今年の正月

、 毎年元旦、2日はいつ頃からか、お宮参りをしている。今年も元旦は朝早くから、近くの呉服神社から始まり、五月山の麓にある伊居太神社、最後に少し南の方にある八坂神社と順に回り、「三社廻り」と称している。八坂神社からの帰途、丁度猪名川の堤防から毎年初日の出が見えるのも楽しみである。

 2日には、少し遠くの大きな神社で、有名な所や、まだ行ったことのない所へ行くことにしている。毎年、適当に選んでいるので、正確には覚えていないが、近江神宮石清水八幡宮住吉大社、西宮戎神社、多賀神社、春日大社などへ行った記憶がある。昨年は談山神社へ行き、帰途聖林寺へ寄り、珍しい十一面観音立像を見て、櫻井の駅まで歩いて帰った。

 さて今年は何処へ行こうかと思案したが、結局三輪明神大神神社へ行った。ここは以前に前を通ったことがあるが、中へ入ったことがなかったので、一度御神体である三輪山を見ながら、麓の社殿を見学したかったからである。近鉄の櫻井駅で、JR桜井線への乗り換えに遅れ、三輪明神行きのバスがあったのに三輪明神大神神社が結びつかなかったので、半時間も待って次の電車で行くこととなった。

 無神論者の私がどうして神社仏閣を訪れるのか、不審に思われる方もおられるかも知れないが、日本の街はどこでも、少し普通の家並みとは違っている所は、神社とお寺ぐらいで、そこへ行けば日常と少し違った風景が見られるし、古代から受け継がれてきた民衆の宗教に触れる楽しみがあるからである。

 神社といっても、時代から受ける影響も大きく、我が家に最も近い呉服神社は街の中に取り込まれてしまって、昔の鎮守の森とされた大木は殆ど切り倒され、今では明け透けになった社域に、新調された社殿だけがあり、正月やえびす祭り、七五三など、その時々の行事で人を集めることに余念がないといった感じで、およそ神社らしい神々しさなどは望めない。

 それでも人々の神社に対する対応の仕方をみると興味深い。神社の前では一礼して通り過ぎて行く人が多いし、正月などは神社の外の道路まで、お参りの順番を待つ人の列が出来ている。お参りをしたら御神籤を引いて一喜一憂する人も多い。

 しかし、神社で何をお願いするのかというと、家内安全から始まって交通安全、学業成就等々、個人的な現生のお願いばかりである。一神教などとは違って、神様との手軽な取引のようなものである。

 神社の方でも弁えていて、大抵の神社では、あらゆることに御利益があるように書き出していることが多い。大神神社にも願い事を書く紙が広い台の上に広げてあり、すでに、隅から隅までマジックインクでいっぱい書き込まれていたが、お願い事は個人的なことばかりで、社会的、政治的な書き込みは一つもなかった。腹が立ったので、女房と一緒に世界平和と書いてきた。

 そもそも日本の神様はアニミズムから来ているので、大神神社のご神体は三輪山そのものであるし、大きな川、大きな滝 大きな岩などは皆御神体となっており、箕面の滝でも滝に向かって手を合わせる人もいる、あちこちで何でもないような岩が磐座としてご神体になっている。

 従って、一神教と違って日本の神様や仏様は絶対的なものではなく、もっと気軽に付き合える存在で、神と仏もごっちゃになって神社の中にお寺があったり、お寺の中に神社があっても、人々が不思議がることもなく、仲良く共存している。神も仏も同列で自分の身近なことをお願いするが、結果がどうなろうとそれも深刻に考える人はいない。「神も仏もない」と言ったりもするぐらいのことである。

 そんなわけで、私は他人の宗教は尊重するが、自らは全く宗教を持たない。興味ある他人の宗教やその文化を、邪魔をしないようにそっと楽しく観察させて貰っているわけである。