就活、婚活、妊活・・・

 おそらく就職活動を「就活」と言い出したぐらいが初めだろうが、最近はやたらと「何やら活」という言葉、「○活」が使われるようになってきているようである。

「就活」を真似て、誰かが「婚活」ぐらいを言い出した頃から、広がっていったのであろうか。結婚相手を探すのが「婚活」なら、保育園を探すのは「保活」となるであろうし、それなら、朝に活動するのは「朝活」、夕方なら「夕活」ということにもなるだろう。そうなってくると4字熟語で収まり易いので、どんどん「○活」というのが広がっていったのであろう。

 「温活」「美活」という健康に関するものもあるし、「呆活」とか「ラン活」などというのまであるようである。ここまで来るともう何のことはわからないが、「呆活」とはただぼうーとしていること、「ラン活」というのは、子供や孫のランドセルを買うために、早めに資料請求や展示場へ行くことらしい。

 以上は7月23日の朝日新聞の『あれもこれも「活」』と題したオピニオン&フォーラム欄に載っていたことであるが、三人の方がそれぞれに語ってられた中で、『「活」が隠す社会のゆがみ』と題して描かれていた、堅田香緒里氏の文が興味深かった。

 わが老人は、最早何かのために一所懸命に活動することもないし、「○活」と言われても「呆活」ぐらいで、他に深く関わることもないので、聞き流していたが、この方の意見は成る程なと改めて「○活」について考えさせられた。

 冒頭からの『「○活」が世の中に溢れている背景には、国が個人に「自立」や「活躍」を促していることがあると思います。』との書き出しで、改めて「○活」を意識させられた。

 国が国民の生活や福祉を受ける権利を後景化し、国民に「頑張って生き抜かなければならない」と暮らしの厳しさを個人の努力の問題にすり替えているところから「○活」は生まれるもので、自己責任を前面に押し出して、弱者を生む社会の歪みや矛盾に目が向きにくくしているところに問題がある。

 『本当は「○活」をしなくてもただ生きていける社会の方がいいはずです。そのためにできることは、小さな「ノーを積み重ねていくことです、自分がやりたくないことや、いいと思っていない制度に、嫌だと表明する。それだけでも意味のある一歩になるはずです」というのには全く同感である。