隠岐旅行(2)

 隠岐には神社が多いようで、観光ルートとしても、水若酢神社に玉若酢神社、それに隠岐神社がコースに入っていたが、その他にもあちこちで神社を見かけ、「隠岐島前・島後神社マップというパンフレットまで貰った。

 そのパンフレットによれば、そこに載っている神社だけでも68社あり、しかも、朝の散歩でたまたま通りかかった小さな祠、といっても立派な鳥居まであったが、そこなどはパンフレットに載っていなかったので、隠岐の神社の実数はそれよりももっと多い筈である。

 神社の数もさることながら、気になったのは隠岐の人たちと神社の関係が我々とは少し違っている感じがしたことである。隠岐の人には”神道”の人が多いのであろうか。

 案内してくれたガイドさんの態度も敬虔で、鳥居の前では一礼をし、皆に手を洗ってくださいと勧め、社殿の前では二礼二拍、一礼、礼を告げ、後に参道を過る時にも礼をしてから渡りましょうと言い、神社を出る時も、鳥居の外で振り返って、もう一度礼をするという作法を皆に勧めていた。ツアーの客も皆一斉にそれに習っていたので、私のような無神論者にとっては、何か少し異様な感じさえした。

 このような”神道振り”はいつからなのであろうか。昔から本土などと比べて、仏教よりも神道が相対的に有力だったのだろうか。戦後の時代の変革期に、内地では氏子に支えられて来た氏神様も廃れてしまった所が多いが、隠岐では、隔離された島だけに、そのまま続いたのであろうか、あるいは本土同様に廃れかけたが、最近の世間の右翼化に伴って復活して来たものなのであろうか気になった。

 そこでふと気がついたのは今回の旅行で、隠岐ではお寺を見かけないことであった。当然、その気になって見れば、お寺もあるだろうが、どうも他の地方と比べると、お寺の勢力が弱いのではなかろうか。

 詳しいことはわからないが、明治維新の頃にあった1868年の隠岐騒動と明治の初めの廃仏毀釈が重なった結果に関係しているようである。隠岐騒動で島根藩の郡代を追放したのは隠岐の神官と地主の指導によるもので、尊王の思想に裏付けられていたようであるし、当時の廃仏毀釈が他所よりも徹底して行われたであろうことは、隠岐では首を切られたり、傷付けられた地蔵さんが多く、廃寺の跡に建てられた学校も多かったということもあるようである。

 隠岐は離島であるが、明治の初期に先覚の学者もいたし、北前船の風待ち港でもあり、案外世界の情報にも明るかったことも関係していたのであろうか。

 想像するに、そのような歴史が隠岐の人たちに強く神道の伝統を残し、今に続く神社に対する信仰や敬虔さをもたらしているのであろうかと思われた。

隠岐旅行(1)

 隠岐へ2泊3日の旅行で行ってきた。

 もう十年以上も前になろうか、ギリシャへ旅行した時、エーゲ海サントリーニ島を訪れてから、島の成り立ちが火山で構造的に似ている隠岐に興味が湧き、一度行ってみたいと思っていたが、そのままになっていた。

 ところが2〜3年前に、田中一村美術館に惹かれて、奄美大島へ行ったのがきっかけで、以前から行きそびれていた日本の離島を思い出し、朝鮮との関係で行きたかった壱岐対馬へ、次いでは隠岐へということになった次第である。

 隠岐へ行って知った知識では、島の成り立ちは5万年前の火山の爆発に由来するものらしく、今の島前、島後の火山が噴火して出来たが、その頃は日本列島はまだ大陸の一部であったらしい。それがやがて日本海に当たるところに湖ができ、それが広がって日本海となり、日本列島が形成されることとなったようである。しかし、その頃は隠岐の島々はまだ島ではなく、島根半島に続く日本列島から伸びた半島として地続きであったようだが、その後の海面の上昇とともに現在のような島になったということらしい。

