グラミー賞

 毎年この季節にアメリカで行われるグラミー賞 については、有名なので名前こそ知っていたが、遠い国の話で、関係の薄い音楽の世界での出来事として、これまであまり関心を持って来なかったが、ひょんなことから、去年あたりから急に関心を持たざるを得なくなった。

 孫娘のボーイフレンドがジュリアード音楽院を出た作曲家で、一昨年の暮れに二人で日本へ来た機会に、女房を加えて4人で箱根に行ったが、その頃から彼がグラミー賞にノミネートされていることを知り、賞賛するとともに、こちらも驚いてグラミー賞や彼のバックグラウンドについて調べてみることになったわけである。

 その年は受賞を逃したが、昨年の12月の家族集合の時にも、また二人で来てくれて、その時の話で、今年も引き続いてグラミー賞にノミネートされていることを知り、今年こそは受賞するのではないかと密かに期待していた。

 発表が2月10日と聞かされていたので、持ち遠しく思っていたが、案の定、今回はめでたく受賞した。心から喜びたい。孫とほぼ同じ年なので、まだ25〜6歳の若者である。

 我が家に来た時に驚かされたのは、彼がピアノを弾いた時、同じピアノでも弾く人によって、こうも違うものかと居合わせたものが一斉に驚かされたことであった。明るくて気持ちの良い好青年である。

 早速インスタグラムで祝いの言葉を贈ったり、家族のフェイスブックで祝ったりしたが、今回の受賞はBest Urban Contenporary Album部門で、Beyonce & Jay.Zの歌う「Everything is Love」という曲などの作曲に対するものらいしいが、音楽音痴の私にはもう一つ詳しい正確なことは判らない。

 派手な歌唱などと違い目立たないが、SNS で彼の作品を調べてみるとDrakeのRapその他、色々手がけているようで、今後の発展が期待出来るような気がする。多くの作品のうちどれが良いのかはわからないが、以前に聴いた”Drowning”という曲は何か引きつけられるものを感じて気に入った。

 

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まずは有名な賞の受賞に万々歳だが、可愛い孫も絡んでいることでもあり、将来を期待したい。これからが楽しみである。

兵士の亡霊

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 神戸の兵庫県立美術館とその分館である原田の森ギャラリーは殆ど一直線上の海の近くと山の近くにあり、途中JR灘駅を通り美術館通りと言われたりもしている。原田の森の分館のには横尾忠則美術館があるし、途中にBBプラザ美術館というのもあるからであろう。いずれも比較的よく訪ねる馴染みの美術館である。

 今回は私が昔属していた国画会の写真部の秋季展があるので、原田の森へ見に行った。出展者のメンバーも大分入れ替わっているが、昔一緒にやっていた頃の人もまだ何人か出展しており、懐かしく見させてもらい、現役の知人らとも出会って楽しいひと時を過ごした。

 家を出る時、折角行くのだから、新しい本館の方が何をやっているのか確かめてみると、「昭和・平成のヒーロー&ピーポー」と書いてある。何だか分からないが、折角だから覗いてみようと、ギャラリーを後にしてから、すぐ横の道を下って美術館通りを通って浜まで行った。

 本館の方には「Heroes and People in the Japanese Contemporary Art」と書いてある。入場料1,300円だが老人なので半額、喜んで会場に入った。20世紀の初めから現代に至る社会的な関心の作品で、ヒーロー、カリスマ、正義の味方と無名の人々という対照的な人間のあり方に注目する展示で、会田誠、石川竜一、しりあがり寿、柳瀬安里などの、立体から平面、写真や漫画まで、種々雑多な展示が見られた。

 戦前の「のらくろ二等兵」の漫画や、パレンバンの落下傘部隊の映像その他、戦前戦中の雑誌や絵画なども多く、見ていると懐かしいというより、戦時中の嫌な時代に引き戻されるような感じがした。一部しか見れなかったが、映像作品や関連の映画やDVDの上映などもあるようであった。

 中でも、何と言っても圧巻であったのは、会田誠の巨大な立体作品で、痩せこけた兵士が天井からぶら下がり、伸ばした指先が国会議事堂を模した墓を指しているものであった。戦争中の兵士の犠牲が戦死よりも餓死によるものの方が多かった歴史を踏まえ、無名人と権力の関係を示唆した作品で、超大作であるが、スカスカな中身のない人物が天空に浮いているように作られていた。

