

 そのうちに蝉の声がツクツク法師に代わって、夏の怠惰な生活に焦りを感じさせ始める。夜には早くも秋の虫の声が聞こえ始め、夜風が涼しく感じられるようになり、がんがら火祭りが通り、地蔵盆の燈があちこちでちらつくようになると夏ももう終わり。八月は足早に過ぎ去っていくのである。

 このように八月は忙しい中で、今なお、これでもかこれでもかと毎年戦争を、そしてそれに絡んで過ぎ去ってきた自分の人生を嫌でも思い出させることになる。何よりもそういう意味で私にとっての八月が特別な月なのである。

 なおその上に、一昨年には八月四日に心筋梗塞になり、循環器病研究センターに救急入院し、ステント治療で事なきを得たが、一週間で退院後、今度は血管性失神発作で再入院というおまけまでついて、八月を私にとって更に特別な月にしてしまったことまで付け加わった。

 老人にとっては冬の寒さも身にこたえるが、殊に近年の異常さを増した夏の暑さには殆ど耐えきれない。今はただその一刻も早い退散を願うばかりである。

原爆の日に

 昨日は広島へ原爆が落とされた日であった。もう72年以前のことになるが、未だに昨日のことのように思い出す。

 午前8時15分、その海軍兵学校生徒で江田島にいた私は、朝の自習時間中であった。突然教室にそれまで経験したこともない閃光が走り、何事かと思ったら少し間を置いてどかーんという轟音が響き、皆が一斉に飛び出した時には、空にムクムクと原子雲が湧き上がり空高く成長していくのが見られた。

 その時はまだ原子爆弾ということはわからなかったが、あの閃光と轟音に続く湧き上がった巨大な雲を見て、すごい爆弾が落とされ、きっとあの雲の下では大きな犠牲が出ているのだろうと想像するだけで実態はわからなかった。軍の発表では新型爆弾という言葉が使われた。

 それからやがて敗戦。粋の良い上級生が日本刀を抜いて「海軍はあくまで戦う。貴様たちは帰ったら最寄りの特攻基地へ行け」などと檄を飛ばしたりしていたが、8月24〜25日頃だったと思うが、「生徒は早く故郷へ帰らせよう」という方針で、カッターに分譲させられ、曳航されて、広島の宇品について、そこでしばらく待機させられた後、そこから右手に比治山を眺めながら、それこそ何も残っていない壮大とも言える焼け跡を徒歩で広島駅まで歩いた。

 人っ子一人いない感じの見渡す限りの焼け跡。端から端まで大地が全て茶褐色の瓦礫で覆われていた。大阪などで見た焼け跡と違い、何か燐の燃えるような匂いが漂っていたのを覚えている。半ば裸の男が二人ともに、体中が赤と白との斑点状になった皮膚をして、お互いに助け合うような格好をしてもたれあいながらよたよたと視界をよぎっていくのが見られた。

 焼け跡には所々に「赤痢が流行っている。生水飲むな」と書かれた紙が焼けてひん曲がった鉄棒などに巻き付けられているのが印象的であった。炎天下を長い間歩いたが、全てが焼け跡だけであった。

 その時はまだ戦争中と同じ気分だったので、こんな災禍をもたらしたアメリカに対する憎しみと怒りと、そのアメリカに負けた屈辱感でいっぱいであった。この恨みはいつかは晴らさなければと思っていた。

 広島駅で長い間待って、夜になって無蓋の貨物列車に乗り、乗せてくれという大勢の民衆を兵隊が振り落としてようやく出発し、無蓋車なので煤で真っ黒になって朝方にようやく大阪に帰り着いたのだった。

 その後、原爆については多くの事実を知ったし、多くのことを学んだ。しかし、どう見ても原爆は人道に反する犯罪である。日本の侵略戦争のことを考慮し、一般的な戦争の非情さを考慮に入れても、人道上許されない犯罪行為だということは間違いない。戦争は人を非理性的な残虐行為に駆り立てるものであるが、化学兵器禁止条約などがすでに結ばれていたことや、戦後の極東裁判で人道上の罪が追求されたことからしても、原子爆弾の非人間性を見れば、その一般市民への投下が罰せられなければならないのは当然であろう。

 現実の問題としてそれが不可能な現在、少なくとも将来を見据えて核兵器廃絶を求めることは当然のことで、日本がそのリーダーシップを取るべきであるが、戦後アメリカの属国にさせられてしまった日本は、72年経った今なおアメリカの意向を考慮して核兵器禁止条約にまで反対している哀れな状況である。

