東日本大震災の時、ニュースで知ったのだが、今回津波に襲われた地域では、以前にも津波を経験したところも多く、当時津波にあってひどい目にあった人が、その教訓を子孫に伝えようとして、安全だった高台に石碑を建て、「これより下には家を建てるな」と刻んでいたそうである。
リアス式海岸の続くこの地域では、明治二十九年、昭和八年、さらに昭和三十五年のチリ地震と何度も大きな津波に襲われており、そのための石碑の数も300基以上にも及んでおり、その先人の教えを守って被害を軽くした所もあるし、いつのまにか忘れられて大きな被害にあった所もあるようである。
姉吉と呼ばれる小さな地区では、明治の津波では2人、昭和の津波では4人しか助からなかったという過酷な経験から、海抜60米の地点に、「ここより下には家を建てるな」と刻んだ石碑を建て、以来それを守ってきたので、漁業で生計を立てていて浜にいた住民達も、津波とともに高台の自宅に逃げ帰り、おかげで3人の子供を学校へ向かいに行った母親ら4人以外は皆助かった由である。
先人の教えは守るべきであり、このように守ったところは助かったが、守れなかった所もあながち非難はし難い。災害は稀にしか起こらないものである。特別なことのない平素の生活の中では、万いつの場合の先人の教えよりも、その時々の生活の便利さの方がどうしても優先し、いつしか先人の教えも無視されることにもなりやすいのである。そんなわけで生活にも仕事にも便利な海岸べりに街が発達していた所などでは、今回の大きな津波で多くの死者や被害にあったようである。先人の教えもいつしか忘れられがちになっていたこともあろう。
被害にあった当初は誰しも貴重な体験を何としてもいつまでも子や孫にまで伝え、二度と同じ目に遭わないようにしたいと一致して思うであろう。しかし災害は忘れた頃にしかやって来ないものである。直接災害にあった人たちは骨見に応えているので忘れることはないし、子や孫にも将来の教訓として話を聞かせるであろうが、実際に体験していない者にとっては話としては理解しても、日々の生活の中では、いつも先にしなければならないことに急き立てられているので、どうしてもそちらが優先することになる。
東北の地震で言えば、高台に家や街を再建しても仕事は漁業なので、仕事のために毎日浜まで降りていかなければならないことになる。仕事の忙しい時や仕事の打ち合わせなどではどうしても海辺で済ませなければならないことが多い。必然的に、初めは特別だと思いながら、次いでは時々と、浜辺にとどまることが多くなる。そのうちに便利さに負けて浜辺に定着する人ができ、都合の良さから次第に同じような仲間がふえてくる。そのうちにそれらの人を相手にした商売なども浜辺に出来てきてやがては街になるということになりやすい。
災害は何十年に一度ぐらいしかやってこないので、子や孫の時代になり、実際に災害にあったことのない人たちにとっては、実際の災害の怖さはわからない。やがて災害は意識の上で次第に薄らいでくるし、それより日常生活の繁栄や便利さが優先されてすべてが進んでいくようになってしまう。そして全く思いもよらないある日にまた突然の災害に見舞われ、また過酷な運命を繰り返すことのなりがちなのである。
東北大震災からもう六年経ったが、今ではまだ皆が災害の恐ろしさを身にしみて感じており、再発防止のための措置が打ち出され実行されて来ている。しかしそれがいつまで続くであろうか。私が子供の頃は関東大震災の話をよく聞かされたものだが、戦後は戦争のことでいっぱいだったせいもあり、ここ何十年ぐらいはもはや関東大震災の話をする人はほとんどいなくなってしまった。
今頃どうしてこういう話をするかというと、大震災のことより、最近はあの無残な戦争のことさえ知らない人が多くなってることを憂えるからである。実際に戦争を経験した人たちが少なくなっていくにつれて、記憶が薄らぎ、戦争の記憶も風化して来て、実際とは離れた理解をしている人たちも増えて来ているように思われる。親から戦争の話を聞いた子供たちが今や高齢者の仲間に入るようになり、孫の世代が中心となってくると、戦争の実態を理解するのが難しくなるのも当然であろう。
