十代の遺書

 南千里の吹田図書館のあるビルの八階に、吹田市立平和記念資料館があり、そこの催しで原爆被害の絵の展示などをやっているというので行ってきた。以前に北千里に長らく住んでいたので、南千里あたりも懐かしい所であるが、もう長らく南千里駅で降りたこともないので、久しぶりでどうなっているのか覗いて見たい気持ちもあって出かけた。

 南千里駅の改札口は昔とほぼ変わらなかったが、一度改札口を出ると、もう東も西も以前の印象はどこにもないぐらいに変わってしまっていた。昔の面影はわずかにあちこちにその痕跡を止めるだけと言っても良いぐらいであった。

 線路の西側には昔、阪急の園芸用品の売り場にようなものがあり展望に開けた感じだったが、今や高層ビルが建ち並び、すっかり展望も効かなくなってしまっていた。ビルはその一角にあり、駅からデッキで繋がっていた。8階の吹田市の施設では、千里ニュータウンの発祥の地でもあるので、その歴史の展示もあったが、戦争に関する資料展があり、戦時中の国民生活や軍隊に関する写真やパネル、生活再現の展示などもあり、企画展として広島原爆の絵画や四国五郎のおこり地蔵の本の展示などがあった。

 原爆被害の展示も実際にピカドンを見ているだけに関心も深かったが、今回最も関心を引かれたのは、偶然見つけた戦時中の資料としての若い兵士の遺書であった。

 遺族からの寄付とあったが、本人は船舶兵特別幹部候補生と署名していたから、私と同じ年か違っても、一つ二つの差でしかない。しかもその遺書が同年輩の者が書いたとは思えない素晴らしい筆跡なのである。

 墨で堂々とした楷書で書かれており、とても私には真似の出来ないような立派な遺書なのである。それをこっそり家の箪笥の引き出しに入れたまま、行ってしまったということらしい。

 船舶兵特別幹部候補生というのは戦時中一時的に出来た制度なのであまり知られていない。当時仲の悪かった帝国陸軍と海軍はお互いに張り合って、陸軍も太平洋の島々での戦争なので、兵士を海を超えて輸送しなければならず、そのための船舶要員が必要だとかいう理由で作られたのだなどと言われていた。

 中学3年生から募集を始めており、私の中学校の同級生で、死ぬまで付き合いのあった友人も、その船舶兵特別幹部候補生に応募して、結局、シンガポールに送られて敗戦となり、豪州軍の捕虜生活を経て帰国していた。

 遺書の本人は茨木中学(現茨木高校)の出身のようだから、おそらく我々と同じ学年だったのではなかろうか。そうすると、まだ十六、十七歳の少年ではないか。フイリピン沖で戦死

と描かれていたので、おそらく、シンガポールへの輸送の途中で、3隻だかの輸送船中2隻が途中で米潜水艦の攻撃で沈められたということだから、その時に犠牲になられた人の一人なのではなかろうか。友人がまだ生きておれば早速にも知らせてやらねばならないところだがもう遅すぎる。

 しかし、船舶兵特別幹部候補生というのはごく限られた範囲の人間で、戦時中のごく短い期間だけのものであったので、私はその友人がいたからこそ知っていた訳だが、普通にはあまり知られていないのではなかろうか。

 こんなにも素晴らしい遺書をまだ10代の少年が書き残して、出陣しながら輸送の途中であえなく命を落としてしまった無念さ、戦争の残酷さ、もう半年も戦争が続いていたら、海軍兵学校にいた私も、ほぼ確実に後を追ったことになったであろうから、単なる若者の素晴らしい遺書というだけでは済まされない感動を覚えて、しばらくそこから離れられなかった。

 こんな10代の少年に自ら遺書を描かせるような社会は二度とあってはならない。