 帰り道、いつも覗いて見ることにしているBBプラザ美術館へも寄ってみたら、ここも明治から平成にみるコレクションとか銘うって、ルノワール、浅井忠、梅原竜三郎、ユトリロ、マルケ、ブラマンク佐伯祐三安井曾太郎ピカソローランサンシャガール藤田嗣治、前田青とん、杉山寧、東山魁夷加山又造藤島武二小磯良平内田巌猪熊弦一郎脇田和、田村幸之助、高山辰雄、小出卓二、三岸節子その他、皆小品だが、よくこれだけ集めたものだと感心する内容で、十分楽しむことが出来た。それで老人はわずか200円なのだからたまらない。

こうして神戸の三つの美術館を見て歩き、目の保養が出来た上に、良い程度な運動にもなって楽しい1日であったが、戦争の亡霊はどこまでもついてくる。戦争だけは絶対に避けるべきだと次の世代に伝えたい。

 

おやじ失格

 1961年のことだからもうずいぶん昔のことになる。アメリカに行くことになった時、長女がまだ1歳だった。

 当時は今と違って、アメリカはまだ遠い国で、詳しい事情もわからないし、日本は貧しい国だったので、飛行機で行くのはまだ贅沢で、横浜から貨客船で11日かけて行ったのだった。まだ1ドル360円で、海外へは300ドルしか持ち出せなかった。

 そんな時だったので、私だけが先に行って、向こうの様子が少し分かったところで、家族を呼び寄せることとした。当然子供も一緒に呼ぶつもりだったが、その頃1歳健診の時だったのであろうか、子供のツベルクリン反応が陽性に出たのを知って慌てた。

 当時は結核患者がまだ多い頃で、幼児の結核感染は発病、重症化する可能性が高いとされていた上、私のいた大学の教室は結核患者をも多く扱っていたので、これは慎重に経過を見た方が良いと考え、事情のわからない外国で発病でもすれば困ったことになるのではと心配した。

 そうかと言ってまだ新婚2〜3年しか経っていない女房を、折角のこの機会にアメリカ生活を共に経験しない手はないと思い、子供を両親に預けて、女房だけを3月遅れで呼び寄せた。おかげで二人で、色々苦労もあったが、2年間のアメリカ生活を楽しむことが出来、1963年の春に帰国した。

 その間、長女は母の世話のお蔭で、結核にもかからず元気に育ち、帰国直後から久しぶりに会う父親にもパパ、パパと言ってすぐ懐いてくれた。こちらも見ない間に大きくなって可愛い子供に成長したのを喜んで、夕方まで一緒になって遊んでいた。

 ところがその後である。夕方になって辺りが薄暗くなってきた頃、長女が言った。「パパもう帰るの」と。本人は何気なく言ったのだったが、それを聞いた衝撃は大きかった。60年も経った今でもその時の光景をはっきり覚えている。

 私の留守中面倒を見てくれていた母親から「パパはアメリカ」と聞いて、私らがアメリカにいることをわかっていても、パパという存在は母から教えられて知っているが、1歳で別れているので父親という概念はわからない。

 留守中も色々な人が来ては、あやしたり一緒に遊んでくれたりしても、夕方になると皆帰っていってしまうのが普通だったであろうから、パパという人も夕方になったら帰っていってしまうのだろうと思っても不思議ではない。

 その時初めて「悪いことをしてしまったなあ」と、親の責任を放棄していたことに気がついて自分を恥じ、何とも言えない気持ちになった。過ぎたことは最早取り返しがつかない、どうしようもない。犯罪者が自分の罪を振り返った時には、こんな感じがするのかもといった感じであろうか。

 幸いその後の親子の関係も良く、娘も問題なくすくすく育ってくれたので有難かったが、今ではもう還暦近くにもなった長女には話をしたことがないが、時にその時のことを思い出しては済まないことをしてしまったと密かに後悔している次第である。

 

 

永世中立国家へ

 戦後しばらくの頃、日本はスイスに見習って永世中立国家として行くべきだという主張が新聞などに出ていたことがあったが、いつしか遠い昔の話になってしまって、今では覚えている人すらあまりいないのではなかろうか。

 スイスはヨーロッパが戦場になった世界大戦の時も中立を貫き通し、戦後もEUにも加わらずに中立を貫き通り、それを世界も広く認めている。

 日本でも、戦争中の全国的な空襲や原子爆弾による国土の広範な破壊を伴った敗戦から、いかに国の再建をして行くべきかの議論の中で、もう二度とこの悲惨な惨禍を繰り返すまいとする願望から、スイスに倣って永世中立論などが取り上げられたのであった。