 その証拠に島根半島隠岐は地質学的に連続しており、同じ黒曜石の地層が続いており、今でも両者の間は水深70米ぐらいの海底丘陵でつながっているそうである。

 そうした長い歴史の間に、火山性の岩石の崩壊などが進み、現在のような姿になったもののようである。従って、島前では焼火山(たくひ山)、島後では大満寺山を中心とした火山島になっているが、島前では外輪山の内側まで海が入り込んで、三つの島になっている。

 サントリーニ島と異なるのは、サントリーニ島では中心となる火山島は小さく、外輪山に当たる島の内側の海岸が急峻で、その崖の上に街が発展しているのに対し、隠岐の島前では外輪山に当たる島の内側はそれほど急峻ではなく入江毎に海岸に沿って人が住み、外輪山の外側の外海に面した方が長年の侵食で削られて、断崖絶壁の海岸線になっていることであろう。

 そこでは最高257米にも及ぶ直立した断崖が続いたり、海蝕による奇岩や洞窟などをも多数作り出されて、結構興味深い観光資源になっている。隠岐を代表する観光スポットのローソク島が有名であるが、島前の国賀海岸などの方が遥かに変化に富んでいて訪れる値打ちがある。遊覧船で船ごと洞窟内へ入れるような所もあった。また、これらの絶壁の上は平坦な草原で、放牧や遊歩道、展望台などになっている。

  なお、島の内部も山また山で変化に富むが、平らな農地もあり、米の栽培も行われているし、どこもかしこもアジサイの花盛りであった。

 

多様化する日本人

 近頃、街に行ってつくづく感じるのは、この半世紀ですっかり人々の様子が変わってしまったことである。一言で言うならば昔と違って、最近の日本人は、同じ日本人と言っても、昔と違って随分体格が立派になり、しかも多様になったような気がする。服装なども様々になったし、外国人も普通に見られるようになって、余計に多彩である。

 昔より平均して随分背が高くなったのが顕著な違いであるが、それが若い人だけでなく、次第に高年令層にまで広がってきている。もちろん、昔ながらの背の低い人もいるので、身長のバラツキが大きくなったとも言えよう。私が子供の頃は、日本人は平均して背が低く、今より均等であり、戦後に占領軍が来た時には、彼らの巨体を見て、よくこんな大きな奴らと戦ったものだと思ったものだったが、もうその頃とはすっかり変わってしまった。

 以前にも書いたが、昔はたまたま電車に乗って、入り口のドアに頭がつかえるような背の高い人を見たら「ウヘー、高い人もいるものだなあ」とびっくりしたものであるが、今ではそのぐらいの背丈の人はいくらでもいる。昔なら、私でも満員の地下鉄に乗っても、周囲が女性であれば、頭越し、肩越しに向こうが見えたものが、最近は背の高い人ばかりで、男女を問わず全く見通せない。

 それどころか、周りを若い男性に取り囲まれたりすれば、まるで壁の間に挟まれたようで、何も見えないし、窒息しそうな感じさえする。肩の高さが私の背丈より高い若者がいくらでもいる。ただ、そうかといって、今でも時には私と変わらないぐらいの男性もいるのが私を救ってくれている。

 高さだけでなく太った人も増えたが、これについては、今でもアメリカ人のように太った人は少ない。それでも、昔と比べると太ってブヨブヨな感じで、腹だけ出ている男性が多くなったことは確かである。日本では、20台ではむしろやせ気味の男性が多いが、30歳後半ぐらいから肥え始め、40過ぎになると、中年太りになる人が多いようであるが、肥満の面から見ても、昔の日本人とは違って多様になってきている。

 昔アメリカの漫画で、太った男と痩せた男のコンビや、大男と小男の組み合わせなどを見て、あれは漫画だからわざと誇張しているのだとばかり思っていたが、アメリカへ行ったら、本当にそれぐらい極端に違った人たちが普通に見られて驚かされたことがあった。

 こういった体格のバラツキが大きくなったっだけでなく、服装も昔と比べると隔世の感がある。昔はどこへいっても制服が多かった。軍人や警察官などは勿論だが、小学校から大学まで学生は皆制服を着ていたし、サラリーマンも制服のごとき黒っぽい背広にネクタイ姿と決まっていた。冬服と夏服の衣替えが一斉に行われるのも見事であった。夏の男性は一斉に白の開襟シャツ姿であった。来日したドイツの知人が、日本では皆が一様で、色がないと言ったことを思い出す。

