車と生活保護

 新聞に載っていた。離婚した元配偶者からの月数万円の仕送りが途絶え、子供が中学入学で、通学に自転車が必要だし、何やかやで10万円ばかりの出費が要った。暑いけれども、エアコンもかけられず、シャワーも毎日はできない。困り果てて、生活保護に頼るしかないと申請に行ったが、車を売らなければ生活保護の受給は出来ないと言われたという話である。

 彼女にとっては車は生活の足なのである。車がなくなれば、途端に現在勤めているパートタイムの仕事にも行けなくなるし、買い物にも行けず、生活が成り立たなくなる。

 街の中で暮らしていれば、車はなくても暮らしていけるかも知れない。しかし現在の社会では、都会の近郊や、田舎の不便な所に住んでいれば、車がなければ生活が成り立たないことが多いのではなかろうか。

 JRや私鉄は採算の合わない路線は廃止するし、運賃は上がる。バスなどの公共交通機関も採算に合わせて路線の廃止や減便が進み、代替のコミュニティバスがあっても1日に1回や2回では、仕事などと両立は難い。そういう所の住人にとっては車は贅沢品ではなく、生活に不可欠なものである。

 生活保護行政は昔から政府は一環して需給を減らす方針を貫いてきている。不正受給を防ぐためというが、機会あるごとに給付対象者をしぼり込み、給付額を減らそうとしてきている。それを受けて、出先機関である役所の態度は、以前から極めて高圧的で、給付するにしても、恩恵とばかりに、これ以上ないぐらいの屈辱感を受給者に与えて貰い難くしてきたものである。

 私の若い頃の話であるが、係官が家にまで訪れて、夕食の鍋蓋まで開けて「いいもの食っとるじゃないか」と言ったという話が有名であるが、今も受給が容易でないことは昔と変わりない。政府はまるで国からのお恵みのように思っているのであろうか。

 その結果、生活保護の対象者で、実際に生活保護を受給している者はイギリスでは87%といわれるのに対し、日本では19.7%に過ぎないというデータもあるそうである。窓口では「水際作戦」で追い返すのが能吏とされ、嫌がらせのため、正確な情報さえ伝わらず、怠け者と罵倒され、権利を行使出来ない人も多いと言われている。

 生活保護は恩恵でなく憲法でも保障された国民の権利である。生活が実際に困難であれば、誰でも申請して、それを受ける権利を持っているのである。現在では、生活が全面的に車に依存し、車がなければ仕事にも買い物も行けず生活が成り立たない人も多い。そういう人たちにとっては車は決して贅沢品ではなく、生活必需品なのである。

 本人の責任ではない。田舎での仕事が減り、職場が都会に集中し、昔の農村の農家のように自宅から歩ける範囲で生活が成り立つわけではない。自家用車の利用が普通になるにつけ、社会が公共交通を減らした結果、ますます車が生活の基本になってしまっているのである。

 それにもかかわらず、社会の弱者に対する支援はますます貧弱になっていく感じである。「税金をつかう以上、本当に必要な人に届けるべきだ」という主張は尤もであるが、「本当に必要な人」とは困っている人に暗黙の重さ比べをさせ、容易に助けてと言えない雰囲気を作ることになっている。

 社会はお互いに支え合って生きているのである。社会の人たちの生活はバラエティに富んでいる。本来の社会はそのバラエティに富んだ人々が”その能力に応じて働き、必要に応じて手に入れる”のが理想で、それを可能にするべく社会が調節する中で、生活保護もあるべきものであろう。