お寺の鐘がうるさい

 除夜の鐘は昔から年の終わりの印として子供の頃から親しんできた人が多いのではなかろうか。ところが最近は近隣から除夜の声がうるさいとの苦情が出て、除夜の鐘を鳴らすのをやめたり、時刻を変えて夕方に鳴らすお寺もあるそうである。

 同様なことは子供の声についても言えるようで、最近は子供の声がうるさいというので新しい幼稚園や保育所が近くにできるのに反対運動も起こるそうである。まるで汚物処理場が近くにできる時のようでさえある。

 しかし聞いてみると同情させられるようなケースもあるようである。お寺の鐘から十メートルぐらいしか離れていない家では、お寺で鐘をつくたびにガラス窓がビリビリひびくそうである。それなら反対しても当然であろう。

 騒音が気になるのは音の大きさと性質、聞かされる方の感じ取り方によって異なってくる。もちろん100デシベルをはるかに超えるような雑音を聞かされ続けては誰しも静かにしてくれと言いたくなるだろう。

 空港の騒音が問題になったこともある。現在でも沖縄の米軍のヘリコプターやオスプレイの騒音に生活の邪魔をされている沖縄の人たちの苦情も嫌という程わかる。日常生活を妨げ、健康にまで影響する騒音は規制するべきである。

 しかし、若者たちの屋外や屋内の音楽祭などではわざわざ大音響を響かせて狂気のように踊って騒ぐことになる。音の性質により、自分の好みにより耳障りであったり、心地よく聞こえたりする面の大きいこともわかる。関係のない人たちにそれほど迷惑をかけないのであれば、少々の音も許容できるであろう。

 昔はお寺は多くは町の外れの山裾にあったり、市街地にあっても家が今ほど立て込んでいなかったし、お寺の敷地も大きかったし、人々のお寺や仏教に対する感じ方も違っていたので、除夜の鐘が少々うるさく聞こえたところで、うるさいことより、いつも世話になっているお寺のありがたい鐘の音が時を知らせくれる当然あるべきものものとして受け入れていたので、お寺の鐘に文句をつけることなど頭に登らなかったものではなかろうか。

 幼稚園の子供の声も昔ならどこのうちにもどこの町にもたくさん子供がいて、それぞれに騒ぎ回っていたので、いつも子供に接していたし、幼稚園の近くでも今ほど建物が密接しているようなことも少なかったので、子供の騒音などは当然のこととして受容されて来たのであろう。

 ところが、現在のように子供が少なくなり、いても一人っ子では騒ぐことも少なく、大人が子供に接する機会も少なくなると、日頃ストレスの多い生活をしていると、赤ん坊の泣き声や子供のはしゃぎ声も耳障りになりやすくなる。

 その上、社会がバラバラになり孤立化が進むと、子供が親だけでなく、社会でも育てるものだという連帯感も薄らいで来た。接する機会があれば他所の子供にもかかわったものだが、平素の接触が少ないと、余計に子供の高い声が耳障りになるのであろう。

 満員の場所などで皆がイライラしているような時に子供の声や赤ん坊の泣き声が耳に触ってうるさいなどという声が飛び出しやすいのは昔も今も変わらない。老人が多い現代では大脳の音を聞き分ける能力の低下が雑音を余計にわずらわしく感じさせることも関係しているかも知れない。

 不要な大きな雑音は当然避けるべきであろうが、子供の声や音楽などを楽しんでいる声などはできるだけ寛容に聞いて欲しいものである。ましてやお寺の除夜の鐘など昔からの伝統はできるだけ大事にして、環境の方を整えて、いつまでも続け、これから育つ人たちにも懐かしい年の代わりの思い出として心に残るようなもであり続けて欲しいものである。