可哀想な山の神社

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 アニミズム多神教から始まっているこの国では昔から大きな山や森、大きな岩や滝などいろいろなものが信仰の対象となり、それが受け継がれてきているので、どこへ行っても神社がありお寺があるだけでなく、昔は各家庭にまで神棚と仏壇の両方があって神にも仏にもお参りするのが普通だと言ってもよかった。

 当然大きな山はそれ自体が神の座であり、それを象徴する大きな神社が麓にあったり、小さな祠が頂上に拵えてあったりする。先日冬の最中に霧氷や氷の結晶を見に訪れた美ヶ原にも頂上には全く目立たないがに小さな神社があった。

 目立たないのもその筈、この山頂は360度回りを見渡せる絶好の場所なので電波の中継地として目をつけられ、 NHK始め幾つかの民放の放送局の高い鉄塔のアンテナが何本も立っており、お山の象徴である神社も今やその巨大なアンテナの鉄柱の群れに囲まれ、見下ろされながら、その真ん中にかろうじて存在している格好になってしまっている。(写真参考)

 山頂の神社のことだから、おそらくそれぞれの鉄塔が立てられる時には後の祟りを恐れられ、それぞれが神社への祈願なども行ったのであろうが、それが済めばもはや電波の中継には関係ないとして放ったらかしにされ、お参りする人もいないのではなかろうか。雪の積もった小さな鳥居と社だけの境内には足跡一つなかった。

 これはちょうど街の中のビルの屋上によく見られる小さなお稲荷さんや、街の再開発などで移転させられて道路の端などに時に見られるお地蔵さんなどと同じ扱われようではなかろうか。この国の神や仏の扱われ方の現状を見ているようで興味深かった。

 この国では、現在でも正月は神社へ初詣に行き、葬式には坊さんにお経を読んでもらい、お寺の墓に納骨してもらうのが一般的なやり方であろう。しかしそうだからといって人々が神や仏に信心深いのかと言えば決してそうではない。

 神社でお参りするのは家内安全、交通安全、合格祈願、商売繁盛などといった現世のご利益を願っているだけで、葬式も形式的に坊主にお経をあげてもらい納骨するなど、昔からの形式に従っているだけで、信仰などとも言えないぐらいである。

 ただアニミズムは今なお強くが残っているので、神や仏を信じなくても、無視した場合の祟りが怖いので、当たり障りのないようにそっと奉っておこうかという考えから、小さな神社もお寺もそっと残されているのが現状ではなかろうか。

 美ヶ原の頂上に昔は神秘な山の神様として崇められたのであろう神社が、今は文明の象徴である巨大な鉄塔群の間に押し込められて、見向きもされずひっそりと雪を被って佇んでいる小さな社を見ると、大自然の歴史と儚い人の営みの対比を見るようで、何か可哀想な感じさえするのを止められなかった。