憲法改正より先に日米地位協定の改正を!

 5月3日は憲法記念日であった。現在の憲法は戦後アメリカに押し付けられたものだという意見もあるが、戦後70年もの間、戦争もなく、一人の戦死者を出すこともなく、結果として平和に発展してこられてのはこの平和憲法のお蔭であったことも否定できないであろう。

 安倍内閣を中心とする右翼勢力は今なお憲法を何としてでも変えようとしているが、もうすでに閣議決定によって自衛隊が海外でも戦えるようにしてしまっているので、そのためなら憲法を変えなければならない必然性はなくなっている。彼らの目的はその先の「大日本帝国の復活」なのであろう。

 現在、憲法を変えなければならない差し迫った事情は何もない。もともと憲法は主権者である国民が政府の暴走を防ぐための檻のようなものであるから、国民からの憲法改正の大きな声がないのに、政府が主導して憲法を変えようと動くこと自体が憲法をないがしろにしている暴挙なのである。

 現実の世界を見れば、憲法改正より国民を苦しめている日米間の安保条約や、それにもとずく不平等な地位協定を変えて、国民の生活の安全を守ることの方が優先すべきことではなかろうか。沖縄の基地問題だけでなく、数々の米軍飛行機などによる事故、米兵による事件、いがめられた日本の空域その他、米軍に与えられた特権による数多の国民の被害、それらに対して何も対策の取れない政府など、日々の国民生活は多大な損害や不都合にさらされている。これを少しづつでも変えていくことこそが政府が憲法改正よりも先にすべきことであろう。

 憲法改正は国民の声が強くそれを求めるようになった時に考えればよいことであるが、地位協定の改正、平等化は現在も続く毎日の国民の生活の障害を除き、改善することであり、政府が国民の生活を守る意思さえあれば、米国との交渉であるから始めるための障害も少ないし、国民の指示こそあれ、反対もあまりないであろう。

 憲法よりも優先している地位協定による国民生活の制約は憲法を変えても変わらないし、憲法よりも国民を日々苦しめているものである。日米同盟が平等な条約に切り替わってから、もし必要とあらば、その時に憲法改正も考えれば良いのではなかろうか。

 

貴方の家の庭から不発弾が見つかったらどうする?

 2016年5月に大阪のミナミの建設現場で1トン爆弾の不発弾が見つかり、周囲の交通遮断を行い住民を退避させ、近くの南海電車の交通も一時止めて、自衛隊が処理をした事件があった。

 この時、その業者は急遽周囲に防護壁を作り、警備員を配置するなどして安全確保に努めたのだが、その費用を国か市が当然払ってくれるものと思って請求したが、払ってくれないので訴訟となった。

 最近その判決が大阪地裁から出たが、それによると、地方自治法などに不発弾についての明確な規定がなく「支払い義務を課すものではない」ということで業者の請求は却下され、吉村大阪市長も「基本的に所有者が負担すべきであり、正当な判断だ」としている。

 しかし、これでは多くの人の納得は得られまい。不発弾は偶然発見された埋蔵物のようなものではなく、法令規定の問題ではなく、戦争責任に結びつく問題である。戦後処理の一環として行政が責任を追うべきものではなかろうか。もし万一あなたの家の庭で不発弾が発見されたら、誰しも自分の責任で処理しろというのかと開き直りたくなるのではなかろうか。

 土地の所有者が埋めたものではなく、戦時中に米軍によって落とされたものであり、戦争責任が「一億総懺悔」であり、空襲の被災者に対する裁判の判断で言われたように、戦争による損害が「国民が等しく受忍しなければならない」ものであったとしても、不発弾の処理に国や市が責任を取らないのは、国や市が国民の生命を守る最低限の義務を果たさないものと言わねばならないのではなかろうか。

 世の中が次第に再び戦前に似てきているが、この一件からだけ見ても、万一無理やり戦争に引き摺り込まれて被害を受けても国がその保証をしてくれる可能性は薄いと考えた方がよさそうである。事実、先の大戦による被害でも、軍人に対してはある程度の補償もあったが、一般国民の被災者はただ受忍を強いられただけだったことも思い出すべきであろう。これからだけでも絶対に戦争は許してはならない。