 しかし、アメリカの支配下での朝鮮戦争ベトナム戦争などのお蔭で、日本は経済的に再興、発展した後は安保条約などによりアメリカの半植民地としての立場が確立し、平和憲法のおかげで戦争に巻き込まれることだけは避けられたが、自主独立、永世中立などの立場はすっかり消えてしまった。

 それどころか、最近は北朝鮮の核やミサイルに絡んでアメリカの尻馬に乗って「圧力、圧力」と言い立てたり、アメリカが話し合い路線になり、北朝鮮への圧力が使えなくなると、今度は中国の脅威が叫ばれるようになり、アメリカ追随の軍備増強が進み、最近の米中貿易摩擦に乗じて、空母やミサイル、宇宙兵器など攻撃的な武力増強にまで進んで来ている。

 しかし、現実に目を向けてみると、中国の脅威を考えてみても、現在、差し迫った脅威が起きているとはどうにも考えにくい。政府や右翼、利害関係のある勢力が煽り立てているだけである。経済的にも中国は日本にとって大きな貿易相手であり、相互の利益が決定的に相反するような大きな問題もない。

 むしろ、中国脅威論によって、アメリカの産軍共同体に乗せられて、経済的に無理やり武器を買わせられたり、軍隊を増強をさせられているようなものである。すぐに旧式になるような一機百億円もするようなアメリカの戦闘機や高額なイージスアショアなど、どう見ても緊急に買わねばならない状況ではない。

 それより外交的な中国や韓国との友好関係を維持、増進する方がよほど国にとっても有利だと思われる。アメリカからすれば、日本はアジアの前進基地なのである。アメリカは日本に軍事基地を置いて、有事の時のアジア攻撃や防御に利用し、またそれに伴う軍需産業の買い手として維持しておきたいのであろう。

 しかし、日本が軍事力を強める程、周辺国もそれに対抗すべく軍事力を強めるのは当然であろうから、危険性もそれだけ高くなる。軍事力で圧倒できる相手ではない。それに少子高齢化で人口減少の社会は何より戦争に向かないことは明らかでろう。外交こそが友好関係をを強め、平和を維持する手段である。

 仮に万一戦争にでもなれば、前線基地ほど哀れなものはない。当然の実害を受けるだけで、アメリカは不利とあらば、いつでも前線基地を放棄出来るが、日本は勝敗に関係なく大損害を受けることになる。先の戦争でのフイリピンを見れば分かるであろう。

 どう見ても、いつまでもアメリカの手下の同盟であっては、将来が危ぶまれる。しかも、次第に世界を制覇するアメリカの時代は終わろうとし、中国やアジアの勃興が顕著になりつつあるのは紛れもない。

 そろそろ、アメリカ一辺倒の半植民地状態を脱して、確固たる中立日本に切り替えていくことを模索しなければならない時が来つつあるのではなかろうか。少し先のことを考えれば、ここらでもう一度、日本の永世中立論を考え、拡げていっても良いのではなかろうか。

昆虫食

 朝日新聞の社説の余滴のような欄に、昆虫食の話が載っていた。長野県の伊那市で「大昆虫食博」が開かれたそうで、それの関連して、記者がタイやカンボジアで食べた蝉の幼虫やコオロギの思い出が語られていたが、それを見て思わず、戦後の何も食べるもののなかった飢餓の時代に食べたイナゴなどのことを思い出した。

 当時は結構美味しいご馳走だった。昆虫の中でも一番多かったのは、田圃や畑で採ってきたイナゴだった。今と違って、どこの田圃にもイナゴが沢山いたので、手に入りやすかったからであろう。もちろん、同類のコオロギやバッタも食べた。

 それを鉄板や鍋で焼いたり、炒めたりして、食べたものであった。自分で捕まえてきたものを食べるのだから、それほど多くを食べられる訳ではないので、主食というわけではなかったが、いつも腹をすかしていたので、余計に美味しく感じられたのであろうか。今でもプチんと噛み切れたイナゴの食感が思い出される。

 確か、一度蜂の巣を取ってきて、蜂の幼虫を炒めて食べた記憶がある。柔らかく甘みがあり最高のご馳走だった。蝉の幼虫なるものも唐揚げか何かで食べさせてもらったような気もする。しかし、考えてみるともう70年以上も前のことである。

 新聞によると、最近は国連の食料農業機関(FAO)でも食糧難に備える選択肢として、昆虫食の可能性について報告しているそうである。高タンパクで、ビタミン、ミネラルも豊富で、養殖も簡単なので有望だそうである。

 勿論加工してから供給することになるのであろうが、肉や魚などの現在の食事があって、それの加えて昆虫食もあるというのなら良いが、全面的に昆虫食に頼らねばならないようにはなって欲しくない。