 女性では昔から男より服装にバラエティがあったが、それでも制服姿も多かったし、そうでなくても、勤め人は地味な上着にスカートで、季節により一斉に衣更えをするのが普通であったし、一般の人も模様などは多彩でも、基本的な服装は一様であった。

 そのような昔のことを思い出すと、今では街で見かける服装もすっかり変わり、それぞれの人の好みに合わせて好きなように着ている感じになった。学生の制服も殆どなくなったし、サラリーマンでも昔のように背広のネクタイまでしているのは、今ではセールスマンか、会社の幹部クラスぐらいになってしまった。

 背広を着ていても、クールビスがはやるようになってからネクタイ姿が減り、背広でないカジュアルな服装の人が増えた。昔なら行楽の時にしか着ないような格好で会社へ行く人もいる。自由業が増えたこともあるし、退職後の高齢者で出歩く人も増えたのであろう。昔には考えられないぐらいのばらつきが服装にも見られる。

 1961年に初めてアメリカへ行った時には、先ずは、すべてが大きいことに圧倒された感じであった。国も大きければ、人間も大きい、背が高いだけでなく、体重も私の二倍もある人がいくらでもいる。建物も大きければ、車も大きい。冷蔵庫も、食べ物や飲み物の容量も、果てはスイカや茄子などまで大きいのにびっくりさせられた。

 しかし、もう一つ驚かされたのが、人々の外観のばらつきが大きなことであった。初上陸した港(当時はまだ船で行った)が5月のサンフランシスコであったが、道ゆく人を見ると、白人系から、メキシコ系、東洋系、黒人系と、人種も違えば、大きい人、小さい人、痩せている人から太っている人まで様々であった。

 その上、服装もはるかにバラエティに富んでいる。女の人では、毛皮のコートを着た人のすぐ横を水着姿のような女性が歩いていく有様に目を見張ったものであった。当時は日本ではまだ衣更えの風習も残っており、制服が流行っていて、5月までは冬服で6月になると一斉に夏服になるといった風習があり、だいたい皆社会的に決まった同じような服装をしていたので、あまりの違いに強烈な印象を受けたものであった。

  それが半世紀遅れて、今や日本もそれに近づきそうになってきていると言えば言い過ぎであろうか。天候の不順、温暖化などの影響も関係しているのか、一年の四季が二季になったかのようで、合服(間服)がなくなり、日本でも真夏の格好と、冬の服装が同時に見られるようなことさえ珍しくなくなってきた。 

   その上、最近は日本に住んでいる外国人も増えたし、外国からの観光客も多いので、街で見る人々の外見も昔と違って、ばらつきが大きくなったことも確かである。テレビなどで見ても、外国出身の日本人や、外国人で日本語の上手な人も多くあったし、スポーツ選手でも国際的に活躍する混血の日本人も多くなっている。

 今でも単一民族にこだわる人もいるが、最早、日本人自体が変わり、混血も増え、文化もますます国際化し多様化して行きつつある。男女同権から始まって、LGBTの受け入れ、障害者や高齢者など弱者の権利の尊重なども進み、少子高齢化で人口減少のこの国では、外国からの移民もいずれ受け入れざるを得ないであろう。この勢いを止めることは出来ない。必然的にこれからの世界は多様化を支え、推進する時代になって行かざるを得ないであろう。

 多くの移民を受け入れた先では、やがてヨーロッパのような問題も起こるかも知れないが、それを乗り越えた先の多様な人々こそがこの国の将来の発展の元になるのだと思う。この国では、未だに単一民族にこだわり、同調主義を唱え、「郷にいれば郷に従え」「 赤信号みんなで渡れば怖くない」といった傾向が強いが、入って来た異文化との対立を乗り越え、その先の多様性の融合こそが新しい世界を築くもとになるのではなかろうか。