 

外国の政府に救出をお願いするよりない拉致被害者の家族たち

 日本から北朝鮮への拉致被害が起こったのは主として1970年から80年にかけてのことであった。したがって、横田めぐみさんらの拉致が起こってからもう40年近くも経過したことになる。被害者の人数は不明であるが、政府の発表によれば現在17名が被害者として認定されているようである。2002年に小泉純一郎首相が北朝鮮へ行って交渉し、金正日主席が拉致を認め、蓮池薫さんら5人が帰ってこられたが、これらの人たちはこれには含まれていない。

 この時以来、北朝鮮との間では返還への具体的な話は途切れたままで、遺体の骨が返還されたことがあるが、それが他人の骨であるという主張がなされたりしてこじれ、返って被害者の返還の話は途切れてしまった。2014年には特別調査委員会が設置されて拉致被害者の調査が行われることになったが、それすら中途半端な物別れになったままである。拉致被害者の家族の悲痛な思いは想像に絶するものがある。

 その間にアメリカなどは北朝鮮との交渉で、何回か自国の抑留被害者を連れ戻しているのである。ところが、日本の場合には交渉がもつれるばかりで、最早取り返しのつかない時間が経過してしまったのに、今だに救出出来ないでいる。どうして日本だけが連れ戻すことが出来ないのであろうか。日本政府の態度に怒った被害者家族の思いもわかる。政府は本当に救出のために最大限の努力をしたのであろうか。疑問に思わざるを得ない。

 外国に抑留されている自国民を連れ戻すためにはかなりの犠牲を払い、強力な政治力を発揮しなければ成功しない。アメリカなどは大統領経験者などの大者が直接相手国に行って、それ相当の条件を提供して、高価な代価を払って、連れ戻してきているのが現状である。

 日本では2002年以降、拉致被害者の家族たちが必死の思いで「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)を作って、政府はじめ外国にまで働きかけて、長期に渡って活動しておられるが、40年近くたっても今だに救出の見込みさえ立っていない。

 政府は政府に任せろと言いながら何ら有効な手を打たず、ただ北朝鮮を非難するだけで、犠牲を払ってでも救出するといういうような姿勢をとったこともなく、はたから見ていても、アメリカのよう具体的な手も打たず、これでは救出できるはずがない。

 政府は真剣に拉致された人々を連れ戻そうとしているのではなく、拉致問題北朝鮮に対する優位に立てる外交問題として、政治的に利用しているだけだと思わざるをえない。家族会の人たちも高齢化が進み、拉致被害者たちも北朝鮮における生活がそれ以前より長くなり、たとへ帰ってこられても日本に再適応できるか否かさえ問題になる時代になってしまっているのではないかと危惧される。

 もう家族の人たちは政府に頼んでもラチがあかないことを嫌という程知らされておられることであろう。北朝鮮の金正念主席が日本とはいつでも会うと言っているのに、日本政府は「圧力一辺倒」を繰り返すだけで、具体的に交渉しようとしないので、今回の米朝首脳会談のムードの中で、被害者の家族の人たちはとうとう日本政府は当てにならないので、アメリカの政府に頼みに行かれたようである。同じ国民として日本政府のなんと情けないことであろうか。

 

元乃隅稲成神社

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 2−3年前アメリカのCNNがおこなった「日本の最も美しい場所31選」というのに、金閣寺厳島神社などとともに選ばれてから一躍有名になった、山口県のはずれにある元乃隅稲成神社へ行って来た。

 日本の主な観光地で行ったことのない所などもうあまり残ってないと思っていたのに、こんな所は今まで知らなかったし、写真を見ると断崖絶壁にような海岸に赤い鳥居が並ぶユニークな稲荷神社の姿で、なるほど魅力的なので、是非一度行ってみたいと思うようになっていた。