 どうしても原型を想像してしまうので、気味悪く思う人もいるであろう。新聞社の試食でも積極的に食べてみる人と見向きもしない人がいたようである。昆虫食に頼らざるを得なくなるとしても、食べず嫌いの克服には時間がかかるような気がする。

靴磨きをしながら思ったこと

 2−3日前のこと、久しぶりで靴磨きをした。たまたま革で出来た小銭入れの表面がカサカサな感じになっていたので、革磨きの油脂を塗ってやったら良いのではと思い、以前に東急ハンズで靴用のワックスを実演販売しているのに出会い、買い求めたものがあったので、それを塗った。

 そのワックスを出した序でに、久しぶりに靴も磨いてやろうと思い、靴箱の靴を引っ張り出して、片っ端から靴を磨いた。古い靴ばかりが沢山あるものだなと感心しながら次から次へと靴を磨いていったが、磨きながらふと考えた。

 一番新しく買った靴といっても、いつも散歩や箕面に行くとき履いていく靴だから、いつ買ったのだろうか。心斎橋のアシックスの店で、まだ店名が変わる前だったから、もう少なくとも2年以上は前になる。

 以前に買って履き心地が良いので気に入っていたのが、底がすり減ってしまったので、同じものを買い換えようとしたが、同じものはもうなくて、色々足の計測などしてもらった後で、よくフィットした新しい靴を買ったものである。

 その次に新しい靴は、仕事などの時に今も愛用している、町歩き用のチャックのついた黒革のウオーキングシューズである。これは淀屋橋のミズノの本店で、同型の靴を履いた店員が色々と計測をしてくれて、売ってくれたもので、現在も一番愛用している靴である。

 これを買ったのは、上記の靴より前のことだから、3〜4年以上も以前ということになるであろう。同型の靴は気に入ったので、使い始めてから既に3代目のものになる。

 そのほかまだ海外旅行によく行っていた頃に愛用していたメフィストの革靴が2足ある。今でも時々履くが、新らしい茶色の方は千里中央メフィストの店で買ったことを覚えているので、以来もう10年近くは経っていようか。

 そうなると、「これなら結婚式にでも履いて行けますよ」と言って勧めてくれた黒のスリッポンの靴は、買った早々に金沢の学会に行って雨でびしょ濡れになった記憶があるので、もうひょっとしたら20年ぐらいも以前に買ったことになるのであろうか。

 それならあと2足あるスリッポンの革靴はそれよりも古いものだから、もう30年近くも前のものを今でも時々履いていることになるのであろうか。

 これら以外にも、稀に履く靴が何組かある。物持ちが良いのであろうか。黒が多いが、茶色も2〜3組あり、用に合わせて使い分けているからか、いつまでたっても使用可能な姿で残っている。

 一番上等な「よそいき」として買った、10万円もしたスイスのBallyの靴は、大事にし過ぎて滅多に履かないものだから、今も靴箱の中で健在だが、これなど、買い求めたのはまだ現役時代だから、もう30〜40年ぐらいも前のものということになる。

 歳をとると歩く量も減るし、良い靴を履いて行かねばならない機会も減る。履いて歩く人間の方は歳をとるが、あまり履かれない靴はいつまでも健在である。いつ死ぬかわからないこの歳になると、もうあまり靴屋さんのお世話になる機会もなくなるのではなかろうか。

 靴に限ったことではない。洋服にしても、まだ仕事をしている時には、スーツも何着かは必要で、時には傷んだりして新調もしなければならなかったが、今となっては、洋服ダンスに古い昔のものが静かに眠っているだけになる。

 最後に新調したスーツでも、靴よりも古いので、ひょっとしたらもう30年近くも前のことになるのではなかろうか。

 そんなことを思い出したりしていると、これでは日本も不景気になる筈だなと思わざるを得なくなってきた。老人は私同様、衣類や靴などは多かれ少なかれ、古いものを沢山抱えている。今更老人に新しい需要はあまりない。少子高齢化で人口が減り、老人が多くなると、衣類も靴もあまり売れなくなるのは当然であろう。

 商品の販売は何にしても、やはり若者に焦点を絞らなければならないであろう。若者は嫌でも生活必需品を揃えなければならないから、不景気でも、嫌でも最低限のものだけでも買わざるを得ないであろうが、老人は既に持っているもので間に合わせられる。 

 こう見てくると、老人が多くなり、人口が減るこの国の景気は、余程変わったことでも起きない限り、良くなっていく可能性は少ないのではなかろうか。これまでとは全く違った発想で世の中のあり方を考えないと、先の明るい展望は望めないのではなかろうか。