  縄文時代弥生時代などの渡来人を受け入れた歴史などを見ても、多様な人々の融合こそが未来の発展を約束してくれるものであろう。

帽子

 

 中年になって、もともと薄かった髪がいよいよ禿げだしたので、帽子を被ることにした。まだ子供が小学生の頃であったと思う。家族でデパートへ行った時に、中折帽を買おうと思って、色々と選んでは鏡を見てどれが似合うか見たが、どれを被っても皆が口を揃えて「似合わない」という。

 それでも私は帽子が欲しかったので、自分に一番似合いそうな黒の中折帽を買った。その時は多少不安であったが、帽子というものは、初めて被る時には誰しも似合わないものらしい。それまでの無帽のイメージと急に変わるからであろうか。それでも被っている間に次第に慣れてくるものである。被り方も自分でああでもない、こうでもないと、色々工夫しているうちに、だんだん慣れてきて、それなりに自分のスタイルが出来ていくもののようである。

 また、被り始めのうちは、つい被って出るのを忘れたり、どこかで脱いで、次に被るのを忘れて、置き忘れたりということもあるものだが、次第に帽子のある姿が普通になったきて、帽子を被っていないと何か物足らない感じがして、置き忘れるようなことも少なくなり、帽子が身についてくると言えようか。

 そうなると今度は、その時々のシチュエーションに合わせて、少し違った帽子が欲しくなり、次第に帽子の数も増えてくる。季節に合わせ、場に合わせて帽子も使い分けられるようになる。

 帽子の種類は数え切れないぐらいあるが、服装に合わせて変えることになるので、必然的に、改まった所でも被って行けるものから、少しくだけたもの、カジュアルなもの、あるいは登山や散策用、全くの普段着のようなものなど、それに冬物、夏物、などと次第に数が増えていく。

 それに被っているうちに汚れたり傷がついたりで、捨てたり、洗濯したり、買い直したりもしなければならない。ことに夏の麦わら帽やパナマ、メッシュのようなものはすぐに痛んだり破れたりするので2〜3年しか持たない。

 それと帽子は保存に場所を取るのも問題である。衣服類と違って折り畳めないものが多いので、収納場所を節約しようとしても、せいぜい重ねて置くぐらいしか方法がないので困る。季節外れのものは収納庫の棚にでも放り込んでおけば良いが、その季節のものは、一つ一つ箱に入れたままでは、出し入れに不便だし、並べれば場所を取り過ぎる。重ね置くにしても、大きさや形の違いで、そういくつも重ねられない。

 いつも帽子を被っている他の人達はどうしてられるのか気になるが、日本では男の帽子はまだ少数派なのでなかなか聞く機会がない。

 それはそうとして、帽子を被っていると、冬は確かに暖かさが違う。体温は頭から抜けていくので、帽子のあるなしで体温の喪失も大分違うであろう。また夏は帽子によって紫外線もある程度はシャットアウトされるであろうし、パナマのようなメッシュの帽子をかぶっていると帽子の中で風が通り抜けていくのを感じられ、確かに少しは涼しい気がするのものである。

 ただし、帽子を被っていると、それなりのエチケットにも気をつけなければならなくなる。日本ではそれ程うるさく言う人も少ないが、私は大きな原則としては、屋外では被っても屋内では取るようにしている。と言っても、電車の中などでは被ったままだが、エレベーターに他人と一緒に乗るような時には取るようにしている。

 昔、ヨーロッパで、エレベターに途中から女性が乗って来た時に、初めから乗っていた男性が一斉に帽子を取ったのに驚いたことがあるが、日本ではそこらは守られておらず、音楽会のホールの中で野球帽を被ったままの聴衆を見たことがあるし、テレビでも、帽子を被った姿が売り物なのかも知れないが、、帽子を被ったまま番組に出演している人も見かけるので、どうもヨーロッパの紳士道は日本では無視しても良いもののようである。

  それでもずっと帽子を被っている姿が常態となると、被っていない姿が何処かの鏡にでも映ったりすると、何かが足らないような不審さを感じるものである。

 この一文を書こうと思ったのは、つい最近たまたま駅で出会った知人の女性が、その時の私の格好を気に入ってくれたのか、その後に会った機会に、その時の帽子姿を褒めてくれたので、嬉しくなって、つい帽子のことを書いておこうと思った次第である。