 そんなところに、たまたま旅行会社の広告で、この元乃隅稲成神社にも寄る山口県周遊のバス旅行をみたので、応募して出かけた。旅では以前に訪れた所が多かったが年月も経っているので悪くなかったし、ここと角島大橋は初めてだったのでまあまあ有意義な旅であった。

 この元乃隅稲成神社は外国人が31選に選ぶぐらいの所だから、こちらが知らなかっただけで、古くからあるお稲荷さんかと思っていたら、実は歴史は浅く、昭和30年(1955年)に地元の網元の岡村斎(ひとし)さんの夢枕に現れた白狐の「吾をこの地に鎮祭せよ」とのお告げが始まりで、今のように123基の鳥居が作られたのはまだ昭和62年から10年ぐらいかけてのことに過ぎないとのことである。私が知らなかったのも無理もない。

 元々この地は本州の西の果てのような所で、日本海の荒波に打ち砕かれた断崖の岩場が続く海岸で、この地の岬の先端は昔から打ち寄せる波が岩に当たって吹き上げるので、「竜宮の潮吹き」として知られていた所らしい。今でも時々3〜4米ぐらい吹き上げる白波を見ることが出来る。

 まだ新しい神社なので鳥居も新しく、海岸べりの存在なので、伏見稲荷のような壮大さや落ち着いた威厳などはないが、青い海に白い波、岩に張り付く緑の樹々、それに青い空、そこに連なる真っ赤な鳥居の行列のコントラストが美しく、外国人が喜びそうな景色で美しい場所31選に入るのもなるほどなと感じさせられる。

 ただ急速に訪れる人が増えて、現地では喜びとともにその対策に大わらわのようであった。元々辺鄙な断がい絶壁のような所である。駐車場など作るようなスペースもないような土地である。訪れた時にもまだ道路や駐車場を作っている途中だあったが、果たしてこの辺鄙な土地に将来いつまで多くの人が訪れてくれるであろうか。大金を投じて受け入れ態勢を整えても果たして将来ん渡ってペイできるものだろうか、他人事ながらふと不安な気がした。

 それはそうとして、この神社で景色以外に面白いのは、御神体を津和野にある太鼓谷稲成から勧請してきて貰っているので、稲荷神社は普通「稲荷」と書くところを、ここと津和野の元宮だけは「稲成」と書くということや、賽銭箱がこの神社では社に近い一番高い所にある6米の大鳥居の上にあり、賽銭を下から投げて、入れば願が叶うという遊び心にも適った仕掛けのあることなどであろうか。

 少し不便な所にあるお稲荷さんではあるが、機会があれば一度訪れてみるのも悪くないのではなかろうかと思われた。

「セクハラ」の分からない人たち

 財務省の次官が朝日テレビの女性記者に対して、セクハラ行為をしていたのが暴露され、辞任に追い込まれ、財務省は先に辞任した国税庁長官とトップの二名が欠員という異常事態に陥いり、政局はますます混迷の度を深めている。

 財務次官は今でも事実を認めていないが、音声録音の記録まであれば否定することは出来ない。被害者の立場を考えれば、本人がいかに全体を見てくれればセクハラでないことがわかるといっても、財務次官という立場と取材をさせてもらう女性記者という力関係を見れば、軽い気持ちで行ったのだとしても、それがセクハラだということを理解していないことを証明しているだけのことである。

 恐らく次官は日本の社会では昔からよく見かけるように、軽い気持ちで女性記者に応対していたのであろうが、自分の社会的な地位の理解と男女同権の時代の変化にもっと敏感であるべきであったのではなかろうか。麻生大臣が「次官ははめられたのだという人も何人もいる」と言っていたが、言うならば、はめられたのではなく自ら無知の罠にはまったのである。

 この事件の周囲の人たちの擁護論を見ていると、この国の男たちにはまだまだセクハラということが理解されていないことがわかる。麻生財務大臣が被害者に名乗り出ろと言ったり、次官にも人権があると言ったり、「それじゃ男の記者にしては」と言った発言が出たりするのを聞くと、まだまだ多くの男性政治家たちがこれまで自分がやってきた行動がセクハラだと言うことや、男女同権の意味がわかっていないことが明らかになったとも言えそうである。