 「過ちは繰り返しません安らかにお眠りください」と書かれた原爆慰霊碑がまるで死者を欺き冒涜しているようなものではなかろうか。この荒れ狂う世界の中で対処を迫られる多くの問題があることは十分わかるが、原爆による多くの無辜の死者たちの無念に答える最低限のことは残された我々の義務である。

 72年経っても昨日のことのように忘れられない原爆、そしてあの無謀な戦争。8月になるごとに改めて思い返すのが責務のようになっている。死ぬまでは忘れようとしても忘れることができないのが戦争であり、原爆である。

 最後に一言付け加えたいのは、最近南京虐殺はなかったなどという人までいるが、日本による中国侵略や、南京占領時の大量虐殺は事実であり、我々が原爆を忘れられない限り、中国人も日本による侵略や南京虐殺を忘れないことを知るべきである。お互いに世界中の人たちが、過去を正しく知り、人間の愚かさを理解し、お互いに過去の過ちを許す寛容さを得て、初めて真の友好関係が築かれるのではなかろうか。

 

誰もが東京五輪を目指すわけではない。

 

 あるマラソンの選手が三十歳になるので、出来るところまでは続けたいが、歳からいっても東京オリンピックまでは無理だろうから適当なところで引退しようかと思って、その旨を長距離マラソン強化プロジェクトチームの陸上競技連盟の理事に告げたところ、当然のことながら、何とかオリンピックまではやって欲しいと強く言われたそうである。

 今の日本のスポーツ界では全てがオリンピッックを目標に突っ走っているように見える。ところが個々の選手にとっては、年齢も体力もいろいろで、全ての人がオリンピックの時と自己のベストの条件とを一致させられるかどうかはわからない。

 それに誰にとってもスポーツがその人の人生の全てでないし、本来人とスポーツの関わり方は人それぞれであり、本人の好みによって楽しみ方も違ってくるものである。オリンピックは各自がその楽しみ方の一部を主体的に捉える機会に過ぎない。

 その人も「誰もが東京五輪のためにスポーツをやっているわけではありません」と言って断ったそうである。その人は、「今や皆が皆オリンピックが目標と言わねばならない雰囲気が嫌で、まるで戦争中みたいだ」と言い、東京五輪目標の大義から少しでも脇道へそれたら「お前らは非国民」みたいな雰囲気だとこぼしていたそうである。

 SNS から拾った話なので詳しいことは分からないが、これまでの日本のスポーツ界の動向や政府の東京オリンピックへの異常なまでの肩の入れようを見ていると、充分ありうる話である。

 本来オリンピックは個人が楽しむスポーツの大会であって、それを機会に世界中の人がスポーツを介して友好を深めるためのものであり、勝つことが目的ではなく、ましてや国が音頭をとって国威発揚に利用したり、商業主義に走って商売のネタにするためのものではない。

 オリンピックについては今後いろいろな面でますますやかましくなるであろうから、その時々で触れることになるであろうが、ナチスがオリンピックを国威発揚に利用したような真似はやめて欲しいものである。

追記:こう書いてUPしたのだが、その後、8月7日のあるSNSを見ていると、次のような記事が出ていた。椎名林檎という、リオ五輪の閉会式のフラッグハンドオーバーセレモニーの企画演出・音楽監督を務めた人が、東京オリンピックについて、何処かで「国民全員が組織委員会」「国内全メディア、全企業が、今の日本のために仲良く取り組んでくださることを切に祈っています」と国民に協力を呼びかけたそうだが、それに対する、オリンピックの選手であった有森選手の発言が載っていた。

「アスリートファーストと言いながら、全てがオリンピックファーストで、オリンピックだからいいだろう、だからこう決めるのだと、あまりに横柄で、社会とずれる感覚でことが進められている。昔からオリンピックに政治は関わらないと言われるが、そんなことを信じる人はいない。お金とか、政治力とか、どんな人が関わっているとか、本当に裏は汚い。スポーツも文化もすべて社会で人間がきちんと楽しく、平和に健康でいるための手段のひとつであり、まず“社会ファースト”であるべきだ。」と主張している旨であった。

 このSNSでは「オリンピックに対する批判が言いにくい空気の中、当のアスリート側からこのような批判が出てくるのは意外なようにも感じる。」と締めくくっていた。