おやじ失格

 1961年のことだからもうずいぶん昔のことになる。アメリカに行くことになった時、長女がまだ1歳だった。

 当時は今と違って、アメリカはまだ遠い国で、詳しい事情もわからないし、日本は貧しい国だったので、飛行機で行くのはまだ贅沢で、横浜から貨客船で11日かけて行ったのだった。まだ1ドル360円で、海外へは300ドルしか持ち出せなかった。

 そんな時だったので、私だけが先に行って、向こうの様子が少し分かったところで、家族を呼び寄せることとした。当然子供も一緒に呼ぶつもりだったが、その頃1歳健診の時だったのであろうか、子供のツベルクリン反応が陽性に出たのを知って慌てた。

 当時は結核患者がまだ多い頃で、幼児の結核感染は発病、重症化する可能性が高いとされていた上、私のいた大学の教室は結核患者をも多く扱っていたので、これは慎重に経過を見た方が良いと考え、事情のわからない外国で発病でもすれば困ったことになるのではと心配した。

 そうかと言ってまだ新婚2〜3年しか経っていない女房を、折角のこの機会にアメリカ生活を共に経験しない手はないと思い、子供を両親に預けて、女房だけを3月遅れで呼び寄せた。おかげで二人で、色々苦労もあったが、2年間のアメリカ生活を楽しむことが出来、1963年の春に帰国した。

 その間、長女は母の世話のお蔭で、結核にもかからず元気に育ち、帰国直後から久しぶりに会う父親にもパパ、パパと言ってすぐ懐いてくれた。こちらも見ない間に大きくなって可愛い子供に成長したのを喜んで、夕方まで一緒になって遊んでいた。

 ところがその後である。夕方になって辺りが薄暗くなってきた頃、長女が言った。「パパもう帰るの」と。本人は何気なく言ったのだったが、それを聞いた衝撃は大きかった。60年も経った今でもその時の光景をはっきり覚えている。

 私の留守中面倒を見てくれていた母親から「パパはアメリカ」と聞いて、私らがアメリカにいることをわかっていても、パパという存在は母から教えられて知っているが、1歳で別れているので父親という概念はわからない。

 留守中も色々な人が来ては、あやしたり一緒に遊んでくれたりしても、夕方になると皆帰っていってしまうのが普通だったであろうから、パパという人も夕方になったら帰っていってしまうのだろうと思っても不思議ではない。

 その時初めて「悪いことをしてしまったなあ」と、親の責任を放棄していたことに気がついて自分を恥じ、何とも言えない気持ちになった。過ぎたことは最早取り返しがつかない、どうしようもない。犯罪者が自分の罪を振り返った時には、こんな感じがするのかもといった感じであろうか。

 幸いその後の親子の関係も良く、娘も問題なくすくすく育ってくれたので有難かったが、今ではもう還暦近くにもなった長女には話をしたことがないが、時にその時のことを思い出しては済まないことをしてしまったと密かに後悔している次第である。