最近はいつ電車に乗っても殆どと言ってよいほど多くの人がスマホを見ている。
今では電車で新聞を拡げている人が少なくなったし、本を読んでいる人も減った。どの人も寝ているか、スマホを見ているかどちらかだと言っても差して言い過ぎではないぐらいである。
スマホが便利なことはわかっているし、どこでも出来る検索機能など抜群だし、その他にもいろんな使い方があることも知っているが、それでは電車の中では多くの人はいったい何をスマホで見ているのだろうか。興味深々、時々隣に座った人などの画面を盗み見したりすると、一番多いのがどうもゲームのようである。
一時は電車の中で大の大人が「少年マガジン」などの漫画本を読んでいるのを見てびっくりさせられてことがあったが、今ではそれがスマホのゲームに変わったようである。仕事などで疲れた後の電車の中での短い時間をゲームをしたりしてリラックスするのもストレス解消になり一概に否定するわけではないが、これだけ多くの大の大人がゲームばかりしていて良いのだろうかとつい不安に襲われる。
ゲームでなくても、メールにしてもツイッターやフェイスブックその他のSNSにしても、スマホで得られたり交わされたりする情報は、殆どがどれも細切れのものばかりである。スマホは検索機能や情報の得られる速さなどはかけがえのない素晴らしい機能であり、誰にとってもますます不可欠なものになっていくであろうが、情報が素早く何時でも何処ででも見れる便利なものになり、情報量が多くなるほど、得られる情報の殆どが細切れなものになってしまいがちである。
その結果、溢れる雑多な情報に接する時間が長くなりがちで、細切れの情報量に振り回されて、その取捨選択が偏り、個々の情報を組み立てて、それまでの情報に照らし総合的な見解を構成し、判断し、批判する時間もゆとりも少なくなり、軽薄な表面的で反射的な行動は素早く出来ても、腰を据えた大局的な対応はかえって齟齬をきたす恐れが強くなるのではなかろうか。
限られた職業的な技術的、技能的な知識や、広くてごく表面的な浅い知識は豊富になっても、得られた知識の社会の中での位置付けや、未来に向けてのの方向付け、それらを参照した個人や社会のあり方などといった総合的な思考や判断などはむしろおろそかになる恐れが強くなる。
パソコンなどに直接は関係なくても、政府が直接の職業教育を推し進めて大学の人文系学部の切り捨てを言い出している時代背景と照らして見ても、こうした傾向は技術的な知識だけが先走って、物の本質を捕まえられない為政者にとって最も都合の良い人ばかりが増える恐ろしい時代になって行きかねないのではなかろうか。