除夜の鐘

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 ここ2〜3年、除夜の鐘がうるさいという苦情を聞くようになり、それに応じてか、除夜の鐘を中止したり、時間をずらして鳴らすようにしたお寺が見られるようになったきた。

 我々老人にとっては、除夜の鐘は「行く年、来る年」の年末年始には欠かせない風物詩であり、それが消えてしまうと聞くと、何とも言えない寂しさを感じるが、激しい世の中の変化はすべての物を飲み込んでいくもので、個人の感傷はいとも簡単に無視されてしまうものである。

 昔は村はずれ、町外れでなくても、お寺の境内はそこそこ広く、物理的な音量が住民を脅かすようなことは考えられなかったが、今のように街中の家並みが建て込み、お寺の敷地も狭くなると、鐘撞堂と隣家の距離の短い所も出来ているであろうし、生活の仕方も多様になり、除夜の鐘がうるさく感じられる人が出てきても不思議ではない。

 それに人々の信仰心も変わってしまっている。信仰心があれば、有難い音の知らせであっても、信仰心がなければ、ただの雑音ともなりかねない。それに人のよっては、最早、年末年始はクリスマスの騒ぎよりも影が薄い単なる休日と化している。そんなところで、夜中にゴーンゴーンと鐘を108回も突かれてはどうにもならんという人の気持ちも分からないことはない。

 それにお寺の事情も変わってきている様である。除夜の鐘はそれに伴う仏事があるようで、従来は檀家の人たちの協力で成り立っていたのが、檀家の減少、人手不足、和尚さんの高齢化など、次第にお寺の行事にも支障が出やすい条件が増えてきたことも、お寺が除夜の鐘を中止する契機になっているそうである。時代の変化は無慈悲である。

 私の様な無神論者がとやかく言う話ではないが、昔の懐かしい年末の風物詩としての除夜の鐘がなくなってしまうのは寂しい気がする。寝床の中で、かすかに聞こえる除夜の鐘を聞きながら、今年が去っていき、来年はどんな年になるのだろうと想像したりしながら眠ってしまった子供の頃の大晦日が懐かしく感じられる。