私の趣味の会

 現役の病院勤めから退いた60代から、少し時間的にゆとりが出来たので、色々な趣味に手を出すようになった。

 もともと子供の時から落書きをしたり、ちょっとした物に手を加えたり、作ったり壊したりして、悪戯をしては、また「てんご」しているとよく怒られたものだったが、「三つ子の魂百までも」という諺通り、この「てんご」の癖はとうとう一生抜けなかった。

 大人になってからも、手持ち無沙汰のような時には、自然と手先が動いて落書きをしたり、意味のない線を弾きまくったり、紙を丸めたり、何かの形にしたりと、つい意識もしないで人知れず「てんご」をする癖が治らなかった。

 電車の中や船の中、喫茶店などで時間を持て余しているような時には、知らず知らずのうちに、そこらにあるものを利用して、近くにいる人のスケッチをしたり、勝手にその人をめぐるストーリーをでっち上げたりして自分で楽しんだりしたものであった。

 その結果、ひと頃は私の持っている新種版の本の、表題の裏の白紙のページには、どれもこれもいたずら書きがされており、売るに売れないものばかりになったいた。ひと頃は、遠い病院に一番電車で出かけて行っていたことがあり、その時には、電車も空いていたので、よく前の座席で居眠りをしている人をこっそりスケッチしたものであった。四国の病院に赴任していた時には、宇高連絡船の1時間が絶好のスケッチの時間となっていた。

 また四国では、週に一度覗いていた養護老人ホームで、何かの機会に描いた入所者の老婦人の似顔絵を家族が「お婆ちゃんにそっくりだ」と喜んだことがきっかけで、以来、その施設に赴く毎に、係の人が「今日はこの人、次はこの人」と準備していて、五十人ばかりも入所している老人のスケッチをさせられたこともあった。

 しかし現役の頃は時間的なゆとりがなかったので、落書きは治らなかったが、本格的に趣味に取り組むだけのゆとりはなかった。しかし、そんな下地があったので、退職して会社の産業医をするようになってからは、当然いたずらの範囲も拡大していった。

 初めは女房が油絵などを描いていたので、少し本格的に絵でも描こうかと思ったが、たまたま写真にのめり込んでいた友人の勧めで写真のクラブに入れて貰った。ところが、そのクラブのアドバイザーをしていたプロの写真家のおだてられ、国画会という美術団体の写真部に入れられ、写真に深入りしてしまった。

 写真と言っても私のは自然の対象の一部分を何かに見立てたり、銀板に映り込んだ物を撮ったり半ば製作的作品だったのだが、出品早々から最高賞を受賞したものだから、嫌でも毎年出品せざるを得なくなってしまった。こうして写真の世界に深入りし、ひと頃は、会社や医師会の写真展なども合わせると年間6〜7回も写真展に出すこととなった時期もあった。

 しかしプロになるわけでもなく、写真家の付き合いも煩雑で窮屈を感じるのは嫌だったので、もっと自由に遊びたいとの思いから、国画会は10年で退会し、後はクラブの活動に絞るようにした。

 写真のおかげで写真の仲間は増えたが、油絵などは描く時間がなくなった。ところが、たまたまその頃行っていた会社に絵の好きな社員で自作を会社に飾っている人がいて、何かの機会にその人の属している裸婦のクロッキーの会に入れてもらい、毎月一回何人かで集まってクロッキーをする会をするようになった。これは今も続いている、なお、クロッキいーについては、ある時大阪市内でやっているクロッキー会を見つけ、そこにも毎月通うことにして続けていた。

 こうしてクロッキーと写真を長らく続けてきたが、年月が経つと、写真クラブの方は会員の高齢化と人数の減少で、次第に勢いが衰えてきたところに、アドバイザーの写真家の認知症などが重なり、コロナの前に消滅してしまった。

 そんなことで、今はクロッキーの会だけが、コロナの影響を受けながらも、細々と続いている。それと、私の個人の本命である「てんご」遊びの「リサイクルアート」だけは老いてもなおも続いている。従って、今なおこのブログなどと共に、毎日が結構忙しい。

 死んだ義理の兄が碁が好きで老後も長らく決まった碁仲間で打っていたが、次第に仲間が亡くなり碁も打てなくなったと嘆いていたが、趣味の会の仲間も同様で、どんな会も次第に消滅して行かざるを得ない。最後に残るのは自分だけで出来る「てんご」ということになる。

 「てんご」については別のところで書いたような気がするが、長くなるので別項に譲る。