96(苦労)の歳、97(苦難)の歳

 1月28日の朝日新聞の歌壇の欄に、

"苦労(96)過ぎ苦難(97)の歳へ入りにけり難聴頻尿の寂しき元朝" (東京都)青木久彌

という歌が載せられていた。それを読んだ女房が「まさにあなたを読んだ歌じゃない?」と冷やかした。年齢も同じ、症状もそっくりである。

 96歳が苦労、97歳が苦難とは今まで気が付かなかったが、成程と感心した。私の場合は、これまで健康に恵まれ、女房も健在で、呑気に暮らさせて貰っているので、あまり苦労や苦難を感じさせられないで此処まで来たが、やはりこの年になると、誰しもご同様に使い古した体にはあちこち故障が起こって、人知れぬ苦労があったり、苦難を乗り越えなければならないもののようである。

 目は悪くなって、最近民博映画祭で韓国映画を見た時には、スクリーンが遠くて小さめで、字幕が小さくて読めなく、話についていくのが大変だったり、日常生活でも、耳が悪いので、聞き間違えが多くなるし、何か問われても決まって聞き直さなければならない。地面が黄色に染まっているのに金木犀の匂いさえ分からなくなってしまっている。

 感覚ばかりか、体力も衰え、「よっこらしょ」と掛け声をかけないと体が動かないし、どうかすると転倒する。ご同様に、頻尿で外出時にはトイレの在処を気にしなければならないし、寒い夜にも2回も3回もトイレに起きねばならない。

 それでも嘆いてばかりはおられない。この年になっても呑気に毎日を好きなように暮らせていることを喜ばねばならない。小さな欠陥はあちこちにあっても、飯は美味いし、毎日の暮らしに特別困ることもない。毎日のように散歩も出来るし、近くであれば、映画も見に行けるし、ギャラリーで絵を見たり、小さなホールでクラシックも楽しめる。

 子供の時からの「てんご」好きで、落書きをしたり、「リサイクルアート」だと言ってガラクタで変なものを作って飾ったり、日記がわりに1日おきにブログも書いている。いつまで続けられるかは分からないが、毎朝の体操ももう15年以上は続けている。

 老いを嘆くより、老いて初めて知る自分や周囲の変化をも楽しんでいる。上記の歌の作者からヒントを貰って、私なりに歳を並べてみたのが下記である。 

  96歳 苦労して

    97歳 苦難の道を乗り越えて 

    98歳 此処に漸く

    99歳 白寿かな