 

 

 

あまりにもまずいのではないか?日本の外交

 私は政治家でもないし、国の外交に詳しいわけでもない。しかし素人の一般庶民の目から見ても、最近の安倍内閣の外交の不味さには、こんなことで本当の良いのかと心配したくなる。

 安倍首相は、国会の追求から逃げて外国へ行っていると言われるぐらいに、これまでの首相の中で最も多くの外国へ行っているそうだし、あちこちで気前よく大金をばらまいている。河野外務大臣も専用機を希望するぐらい、海外を飛び回っているようである。きっと政府は外交には特別に力を入れているのだろうと思われる。

 安倍首相はトランプ大統領が決まった時には、まだ就任していない時点に、真っ先にアメリカまで飛んでいって当選を祝い、その後も機会をみては、何度も一緒にゴルフをしたり食事をしたりし、さらには、ごく最近では、G20があるのに、その1ヶ月前にわざわざ国賓として招待して、ゴルフに食事、大相撲観戦、天皇に会わすなどと、最高のもてなしをし、3ヶ月連続で会うなど、必死になって取り入っている感じである。

 外部からはトランプのポチと言われるぐらいにトランプ大統領には忠実で、言われるままにアメリカからの大量の武器を買わされたり、軍備増強をしたりし、北朝鮮がミサイルを飛ばした時には、トランプ大統領が「圧力をかける」と言った時には、それに倣って「圧力、圧力」と繰り返し、トランプ大統領が金主席と取引をするようになったら、急に今度は「前提なしに金主席に会う」と言い出すようなことまでしている。

 それにもかかわらず、トランプ大統領からは「日米安保は不公平だから破棄する」と脅かされ、「嫌ならもっと軍事費を払え」と言われたり、貿易不均衡で「アメリカの農産物をもっと輸入せよ」「日本車の輸入に関税を上乗せするぞ」と言われたりして散々である。

 ロシアとの外交を見ても、プーチン大統領とは25回も会っているのに、アメリカとの同盟があるために、平和条約はいつまでたっても進捗せず全く行きづまっている。

 また北朝鮮との関係では、「拉致問題は私が解決する」と大見得を切ったものの、いつまでも解決の糸口さえつかめず、トランプ大統領に頼むことだけしか出来ていない。

 そに上、韓国とは戦後処理がこじれ、未だにに戦争中の徴用工問題や慰安婦問題が解決出来ていないどころか、先日書いたように、今回は日本が韓国企業目当てに経済制裁に出るようなことまでして、最早、両国関係は時間をかけねば解決不可能なところまでこじれてしまっている。

 そのため今回のG20に際しても、折角、日韓の首脳会談が出来る機会であったのに断ってしまい、そのためトランプ大統領と文大統領が相携えて板門店へ行って金主席に会っているのに、それさえ知らせて貰えず、日本だけが蚊帳の外に置かれてしまったことになった。拉致問題の解決のためにも北朝鮮と交渉しなければならないのに、わざわざその扉を閉じてしまった結果になってしまった。

 北朝鮮の核問題を解決するための枠組みである6者協議のメンバーのなかで、他の5ヶ国は全てそれぞれに首脳が会って話をしているのに、日本だけが直接首脳会談も開けないままになっている。

 なお、イラン問題にしても、安倍首相がどう思ってわざわざイランまで行ったのか判らないが、アメリカとイランの間を取り持つどころか、何者かによる日本のタンカーの攻撃で幕を閉じることのなっただけであった。

 このような成り行きを見ていたら、誰しもこんなことでこの国の外交は大丈夫なのだろうかと不安を感じるのではなかろうか。このままでは日本は一人取り残されて、将来は東洋の孤児どころか、世界の孤児にさえなり兼ねないのではと危惧せざるを得ない。

