銀シャリ

 銀シャリと言えばもともとは米粒の形が仏舎利に似ていることから付けられた言葉らしいが、白米の飯や寿司の酢米を指すことが多いようである。

 この頃は食物が豊富で、お米離れも進んでいるので、お米の有り難さなどと言ってもあまりピンとこない人も多いのではないかと思われるが、昔は庶民は普通は麦飯を食べるのが当たり前で、白米を食べるのは正月やお祭りなどの特別な日に限られていたので、白米は晴れの日だけ食べられる憧れの食材であったので、その輝きを愛でて銀シャリなどと言われるようになったのではなかろうか。

 今ではお握りなど見ても、単なる食材で、銀シャリと言われるような輝きを見て感動するようなことはないが、私には銀シャリについては未だに忘れられない強いインパクトを受けた思い出がある。

 戦後間もない頃のこの国は荒れ果てて何もない哀れな国であった。空襲で日本国中大きな街は殆ど全て焼け野が原となっており、食糧不足も深刻で、米は配給制度で一日2合1勺しかなく、皆がいつも空腹感に悩まされ、餓死者まで出る時代だった。潔癖で真面目な裁判官が、職業柄もあったのであろう、闇の食料品を一切買わずに本当に餓死してしまった悲劇さえあった。

  ほとんどの人は農村に買い出しに行って、焼け残った衣類などと交換して闇米やサツマイモなどを手に入れて、なんとか飢えをしのいでいた状態であった。そんな時

代だったので普通は飯と言ってもお米とともに芋や野菜などを一緒に炊き込んだ雑炊や麦飯、豆その他の雑穀などで、白い飯は貴重品であった。

 当時私は自宅を離れて名古屋の旧制の高等学校に行っていたが、外食をするにも食券がないと食べられなかった。食券があっても米飯の量が少ないので、芋を食べて補ったり、おじやを喰わせる所があると聞いて一杯のおじやのために一駅先まで歩いて食いに行ったこともあった。

 その頃のこと、休みで関西線で名古屋から天王寺まで帰った時のことであった。当時はまだ新幹線などなかったし、戦後で鉄道事情も悪かったので関西線が一番便利だったと記憶している。それでも列車は超満員で名古屋から天王寺まで6時間ぐらいかかり、奈良に着くと後1時間かとやれやれしたのを思い出す。

 食糧の買い出し客が多く、皆芋などの入った大きなリュックを背負っており、ただでさえ混む車内は余計に混雑し、席に座れるどころか、余程の運に恵まれない限り、床に置いた荷物の上に座れるぐらいで、網棚の上に寝る人、窓から出入りする人もあり、車内は身動きも出来ないぐらい混んでいるのが普通であった。

 そんな車内で、ちょうど昼過ぎの時間であったのであろう。私も腹ペコで空腹感に悩ませられていたのだと思う。近くの座席に座っていた見るからに田舎のおばさんが持ち物の中からおにぎりを出して食べ始めた。確か竹の皮に包んであったような気がする。そこから出したおにぎりの飯の輝き、つやつやとしてみずみずしい輝くばかりの飯粒の表面がなんとも言えず美しく、感嘆して思わず唾を飲み込んだのであった。

 普通のただのお握りである。しかし、あのみずみずしい艶やかな輝きは銀シャリとしか表現できない美しさであった。その人がお握りを食べるのを見ながら、あれを食べられたらどんなに幸せだろうかと思ったのではなかろうか。70年経った今でもなぜかその時のお握り輝きがつい先日の思い出のごとくに眼前に浮かんでくる。

 今なら誰しもそんなものに感激するはずはなかろう。何も思わずただ空腹を満たすために当たり前に食べてしまうであろうが、やっとの目で見かけたその時のお握りの輝きはそれこそ宝物でも見たような感慨であった。おそらく昔の人も何かの晴れの日に久しぶりに見るお米のお握りの輝きをきっと同じように感じて銀シャリという名前まで奉じて感激して食べたのではなかろうか。

 現在ではどう見ても、ただの握り飯が何度見直したところで、あんな輝きを持ってみずみずしく見えることはないだろうが、飢えた時に見れば、あんなに輝いて見えるのかと不思議にさえ思われる。何気なしに普通に食べている食事も決していつでも平気で食べられるものではなく、平和で安定した社会でこそ何気なしに食べられていることに思いを馳せ、この恵まれた社会を大切にしなければならないことを痛感させられる次第である。