バッハ一家の室内楽

 東京の姪の関係で、御影の世良美術館で開催された上記の音楽会に女房と一緒に行ってきた。

 バッハの頃のバロック音楽については、あまりのクラシックな感じがして、今ひとつ関心が薄かったが、最近他にも古楽器の演奏を聴く機会があったりして、多少関心が出来、せっかくの機会だったので聴きに行った次第である。

 バロック・フルートにバロック・ヴァイオリン、バロック・チェロそれにチェンバロという全てが300年前の楽器による構成で、表題の通り、J.S.バッハとその息子たちの曲ばかりで、まさにバッハ一家の音楽を楽しませてもらった。

 こちらはもともと音楽には縁が薄く、聴いた音楽について批評はおろか、感想を述べることさえおこがましいが、今回聴いた4人揃ってのバッハのトリオ・ソナタ ト長調や、最後の曲であった、親バッハがフリードリッヒ2世の求めの応じて作ったのが元だと言われる、ソナタハ短調音楽の捧げもの」というのは中々良かった。

 バロック音楽も幅が広く奥が深いというのか、これまでの馴染みが少ないだけに、案外楽しめるものだと再認識させられた。ただ、チェンバロが全て伴奏を引き受けているのだが、ピアノと違って、管弦楽器が強く響くと殆ど聴き取りにくいぐらいになるのは仕方がないのであろうかなと思われた。

 その他、ヴァイオリンやフルートの独演も良かったし、チェロでは2番目の息子だかのバロック離れの感じのした音楽にも興味を引かれた。そこで気がついたのは、バロック・チェロには足がないので両膝で挟んで楽器を演奏するのだが、長い演奏では疲れないのかなとも思われた。

 何れにしても3時間ぐらい300年昔の音楽の雰囲気の中にどっぷり浸からせてもらって幸福であった。バロック音楽は素人にも結構楽しめるものである。

 また偶然に会場でしばらく会う機会がなかった親戚の一人に出会うこととなりラッキーな一日でもあった。

安倍首相は憲法を守れ

 自民党の総裁選で安倍首相の三選がきまった。思ったような圧倒的な勝利にはならなかったようだが、この人の顔をまだ三年も見なければならないのかと思うと、正直うんざりする。

 自民党の総裁選で石破候補との討論会などで、安倍首相はしきりに憲法改正を主張していた。自衛隊が後顧の憂いなく戦えるようにするには憲法改正が必要だ、憲法を改正しないのは国会議員の責任放棄だというような事まで言っている。

 しかし、政府は国民の委託に答えて政治を行っているのであり、その基本は憲法によっているのであり、首相をはじめ公務員や国会議員は憲法を守らなければならないと憲法に明記してあるのである。

 第九十九条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と書いてある。

 首相としてでなく政党の総裁として言っているというのは言い訳にならない。総裁であろうと、首相は首相であり、同一人物を都合良く切り分けるわけにはいかない。憲法改正の発議は国民の側からなされるもので、政府が先頭に立って進めようとするのは明らかに憲法違反ではないか。

 憲法を改正したい側の論理では、憲法憲法改正の手続きを記した憲法96条で憲法は改正を予定しているのだから、首相が改正を主張しても構わないなどともしているが、法学者はどう解釈するのか知らないが、憲法改正は国民の側からの声が起こった時に対応するためのもので、素直に読めば、それが憲法99条に影響するとは思えない。99条は誰が読んでも、素直に読めば、政府や国会議員などが憲法を守る義務があると書いてあるとしか読めないのではなかろうか。

 その文面に国務大臣憲法を尊重し擁護する義務を負うと明記されているのだから、やはり尊重し擁護すべき首相が先頭に立ってそれを改正しようというのは、誰が見ても条文に違反しているとしか読めないのではなかろうか。

 法的に難しい論理をこねくり回しても、多くの人が素直に読んで素直に解釈出来ることが優先させられるべきではなかろうか。立憲民主主義によって憲法が国民によって政府を縛るものであるとすれば、首相がが先頭に立って憲法を変えると唱えることはどう考えても憲法違反ではなかろうか。安倍首相が発言を取り消すのでなければ、国民は首相を憲法違反で告発すべきではなかろうか。

 

「敬老の日」か「老人の日」か

 

 9月15日が「敬老の日」で、週末と重なるので、その代替として17日の月曜日が休日になるのだとばかり思っていたら、法律が変わって、今は9月の第3月曜日が「敬老の日」ということになっていることを知った。

 そんなことはどうでもよいのだが、毎年この日になると例年メディアは老人の事を書きたてて来たものだが、この頃のように老人が多くなってしまうと、もう高齢化社会だの、超高齢化社会だのと改めて言うこともなくなり、今では、少子高齢化の社会の現実の中で、今後どう生きて行くべきか、老齢年金などの社会保障をどうするか、労働力減少にどう対対していくかなどが現実の問題として社会に迫って来ている。

