いつだったか昨年の秋にどこかのSNSで見て、保存していた文章だが、これはDE&I(Diversity, Equity and Inclusive) を理解する上で欠かせない視点なので、忘れてしまわないうちにここに書き写させてもらっておくことにした。
昨年の東京オリンピックに関して、過去のいじめで辞めさせられたミュージシャン小山田圭吾問題についての、脳性麻痺のある小児科医である熊谷晋一郎さんの語りの一部分の引用である。
CP(脳性麻痺)の当事者で小児科医である熊谷晋一郎さんはBLOGOSの取材で
次のように語っています。
『・・・一言でいうと「関係のない世界」。例えば学校では、同級生たちと、絵を描いたり、話をしたりして楽しむことは出来ました。でも休み時間に校庭に出て散り散りになった瞬間に、自分とは関係のない世界になる。それが当たり前でした。
ただ、校庭で楽しまれてやり取りされたことが、クラスルームの人間関係の中で重要な文脈を形成するらしい。私にはあずかり知らないやり取りが行われていて、それを前提にコミュニケーションが回っている感じがありました。
一方、道徳的な文脈で、「熊谷にもスポーツをやらせてあげるべきだ」と考える教師がいると、地獄でしたね(笑)。水泳の時、私はギリギリ浮かぶことはできるのですが、泳げるわけではありません。でも熊谷君に頑張ってもらおうという雰囲気が出来上がってしまい、25Mのプールを端から端まで泳ぐことになった。
でも浮かぶことしかできないので、風と波に任せて、祈るしかない。その間に、水をゴボゴボと飲む。何十分もかかるから、トイレにもいきたくなる。そういう時に同級生たちが「熊谷君、頑張って!」みたいな応援を、教員の動員のもとでするんですよ。状況的に引けなくなっていって……』
――つらいですね。
『ここでスポーツは嫌だなという経験を植えつけられたかなと。あとは運動会の時も所在ないですよね。誰かにおぶってもらって徒競走もしました。どう解釈していいのかよくわからなかったです(笑)。
さて、このように「良心的」に脳性麻痺の子を励ます子ども、先生はたくさんいるに違いありません。私もそのような場面をよく見ました。
だけども、当事者の子ども(熊谷さん)は苦しくてしょうがない。おそらく、「死」をも意識したに違いありません。おぶってもらって徒競走をする。。。おぶった子ども、おぶらせた先生、すべて自身は「善意」との意思であろう。このような演出は、やはり、「見世物」です。
見世物でありながら、周囲はなかなかこれに気づかない。むしろ、感動する人たちが圧倒的に多い場面です。いわゆる、「感動ポルノ」です。背景にあるのは、能力主義、平たく言えば、「できること」が「価値」と結びついてそれに向けて努力することの「賞賛」です。
このような地平から眺めると、オリンピック、パラリンピックは「ある意味で能力主義が先鋭化する舞台」(熊谷)であって、それ以上でも以下でもありません。それはすでに「価値」と結びついている以上、最高の「価値」を発揮する場面で、だから、メダルを競い合うわけです。
翻って「できないこと」の多い「障害」者は絶えず最低の価値を「宿命」として負い、価値のないもの、努力を怠っているもの、との誹りを免れません。
例えば、サバァンやギフテッドと自閉症児(者)を評価の土俵にあげるときがありますが、
また、それ自身の「価値」をもちろん、認めるものですが、やはり、この「素晴らしい価値」のみにとらわれていると必ず「能力主義」の虜となって「価値」の低い者を絶えず産出しながら、彼らを無意識であれ、差別するようになります。
また、見えない、見えにくい「障害」といわれる発達障害は、文字どおり表面的には見えない、見えにくいだけに、「できるはずだ」との誹りがとりわけ強く、彼らを極限まで追い詰めていきます。
露悪的な、あまりに露悪的な小山田氏の行為・その言葉と熊谷少年をがんばれ、がんばれと励ますクラスメートとの間には一体、どれだけの距離があるでしょうか。一方は絶えず「善意」をまとい、また、一方は露悪的な行為と言辞でもって、
だけども、どちらも被害者に「死」を意識させるほどに過酷な行為だと、私にはいつもそう見えるのです。いつもそこには必ず呻吟している子どもたちがいる。苦しい、死にたい、、、だろう。私にはいつもそう聞こえるのです。
これが小山田圭吾問題の本質だろうと思います。』
註:(サヴァン症候群(さゔぁんしょうこうぐん)
精神障害や知能障害を持ちながら、ごく特定の分野に突出した能力を発揮する人や症状を言う。 重度の精神障害・知的障害を持つ人に見られる、ごく限られた特定の分野において突出した能力を発揮する人や、その症状のことです。)
(ギフテッドは、生まれつき突出した才能を授かった人のことを称します。)