戦争はもう遠い昔の歴史上の出来事である。そういう時に戦前復帰を意図する政府が出てきて、それに同調する世論が力を増せば、誰しも自分の国の長所は歓迎しても負の部分はできることならあまり触れたくないので、政府の宣伝に乗せられて侵略戦争ではなくて民族解放のための戦争であったとか、南京事件や慰安婦の問題はでっち上げられたもので真実ではないとか、被害をいつまでも主張する方が間違っているのだというような主張までする人が多くなってきている。
我々のように戦争を体験したものにとっては、大日本帝国が帝国主義政策をとり、台湾や朝鮮を植民地とし、傀儡としての満州国を作り、中国大陸に侵略し、その結果として太平洋戦争となり、悲惨な敗北をきたしたことは変えようのない歴史的な事実である。
その悲惨な戦争を通じて日本人は多くのことを学び、その教訓の上に曲がりなりにもその後の平和な経済大国を築いてきたのであり、以来年月が経ち、戦争を経験した世代が次第にこの世を去り、戦争を知らない人達ばかりになってくると、せっかくの先人達の貴重な教訓も忘れられがちになり、また同じ過ちを繰り返しかねないような傾向になってきていることに非常に憂慮せざるを得ないのである。
歴史を振り返ってみると、戦争は決して急に始まるものではない。戦争が出来る国にするには、戦争が出来る国家体制にしていかねばならない。そのためには反対派を制御し、体制の整備から国民の意識の変化などまで、一段一段積み上げていかねばならない。こうして大勢の準備が整って初めて戦争が可能な国が出来上がるのである。そこまで行けばもはや引き返すことはできない。そのような体制が出来上がってしまうと、体制であるので最早誰もそれを止めることができなくなってしまう。勝つ見込みがあろうとなかろうと行き着くところまで行ってしまうことになる。
日本の戦前の歴史を見てもまずは教育勅語や修身教育、戦陣訓、天皇崇拝、宮城遥拝などによる国民の教化、治安維持法などによる反対勢力の抑え込み、言論の抑圧、軍部の発言力の強化、政党の解散に続く大政翼賛政治による独裁政治等々の体制が固められ、国民精神総動員や隣組組織による相互監視システムなども出来、もはや引き返しが効かなくなり。誰も戦争に反対することもできない状態となって戦争が始まり、行き着くところが国中焼け野が原となり飢餓にさらされるあの惨めな敗戦となったのである。
戦後七十年経った現在どのような世の中になっているか。安倍内閣によって、秘密保護法や安保関連法案などが出来、今更に戦前の治安維持法に当たる共謀罪取り締り法が審議中であり平和憲法の改定さえ目論まれている。戦時の加害に否定や、侵略戦争そのものの否定や戦前の大日本帝国の復活を唱える人まで出て来ている。言論の自由も次第に抑えられ、嫌中、嫌韓の世論が煽られ戦争の切迫さえ唱えられている。
我々戦争を知っている世代はやがてはこの世からいなくなってしまうであろう。しかし生まれ育ち、生きて来た故郷だるこの国の運命には無関心ではおれない。戦後アメリカの従属国になったが、それを隠しながらも幸い経済大国になったが、今や少子高齢化で経済の発展も望めない。アメリカにとっては日本は前線基地に過ぎないのでいつ捨てられるかわからない。戦前への復帰は日本を孤立化させるだけである。
先人の血の滲む貴重な体験からくる教えを今一度思い出して欲しい。広島の原爆の碑にも「静かに眠ってください。過ちは繰り返しません」と刻まれていることを忘れてはなるまい。それが戦前路線の終着地であったのである。ドイツのように二度までも世界大戦による国の壊滅を経験する前に、何とか賢明な道を選んでいつまでも平和で幸福な生活を続けられる国であって欲しいものだと願わざるを得ない。