今日は原爆の日

 今日8月6日は広島へ原子爆弾が投下された日。恒例の原爆犠牲者の追悼集会も開かれ、テレビや新聞でも丁度重なったオリンピック開会式典の記事に溢れる中でも、原爆に関した報道も多かった。

 江田島でこの目で見た、ピカドンと言われた閃光に続く爆発音、それに続いてむくむくと真っ青な空に立ちあがった原子雲、それに8月20日過ぎて宇品から広島駅まで歩いた時に見た見渡す限りの焼け跡の惨状、燐の焼けるような匂い、全身の皮膚がまだらになって裸のまま彷徨う被爆者、「赤痢が流行っている。生水飲むな」と書かれて焼け跡の錆びた鉄杭にくくりつけられていた貼り紙など、今も昨日のことのように眼前に浮かぶ。

 しかし、最近この日が来るごとに思い出されることは、原爆については被害のことばかり報道されるが、原爆を落とされるに至った戦争についての報道が年毎に少なくなってきていることである。

 まるで平和な都会の生活の中に突然原爆が落とされ、何万という無辜の人々がその犠牲になった災害とでもいういうような表現の仕方である。加害者側であるオバマ大統領が広島へ来た時の演説で、原爆を落としたことを勝手に落ちたような言い方をしたのは仕方がなかったとしても、被害を受けた側が、その原因であった日本が始めた侵略戦争に触れずに、原爆の被害だけを強調しても、アメリカ人は勿論、他の世界の人々も同調しがたいと感じるのではなかろうか。

 原爆も威力は絶大であり、放射線被害を伴うものであっても、兵器として使われたものである。原爆投下の原因となった日本の侵略戦争を抜きにして、原爆の被害が語られ、核廃絶が叫ばれても、世界の人々の共感を得られない難いのではなかろうか。

 ましてや、核廃絶を唱えながら、アメリカの核の傘を頼りにし、国連などでの世界の核廃絶の運動に棄権したり、アメリカの核の先制不使用宣言まで止めようと動くなどの矛盾した政府の行為は、日本の核廃絶願望の信憑性を問われることともなり、日本の国際社会における立場を貶めているものである。

 広く原爆による被害を訴え理解してもらうには、過去の侵略戦争についての反省が伴うことが必須である。日本人が戦後71年経っても原爆被害を語り継がなければいけないと思うのであれば、侵略戦争によって犠牲になった南京事件や他の多くのアジアの人々が、その被害についても同じようにいつまでも語り継がねばならないと考えるのは当然のことである。過去の苦い歴史を直視するべきである。戦争を起こした国はその責任を取らねばならないことをも知るべきである。

 南京事件をなかったことにし、戦争がアジアの解放のための正義の戦争であったと主張しながら、過去の戦争の中での原爆を、戦争から切り離した原爆の被害だけを強調しても、世界の人々の同調は得られないのは当然であろう。

 すぐにやってくる8月15日は敗戦の日でもあり、8月は原爆の犠牲者の追悼とともに過去の戦争の事実を理解し反省するとともに、その犠牲となった多くのアジアの人々を追悼し、二度とこの惨禍を繰り返さないよう覚悟を新たにする月とすべきであろう。

 尖閣諸島南シナ海などにおける挑発的行為を止め、アメリカ追随の軍事力増強ではなく、外交力をもっと強くして、少しづつでもアジアの平和を安定化するように環境を造成していく努力していくべきではなかろうか。それこそが原爆の犠牲者の霊に「安らかに眠ってもらい、二度と過ちを繰り返さない」道ではなかろうか。