 もはや社会の趨勢は敬老などと言っているゆとりはない。元気な老人には働いてもらわなければ社会が回らないような状態である。定年は延長されるし、年金の受給開始年齢も遅くなる。家族は少なくなり、住まいもバラバラになり、孤独死なども多くなっている。それでも「敬老の日」なのだろうか。

 「敬老の日」の名称については私は初めから反対であった。もともとこれは「老人の日」であったのを国民の祝日にする時に誰が決めたのか知らないが、「敬老の日」としてしまったものである。邪推すれば、”若い者に老人を敬うように言うてやるから老人は大人しくしててや”と言う暗喩が含まれているような気がしないでもない。

 「こどもの日」が子供を主体にした呼び方で、「子供を大事にする日」や「子供を可愛がる日」でないのに年寄りの方はなぜ老人を主体とした「老人の日」でなくて「敬老の日」として老人を国民全体から疎外した存在としなければならないのであろうか。

 まだ老人人口が僅少で若者が主である社会であれば、まだしも、敬老という倫理をかざした日を考えるのも判らないことはないが、国民を構成する一部の人たちを対象とするならば、対象とする人たちが主体となるべきで、対象とする人たちを全体から疎外するような分け方をすべきではないであろう。

 「老人の日」はあくまで老人の権利を守る日であり、敬老するかどうかはそれに付随する若い人々の問題である。国民の祝日とするのであれば、対象となる集団の主体性がまず認められるところから始めるべきであろう。

 「こどもの日」の他にも、「女性の日」、「障害者の日」、「LGBTの日」、「がん患者の日」他、いろいろ考えられるであろうが、当然全てで、対象となる人々が主体で、他の人々が対象とする人たちを助けたり、慰めたりすることが主体ではないのと同様である。

 人は誰しも自ら生きる権利があり、周囲の人たちの援助は得ても、疎外されてはならないのは当然であろう。

 今日のように超高齢化社会となれば、以前にも増して「敬老の日」という外からの働きかけよりも、主体としての老人の生活や権利の擁護を主張し、老人の生活を守り、より豊かにしていくためにも、「敬老の日」をやめて「老人の日」に戻すべきだと思うが如何だろうか?

 

 序でに老人の日に絡んで我が国の100歳老人についての厚生省の統計記事が新聞に出ていたので、備忘録として、ここに書き留めておく。

 今年は百歳以上の老人が過去最多の6万9785人昨年より2014人増え、女性が6万1454人、88.1%を占める。今年新たに百歳になった人は3万2241人、昨年より144人増加で女性が2万7788人。最高齢者は女115歳、男113歳。ちなみに国民の平均寿命は」男80.98歳 女87.14歳とのこと。

 

 

東山魁夷展

 京都の近代美術館で東山魁夷展があったので見に行ってきた。これまでにもこの画家の絵はよく見てきたが、唐招提寺の障壁画はテレビで見せて貰っただけで実物を見る機会がなかったので、それが見たさに訪れたようなものであった。

 東山魁夷展とあらば、どうせ込み合うだろうと思って開館よりも早く行ったので、大勢の人が押し寄せる前に、目的の障壁画をまるで独占するようにゆっくり見ることが出来たのが最大の得点であった。この人の絵は墨と緑青だけの単色の静謐な感じのするものが多いが、その単純な画面が返って何かスピリチュアルな世界に引き込んでくれるような所が人々を惹きつけているのであろう。

 この作品の展示のはじめの方は、初期の赤みがかった山の風景や、緑一色の道、林や湖と馬などと、ユニークであるが見慣れた絵が続いている。ドイツの風景や建物もあったが、私も訪れたことにあるハンブルグに近い小さな町ツエッレにもこの画家が訪れていたことを思い出した。

 出品作品の数もかなり多かったが、何と言っても、今回の目玉は唐招提寺の障壁画であった。これらはかなりのスペースをとって部屋ごと再現されており、実物通りにゆったりと見ることが出来るようにしてあったので値打ちがあった。

 障壁画の中には、桂林の特徴的な山の風景もあったが、圧巻は最後の空間を占める日本の海岸の風景であった。盲目になって日本の土地を踏んだ鑑真和尚が経験したであろうという日本の海を和尚を忍んで描いた絵である。海中の岩に砕ける波から、海岸に打ち寄せる波、砂浜にゆっくり満ちては返す静かな波までを巧みに描いているのはさすがである。いつまで見ていても見飽きない。

