老人は鞭打たれて働かされる−2

 何年前だったか忘れたが、「老人は鞭打って働かされる」という表題の文章を書いたことがある。

 その頃にはすでに老人問題が注目されるようになっていたからであろうが、最近の世の中の動向を見ていると、いよいよその危惧が現実になるのもそう遠くなくなって来たような気がする。

 何しろ高齢化がますます進み、それとともに少子化も進み、人口が減少していっている。働く世代が減っているのだから彼らの保険料に頼っている老人保険の財政が厳しくなるのは当然で、それが政府にとっては一番の問題のようである。

 それに経済の成長は望めず、少子化にも歯止めがかからないのに、経済浮揚のためや日米同盟強化などによる軍事費の増加などもあり、老人の増加に伴い年々増加していく年金や医療、介護などの費用の増大に如何に対処していくかが益々大きな問題になって来ている。

 当然老人の医療費や介護費用の増大に目がつけられ、自己負担の増大や老人医療の合理化、節約、ことに死前の医療の抑制などが具体的に取り上げられ始めて来ている。

 それとともに老人の社会保障のもう一つの柱である年金についても、年金の支払い開始年を遅らせ、75歳からにしようという案が考えられて来ている。

 あからさまに言えば、老人に働かせて年金を節約し、死に行く老人の医療費は無駄なので削って医療費の増大を抑えようということのようである。

 実際、現在では75歳ぐらいまでのいわゆる前期高齢者には比較的元気な人が多い。個々人についてみても、65歳で定年となって仕事の拘束やストレスから解放され、まだ体力知力もあるし、退職金などでささやかなゆとりもあり、職場関係などの知人、友人との接触もまだあり、75歳ぐらいまではまだ元気で、人生で最も楽しい時期を過ごせる人が多い。

 しかし、それもだいたいは75歳ぐらいまでで、後期高齢者と言われるそれ以後になると多くの人は老化が進み、健康上のいろいろな問題を抱え、通常の社会生活に支障を抱える頻度が高くなるようである。

 そこに目をつけたのが定年75歳案というわけであろうが、注意すべきは人は歳をとるほど個人差が大きくなるという特性である。若者のように、平均値で判断できない大きなバラツキが生じているものである。

 60歳でもすでに体力が落ちたり、病気のために普通の生活が送りにくい人も多い。平均的な姿で基準や物事などが決められると、平均以下の人にとっては過酷な負担が強いられることにもなりかねない。ガンにしても脳心血管系の病にしても最も多い年代は65〜80歳位の人たちなのである。

 個人の能力に応じてと言っても、経費節減が目的とあっては平均的な人が基準とされれば、その人たちがようやく生活が成り立つように調節されることとなるので、平均値以下しか働く能力のない老人にとっては生活すら成り立たないことになりかねない。

 その上、老人の健康は若者と異なり、ゆとりの少ないバランスの上に成り立っているものである。元気な老人といえども、僅かな負担や思わぬ病気で急に生活能力を落としてしまう可能性も多い。ましてや病を持ったり、介護が必要な老人までも働かなければ食っていけない世の中になる恐れもなしとしない。

 若い時からの長期にわたる過酷な労働から解放されて、やっと得られた定年過ぎの開放感、安らぎ感を得た人生最良の短い時間までも老人から奪い、隠居どころか、弱い老人までが鞭打たれても働かざるを得ない図は姨捨山に捨てられた老人よりも酷い残酷な世界ではなかろうか。

 若年層の負担を考えに入れても「長幼序あり、老人を敬う」古来よりの東洋の道徳に照らしても、お金のためにこれまで社会に貢献してきた老人を軽んじることのないようもっと意を払うべきではなかろうか。誰しも必ず歳をとる。老人の処遇は若者にとっても自分の将来を映し出すもので、決して無縁なことではない。