 

 

大阪芸大アートサイエンス学科の新校舎

 

 

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大阪芸大アートサイエンス学科

 数日前、その日は特別な用事もなく、天気も良かったので昼頃急に思いついて、大阪芸大のキャンパスを見学に行った。

 昨年の12月に、ブリッカー賞などに輝く有名な建築家の妹島和世氏が設計して建てた新しい建物が大阪芸大に出来たことを思い出したのであった。

 大阪芸大は、同じ大阪府内にあると言っても、南の富田林に近い所にあるので、不便な所だし、行くにはかなり時間がかかるだろうと思って、これまで先延ばししていたのである。

 今回はそれを考えて、早昼を食べて早々に出かけた。阿部野橋までは問題がないが、その先の近鉄南大阪線は急行、各停、色々あるだろうが、かなり遠い所なので、どう行くのが良いか不安だったが、阿部野橋から吉野行きの急行があるからそれで古市まで行き、そこで乗り換えて河内長野行きに乗ると良いと駅員が教えてくれたのでそれに従った。

 丁度、2−3分後に急行が出るところだったのでそれに乗ったが、何と古市までノンストップなのである。古市と言えば、昔は随分遠い感じの所だったのでびっくりしたが、便利になったものである。

 古市に着けば、大学の最寄の駅である貴志はもう次の駅である。駅からは大学のシャトルバスが送ってくれる。思っていたよりはるかに早く、家を出てから1時間少々で着いてしまった。

 大学見学の先ずの目的は言うまでもなく、妹島氏の設計になるアートサイエンス学科の建物である。どこにあるのか心配するまでもなく、大学のある丘へ上がった大学の入り口に面した所にあり、新聞で写真を見ていたのですぐにわかった。

 あらかじめ大学のホームページで調べた時には、まだその建物についてはキャンパスの案内地図にも載っていなかったので、どこのあるのかわからず、ひょっとしたら少し離れた所にでもあるのかも知れないと心配していたが、全く杞憂に過ぎなかった。

 流石に妹島氏の設計だけあって、素晴らしいユニークな建物である。同氏の設計による金沢の21世紀美術館の建物よりも気に入った。

 妹島氏によると、丘の起伏に合わせた三次元の空間と一体化した建物で、設計に際して「建てる」というより如何に「ランディング」させるかと考えた由である。ガラス張りで内と外が繋がり内外の交流をも考えた、21世紀のクリエーターのためのスペースとして作られたようである。

 建物の中へは入れなかったが、今まであまり見たことのない本当にユニークな構造で、緩いカーブの続く流線形の三層の建物になっており、周りは全てガラス張りなので、つい誰もが中へ入ってみたいと思うのではなかろうか。

 ここの主になるアートサイエンス学科については、東京のお台場のチームラボの猪子寿之氏も客員教授になっており、恐らくチームラボにような空間映像のような科学的な計算に基づいた表現などが研究の対象となるのであろうが、新しい試みにふさわしい新しい器になるのではなイカと期待された。

 ただ要らぬ心配だろうが、あまりオープンな感じの変わった建物なので、この中で落ち着いた研究が出来るような空間があるのだろうかとふと思った。

 このアートサイエンス学科の建物を見てから、あちこちの建物も見て回ったが、15学科もある由で、キャンパスは思いの外広く立派であった。映画館もあるし600人も収容できる大劇場もある。音楽が聞こえてくる建物もあったし、塚本英世立記念館という優れた建物もあり、中にパイプオルガンが壁面を埋めている空間も見られた。

 その他にも芸大だけに、他の建物にも色々工夫の跡が見られ、総合体育館と称する大きなモダンな建物には、円形のガラス張りの回廊のような所もあり、ここも斬新な建物であった。

 一応見学を済ませ、学生食堂を覗き、その隣の喫茶室で休んでから帰ったが、帰途も大学のバスで駅まで出、往きと同じように古市から急行で阿部野橋までスムースの戻ることが出来、帰宅して時刻を見るとまだ4時前であった。実に4時間ぐらいで往復したことになる。

 昔戦後すぐの頃に富田林の郊外に疎開していて、近鉄を利用していた時期があったが、その頃は阿部野まで出るだけでも1時間以上はかかったのではなかろうか。河内天美だとか藤井寺、道明寺、古市とかを通って富田林まで行くには随分遠いイメージだったので、今回のように速く行けるのにびっくりした。

 思いがけない楽しい経験をさせて貰って、なお、ゆっくりした夕刻を過ごすことが出来たことを喜んでいる。