 それに、私は薫風という揚州の建物の周囲の柳の絵も好きだ。風に吹かれてそよぐ柳の様を描いた作品は本当に五月の薫風を感じさせてくれる。スケールが大きいこともあり、臨場感が強く、本当にそこにいてそよ風を感じているようで、立ち去り難い感じがした。

 それにもう一点、今回の展覧会での思わぬ経験をした絵があった。「月こう(竹冠に皇)」という夜空の月の光りに照らされる竹林を画面一杯に描いた大作である。

 近くで大きな画面に向かい合っていると、周辺の竹の梢が揺らいでいるではないか。目の錯覚で揺らいで見えたのであろうか。じっと見ていると確かに周辺の竹の穂先が動いているのを感じる。確かに揺らいでいる。絵を見てそんなことを感じたのは初めてであった。

 念のため、一度離れて他の絵を見てから、もう一度見直して見ても、じっと見ているとやはりあちこちと竹の梢の先がそわそわと動いている。自分が静かな夜に、月明かりの下で、竹林の中に佇んでいるような感じであった。

 昔、雪舟が書いたネズミが本当に動いたとかいう話を聞いたことがあるが、静止した静かな絵の中の竹の梢が動くというのは、恐らくこちらの目の錯覚であろうが、作者の腕前の結果か、こちらの幻想かわからないが、初めての経験で忘れられない記憶となった。

 おかげで京都まで出かけた甲斐があったと思っている。

 

コスタ・リカの奇跡

 中米のコスタ・リカという小国が軍隊を廃止して、平和に暮らしているという話を以前から聞いていたので、箕面市のホールで「コスタ・リカの奇跡」というコスタ・リカの紹介映画があるので見に行った。

 アメリカが自分の庭のように振舞っている中米で、コスタリカが1949年にどうして軍隊を廃止して、その後アメリカの侵略戦争などが世界的に多かった時代に、平和にやってこれたのか疑問だったが、これまでコスタ・リカについての詳しい話は聞いたことがなかった。

 近年のアメリカ近辺の歴史を見ても、戦後70年に限って見ても、グアテマラ侵攻を始めとして、キューバ、ハイチ、ドミニカ、ニカラグアパナマからグレナダまで、中南米の国でアメリカに侵攻されたり、介入を受けなかった国はないのではなかろうか。そんな中で、コスタリカだけが自ら軍隊を廃止して、侵略もされず、どうやって国民を守り、平和を維持し続けてこられたのかが不思議でならなかったので、興味深く映画を見た。

 ただ映画は色々な人によるコスタ・リカの歴史に沿った解説の話が多く、字幕も読みにくく、その上、こちらのコスタ・リカの歴史についての前知識が乏しかったこともあって、十分理解出来たとは言えなかったが、単に軍備を廃止し、そのお金を教育や医療など回したと言っても、国の歴史であるから文字通りのような綺麗事である筈はなく、いろいろな紆余曲折の上、複雑で困難な過程を経て、何とかやっと軍隊なしで平和を維持して来たもので、今なお多くの問題も抱えている現状を垣間見ることが出来た。

 軍備を廃止したきっかけも、もともとクーデターで勝利した後に、前政権の反撃を止めるために、それまでの軍隊を廃止して、自分たちの警察力や民兵の組織などで自分たちを守るようにしたのがことの始まりだったようである。

 その後も正確ではないが、ニカラグアに攻め込まれたり、アメリカに同調して自国内にニカラガ侵攻のための基地を置かされたり、アメリカのために警察軍を外国に派遣したりもしているし、アメリカに同調して海外派兵?を決めた大統領を学生が憲法違反だとして裁判を起こして勝訴し、その決定を撤回させるようなこともあったようである。

 また、軍事費を教育に回して教育を無償化し、大学なども作ったが、1990年以降は麻薬の密売などが増えて治安が悪化するなど、いろいろ問題も抱えているようで、なかなか平穏無事な国というわけにもいかないようでもある。軍隊は廃止しているが、治安維持のための警察力は持っているし、必要なときには徴兵も出来ることになっているようである。

 四国と九州を合わせたぐらいの国土で、人口も500万足らずの小国なので、日本などとは事情が異なるが、わがままな大国であるアメリカのお膝元にありながら、独立を保ち、アメリカの要求を蹴ったりしてでも、軍隊なしで平和を保っている姿には参考にすべき点も多い。

 日米条約はイラクアフガニスタンととアメリカの条約よりも、アメリカに有利な不平等な条約と言われているが、日本ももう少し毅然として、アメリカから独立して、アメリカに言われるままの軍備増強よりも、教育や社会福祉に予算を回し、国民のための政治に目を向けて欲しいものである。

