戦前の移民政策

 私の子供の頃は日本の人口は7千万人だと教えられていた。朝鮮半島や台湾の植民地の人口を加えて1億人ということであった。それでもよく聞かされたのは「こんな小さな国土にこんな大勢の人を養って行ける訳はないだろう。」ということだった。

 そんな言葉に乗せられて始まったのが、南米への移民政策であった。その頃の日本の農村は貧しく、「働けど貧しくじっと手を見る」状態で、移民をして新天地を開拓しなければ、というキャッチフレーズで貧しい農民たちを勧誘して、国策として移民政策を進めたのであった。その頃の国の経済の収支バランスは例年少し赤字であり、それを出稼ぎ労働者からの海外からの送金で何とか辻褄を合わせるような状態であったことも関係があったのかも知れない。

 昭和の初めは凶作が続き、貧しい農家などは新天地開拓という国策に乗せられて大勢の人が遠く南米まで移民することになったようである。ところが政府の援助は移民を送り出すところまでで、その後は自己責任で保護はなく、初めての知らぬ異国で移民たちは随分苦労させられたようである。しくじって帰ってきた人もいたが、多くの人たちは残るも地獄、帰るも地獄で、そのまま前向きに我慢するよりなかったらしい。

 その後、昭和ももう少し進み満州に傀儡国家が出来、ここを日本が支配するようになると、今度は満州こそ日本の生命線と言われるようになり、王道楽土のキャッチフレーズも加わり、満蒙開拓団が貧しい農村を軸に組み立てられ、村ごとの所もあるぐらい、国策として大規模な移民が奨励され、送り出された。

  ところが、大々的な宣伝に乗せられ希望を持って送り出された彼らの運命は、あの戦争の結末によってこれ以上のない悲惨なものになってしまったのはご承知のとおりである。この時も国は彼らを助けなかったのである。

 精鋭を誇った関東軍も戦争末期にはほとんどが南方戦線へ転進し、満州には補充部隊のような戦力しかなく、ソ連の参戦とともに、軍の幹部は一般人を捨て置いていち早く内地に逃げ、残された人々は誰にも保護されることなく放置され、過酷な経験を強いられ、多くの犠牲者を出し、日本まで引き上げることの出来た人はごく限られて人たちだけとなったと言われる。

 いづれの場合を見ても、国はその時その時の国の方針によって国民に勧め国民を利用するが、事態が変われば、決していつまでも面倒を見てくれるものではない。政策が変われば、その時の政府に都合の良いように扱われることになり、最悪の場合にはすっかり捨てられることにもなることが分かる。

 満蒙開拓団の場合など、うまくいけば日本の生命線である王道楽土の満州の建設者として褒め称えられるべきであったのであろうが、現実に起こった結末は命さえ保障されずに敵地に放り出される運命であったのである。

 国家は都合が悪くなれば、一部の国民を見殺しにして顧みないこともあることの歴史的証査ともいえるのではなかろうか。