ピカ・ドン

 今「ピカ・ドン」と言ってどれだけ通じるだろうか?

 ピカ・ドンとは原子爆弾投下による悲劇のことである。1945年8月6日午前8時15分、アメリカ空軍のB29爆撃機によって、原子爆弾広島市の上空から落とされ、語り継がれているように何十万人という市民の命を奪い、多くの人たちを傷つけ、広島の街を灰燼に帰した悲劇のことである。

 もう77年も昔のことであるから、実際にそれを体験された方も、もう僅かしか残っておられないであろう。私も直接それを広島で体験したわけではないが、その時は、広島から約20km離れた江田島海軍兵学校から眺め、8月25〜26日頃には、引き揚げのため、広島の宇品から広島駅まで、廃墟となった広島の焼け跡を歩いた経験があり、今でも忘れることが出来ない悲惨的な出来事である。

 原子爆弾投下時の私の経験はこうである。朝の8時15分、雲一つないような晴天であった。8時から自習時間で分隊毎に、部屋で一斉に机に向かって勉強していた最中であった。明るい部屋に窓から一瞬ピカとした閃光が差し込んだ。皆が何だろうと思ってびっくりした次の瞬間、少し間を置いてドカンと言う爆発音が響き、建物が震えた。

 爆撃だと直感して、1号生徒を先頭に皆が揃って建物の外へ出て、空を見上げた。そこで見たのが、あの原子爆弾特有の原子雲がむくむくと空高く盛り上がって行く姿であった。20km離れた江田島では被害はなかったが、広島では、それが大惨事の始まりであったのである。その時見た原子雲は今も脳裏に焼き付いたままである。

 ピカ・ドンと言うのはその惨劇の始まりを告げる光と音だったのである。その時にはまだ原子爆弾ということも一般には判っておらず、軍部も新型爆弾などと言っていたので、ピカ・ドンというのが一番わかり易い、被爆者側から見た、そのものズバリの表現として使われるようになったものであろう。

 この悲劇が起こった当初は、まだ軍部も正確には原子爆弾ということを掴んでいなかったので、広島市民の被害を教訓として、今度、敵機の空襲があったら、これを被って逃げろと言って、生徒たち全員に眼の部分だけをくり抜いた、白い布の袋が配られた。原子爆弾の強い閃光から顔を守るためであった。

 それまで海軍では、従来の白の夏服は上空から目立つので、国防色と言われた黄色っぽい土色に染めた服が支給されていたのに、真っ白な袋では矛盾するのにと思ったものであったが、白が一番光を反射するし、一番手っ取り早く間に合わせるために、白のまま配られたものであろう。

 幸いそれを使う機会もないうちに敗戦となり、兵学校もなくなるであろうし、生徒達は早く故郷へ帰したほうが良いという判断で、8月末に生徒たちをカッターに乗せランチで広島の宇品まで曳航し、広島から鉄道で各地に送り返すこととなった。

 そんなことで、8月末近くに、我々はカッターで宇品まで行き、宇品から広島駅まで徒歩で移動することとなった。一面、焼け跡になった広島市内を、右に比治山の連山を眺めながら、小一時間かけたのであろうか。沈黙の行進であった。

 あたりは全て焼野原で、家一軒も残っていない。それまでにも、大阪の焼け跡などを経験していたが、それらとは違って、何か燐の燃えるような異様な匂いがしているのを感じた。後から思えば、原爆症で腸内出血を起こしていたのであろうが、血便を見た人が「赤痢が流行っている生水飲むな」と書いた紙を焼け残った鉄棒に括り付けているのを見たし、背中から腕まで赤と白の斑点のようになった上半身裸の人が二人、体を寄せ合い、廃墟をフラフラ、ヨタヨタと歩いて行く姿にもあった。

 もうその頃広島にいた人で生き残っている人は殆どいないであろう。この目で見たピカドンと原子雲、広島の市内の惨状の強烈な印象は今も鮮明である。そのおかげで、戦後長い間、夏になって、もくもくと湧き上がる入道雲を見ると、つい原子雲が泛び、雲を抜けて飛び去って行く特攻機を思い出さずにはおれなかった。

 ピカドンという惨劇の始まりを見、悲劇の跡を垣間見ただけであるが、この大規模な人間殺戮の仕組みは、如何なる言い訳をしようと、人間である限り許せない暴挙である。人間が何処まで人間を絶滅する悪魔になれるかを証明しているようなものである。

 また8月6日午前8時15分がやって来る。もう歴史上のことに過ぎないかも知れない。しかし、私は決して忘れられない。人類が引き続き繁栄して行くことを望むならば、どうかこの日のこの惨劇を忘れず、二度とこの過ちを繰り返さないように節にに願いたいものである。

 なお、原子爆弾は勝手に空から落ちてきたものではない。言うまでもなく、アメリカの戦略爆撃機が運んできて、広島の上空から落としたものである。いかなる状況の下で、誰が判断し、如何なる経過で落とされたのか、その歴史的経過についてはあまり話されないが、それを検証し、肝の命ずることが再発を防ぐために最も大事なことであることを忘れてはならない。