映画「カメラを止めるな」

「カメラを止めるな」という 映画を見た。全くどんな映画なのか何の先入観もなく、

女房に誘われて見に行った。

 映画が始まると下手くそなメイクをした役者たちのお粗末ないわゆるゾンビ映画。本当の血とはまるで違う真っ赤なペンキの血や、傷口や切断された肉体のお粗末な出来。それらの人たちのおどろおどろした場面の連続。しまったな。女房も新聞か何かの広告の乗せられたのかな。これは時間の浪費かなという気さえしたが、仕方がないや、最後まで見てやろうと我慢しているうちに前編が終わった。

 これでは短すぎるので、後どういう展開になるのかなと、引き続き見ているうちに前編が劇中劇であり、映画の主題はそういうテレビドラマを作成するスタッフたちのドラマ作成過程のドラマだったことがわかってやらやれする。"one cut on the dead"と名ずけたグループで、初めから終わりまでノーカットで撮影をするということで、題名も「カメラを止めるな」ということになっているらしい。

 今度はそういうつもりで見ていると、撮影の裏場面などをふんだんに入れて、胡散臭い感じのゾンビ映画を表に立てた、結構悪くないコメディ風作品であった。全体として見ても、決して私の好みの内容ではないが、構成が奇抜で、それなりに結構面白いユニークな作品だったとも言えるのではなかろうか。

 ただ私の感じたのは、これだけスタッフが協力し合えるのなら、何もこんな気味の悪いゾンビ映画でなくても、もっと違った対象を取り上げた面白い映画も出来るのではないかということであった。

厚真(あつま)町の山崩れ

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 ご覧になった方も多いだろうが、今度の北海道の胆振(いぶり)地方東部地震における厚眞(あつま)町の山崩れの写真である。

 はじめテレビで見た時は、山裾に沿って一列に多くの山崩れが続いている写真だったので、丁度そこらに断層が走っていたので、続いて土砂崩れが起きたのかと思っていたが、そのうちに航空写真が出て、はるか向こうの山の中まで、無数の山崩れが起きていて、茶色い山肌が広がっているのを見たびっくりさせられた。

 こんなのはこれまで見たことがない。上の写真が山崩れが起きる前と後の対比写真である。こんな山崩れが一斉に広範囲に、それも夜中の三時頃、まだ皆が寝ている頃に起こったのではどうしようもない。40人近くの方が生き埋めになって亡くなられたようだが、私がそこにいても、これでは助かりようがない。亡くなられた方々のご冥福を祈るよりない。

 どうしてこんな広範囲の山崩れが起こったのか、不思議に思ったが、WIkipediaの解説によると、

 今回の地震では強震動によって厚真町を中心に広い範囲で土砂崩れが発生した。この土砂崩れの主な崩壊源は約4万年前に支笏カルデラから噴出された降下テフラ(Spfa-1)で、この層の上位にある恵庭岳樽前山のテフラや、土壌層が一気に崩れたとみられている[注釈 4][19]前日の台風や、6~8月の降水量が平年の約1.6倍と多かったことから、土壌には多量の水を含んでいたと考えられており、その影響もあった可能性も考えられてる[20]。また降下軽石層は透水性が高く、化学的風化粘土化し、土砂崩れが起こりやすくなっていた可能性も指摘されている[21]。Spfa-1は主に未固結の軽石からなる。厚真町周辺では4m前後の厚さで堆積しており、下位にある中新世の海成層を覆う。この軽石は乾燥密度が約0.5 g/cm3と非常に小さく、国内に分布する軽石でも最も軽い値となっている(多くの軽石は1.0 g/cm3前後)。上位にある土壌層は概ね1.5〜2.0 g/ cm3で、軽いものの上に重いものが重なった不安定な地層構造であったとみられる[22]

ここで、テフラというのはギリシャ語で灰の意味で、火山灰軽石スコリア火砕流堆積物・火砕サージ堆積物などの総称。火山砕屑物とほぼ同義であるが、ある程度広く分布するものに用いられることが多い。狭義には降下したものを指すそうである。

 この説明で初めて知ったが、自然災害は恐ろしいものである。これらを全て予知し、予防することは不可能であるが、地球温暖化による海水温の上昇や、台風などの影響もあるとすれば、近年の地球環境の変化に対して、何らかの対策を講じて、台風や地震を止められなくても、その被害を減らすための対策を講じていく必要があるのではなかろうか。

 このような地滑りが起こりやすいことを住民は知っていたのであろうか。おそらく否であろう。せめてこのような危険性はもっと日頃から知ってもらっておくべきであろう。広島で起こった土砂災害については、私が以前にたまたま見た風景からだけでも、素人目にも危ない所だと思っていた所に起こっていたこともある。

 国家間の経済戦争や軍備の増強よりも、人類が生き延びるために全ての国が力を合わせて地球環境の維持、改善に取り組まなければならない時期が近づいているのではなかろうか。