未来のディストピア

 ジョージ・オウエルの有名な小説「1984年」は1949年の作だから、私が若かった頃に、未来の想像上の全体主義国家における思想統制、密告、監視、などによる住民の支配を表したものとして、戦前のナチスドイツや日本などの実態や歴史と照らし合わせて、独裁国家の未来像のように読んだものだったが、今ではいつしか遠い昔の物語になってしまっている。

 もう詳しいことはほとんど忘れてしまったが、何でも「ビッグブラザーがあなたを見守っている」とかで、全ての住民は、テレスクリーンによる住民監視や密告、思想統制、などを通じて支配されているといったようなものだったと思うが、もう今から思えば70年も昔に描かれたものである。

 それから後にどれだけ科学や技術、社会が進んだことであろうか。殊に近年の情報処理の技術の進歩は素晴らしい。単に通信技術の変化だけではない。コンピュターの発達により情報の世界は当時とは全くと言ってよいほど違っている。

 今やあらゆる分野で、コンピュータを通じての情報のネットワークが世界中に細かく網の目のように張り巡らされ、世界中どこからでも繋がっており、高速のコンピュータの働きによりそのデータを何処からでも読み取り、書き取り、分析することが可能になりつつあるのである。

 現在でも何か犯罪でもあれば、必ずと言って良いほど犯人と思しき人物の街頭での映像が流されっる。既に街の至る所に監視カメラが設置されているし、人々の言動も後半に出着樽の世界で捕まえられている。

 それでも今はまだ色々なバリアーがあり、機器や通信などの技術的な限界もあるが、やがては、人為的な操作を除けば、もう何処ででも、誰でも、どんな情報でも手にすることが可能な世界に近づいていくことは必定である。

 現在ではまだ不可能な詳しい分析や統合も、量子コンピュータの発達などによって可能になるであろうから、社会全体として見れば、日常生活からや、研究的な発展領域から想像出来るあらゆると言っても良い事柄について、コンピュータが情報の検索、分析、解釈、照合し、可能性は無限にといって良いほど広がって行くことであろう。

 そうなれば、住民の情報は上から監視するのではなく、住民の各自が自分の生活のために、自ら提出してくれることになり、それを基本に積み上げられた情報の山が集積され、それが利用されることになり、情報は原則としては、誰でも何処からでも、自由に利用され得ることになる。

 そこで問題となるのは、このシステムの総元締めを誰が握るか、誰が管理するのかと言うことになるであろう。住民のアソシエーションのようなものがあって、それが全てを管理して、誰もが平等にデータを自由に利用出来るのが理想であろうが、情報を管理する者が世界を支配することになるので、その管理者が政権の中心を形作ることになり、それによって全体の情報処理、利用、結果の報告などの責任の在り方が決められることになるであろう。

 まかり間違えれば、住民は自分の生活の便利さに流されている間に、いつしか独裁的な政府に全ての情報を握られ、全ての生活を監視され、思うがままに管理されて、気がつけばいつしか奴隷の如く隷属させられることにもなりかねない。まさにオウエルが描いた以上のディストピアである。そう言う可能性についてもておくべきであろう。