映画「新聞記者」

 東京新聞の望月衣塑子記者の書いた「新聞記者」という本に触発されて作られたフィクション作品の映画である。

 監督はまだ三十二歳の若い人で、元々は新聞もほとんど見ない政治には関心がなかったが、この映画のプロデユーサーである河村光庸しの話を聞いてから関心を持って、自分で色々調べてこの作品を作ったということだそうである。主役は女性記者がシム・ウンギョンという韓国育ちの俳優で、外務省から出向した内閣情報室の職員が松阪桃李である。

 国際NGO国境なき記者団」の報道の自由ランキングによると、日本は9年前には11位だったのが、2019年には67位になっているのが最近の日本の実情のようである。政府からの有形無形の圧力が強くなりつつある新聞や放送業界では、それに対する忖度も進み、有力なキャスターやコメンテターなどの入れ替えなども起こっている。

 そういった状況の中では「これ、やばいよ」「つくってはいけないんじゃないか」という声が聞こえてきそうな雰囲気もある中で、よくぞ作られたと思われる映画と言っても良いであろう。劇場は満員で、出てきた人同士の感想も聞かれ、興行収入もランキング10に入ったそうである。

 何よりも人々を惹きつけるのは、フィクションではあるが、実際にあったこれやあれらの事件を思い出させる状況が多く、政府や官僚を取り巻く裏の世界が上手く描かれており、なかなかよく出来た映画だったと言えよう。ある官僚役に「この国の民主主義は形だけでいい」と言わせているのが印象的であった。」

 観客は、昨年来新聞やテレビで嫌という程取り上げられ、多くの人が怒りを覚えながら、じっと我慢して見聞きして来た森友学園加計学園などをめぐる事件を思い出しながら見ることになり、それに対する首相や政府の煮え切らない対応、それを忖度した官僚たちの見え透いた虚偽の証言や行動、官邸を後ろ盾にした事件のもみ消しなどをもう一度考えさせられることになったであろうと思われる。

 ただそうかと言って、この映画は一頃よくあった、派手な権力批判の政治劇映画のようなものではなく、始めから終わりまで閉塞感が漂っている画面の連続で、現在のこの国の社会を反映しているようであった。

 今月行われる参議院選挙の前に一人でも多くの人に見てもらいたい映画である。

 

 

韓国への嫌がらせはやめて、もっと堂々と振舞って欲しい。

 新聞によると、政府は1日、半導体製造などに使われる化学製品3品目の韓国向け輸出手続きを厳格化すると発表した。輸出契約ごとに政府が審査・許可する方法に切り替え、事実上輸出を制限する。今後他の品目にも制限対象を広げる方針で、半導体を主要産業とする韓国にとって大きな打撃となる。

 何か経済的な問題でそうなったのかと思ったら、そうではなくて、韓国最高裁が日本企業に韓国人元徴用工への賠償を命じた問題で、解決に向けた韓国政府の行動を促すため、事実上の対抗措置に踏み切ったのだそうである。

 政治的な問題の解決に、経済的な嫌がらせとも思える報復措置をするのはいかにも品がない。堂々と政治的に渡り合って解決の道を見つけるべきであろう。まるで子供の喧嘩のようではないか。

 外交問題の解決手段として輸出制限措置を取る手法は、日本がG20などで提唱してきた自由貿易推進の方針に逆行することにもなる手段である。当然の反応として、韓国の成允模(ソンユンモ)産業通商資源相は1日、「世界貿易機関WTO)への提訴をはじめ、国際法などに基づく必要な対応措置をとる」と反発したそうである。

 TVのニュースでは、菅官房長官は元徴用工問題の対抗措置ではないと言っているが、それ以外の理由は説得力がない。政治問題としては国連に訴える方法などもまだ残されている。戦時中の問題はまだまだ話し合う余地ある問題である。

 政治的な手段を残したまま、経済的な手段で相手に打撃を与えようとするのは、返って韓国との信頼関係を損ね、相互の不信を増強し、問題の解決をより困難にするのみでなく、隣国同士の友好関係にまで末長く悪影響を来たすことになるであろう。

 もう少し賢明な外交政策で臨むべきではなかろうか。あまりにも稚拙な外交に心を痛めざるを得ない。