 そこへ無知の上塗りをするように、自民党の代議士が、非難する野党の女性議員たちの名を挙げて、この人たちにはセクハラは関係ないと言ったり、下村元文部大臣が被害者が「次官の音声を録音したこと自体が犯罪行為だ」と言って被害者を加害者に仕立てて、後で取り消すなどということさえ起こっている。

 人口減少の対策として政府が女性活躍の時代だと大々的に打ち出しているが、それは女性をもっと働かせようとするためだけで、男社会の実態を変えようとする意欲は薄く、政府自体にもセクハラとか男女同権という意味がわかっておらず、実際に男女同権社会を作ろうとしているのかどうか疑わしいことを証明したような結果になっている。

 先に安倍首相に近い山口という記者のレイプ告発による逮捕を急に取り止めた検察に対して、実名を明かして戦った伊藤詩織さんに対して、アメリカでの#MeToo運動の高揚にも関わらず、日本では世論のバックアップも盛り上がらないばかりか、それに対する非難や中傷さえあったことも、この国の遅れた現状を示している。

 少しづつ変わっては来ているが、この国ではまだまだ男女同権の意識が未発達のままで、例えば女性専用車男性差別だという人までいることでもわかるように、人々の多様性やそれへの対応、平等や公正、公平への心からの理解が定着していないことが背景にある。

 職場における男女の賃金差別はなお続き、昇格が遅れたり、職種の差別その他色々な実質的な差別が残っているなど、今だに社会的な男女差が人々の心の中に陋として根を張っており、その根っこの上にセクハラ問題も起こるのである。

 今度の財務次官のセクハラ事件をうやむやにせず、日本でも#Me Too運動を盛り上げて厳しく対処し、あらゆるばらつきを持った人々全ての人権を同じように尊重する社会にしていく契機にして行くべきであろう。国家の中枢ともいうべき財務省の事務方の長の行動としてあまりにも情けないと感じざるを得ない。

 面白い漫画を見つけたので無断でここに添えておく。

 

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風呂おけ

 最近新聞を見ていたら面白いコラムが目についた。『「風呂おけ、貸します」とある店がサービスを始めたが、皆さんはどんな物を思い浮かべますか?』とあった。

「風呂おけ」と聞けば、私などは先ずは昔よく家庭で使われていた木で作られた桶の湯船を思い浮かべるので、湯船を貸しますって、一体どういうことかなと思ってしまいます。

 しかし、記事ではサッカーで優勝した選手らが会場に優勝シャーレがなかったので、代わりに木製の洗面器を掲げたとかで、写真の説明には「風呂おけ」と書いてあったそうである。

 私などのこれまでの言葉の使い方では、「風呂おけ」とは湯船すなわち浴槽のことであるが、記事でいう「風呂おけ」は湯桶と言ったり手桶といったものをさしているようで、これで「風呂おけ」貸し出しますの意味がわかった。

 新聞の記事にもあったが、古くからの風呂桶店の主人も風呂桶といえば浴槽の意味で使っているそうだし、我々ぐらいの年配の人の多くは同じような使い方をしているのではなかろうか。

 ただし、広辞苑によると、湯船として使う桶と、風呂場で用いる小さな桶と二つの意味を載せているようだし、五つ六つしか歳の変わらぬ女房も手桶を風呂桶と言うので、昔から両者はあまり厳密に区別されないまま両方の意味で使われてきたものかも知れない。

 ところでこの記事でもう一つ気になったのは洗面器という言葉である。どうも最近どこでも広く使われているプラスチック製の手桶のようなものを洗面器と言っているようだが、手桶や湯桶で顔を洗うことはないので、本来は洗面器とは言わない。

 洗面器は我々の子供の頃は、どこでも広く使われていたもので、ブリキのような金属製か、プラスチック製で、木製のものは知らない。大抵は朝顔型で底より上が大きく広がった円形をしており、そこに水やお湯を貯めて両手で掬って顔を洗うのに適した形をしていた。それが本来の洗面器である。

 洗面器については昔聞いた思い出話がある。顔を洗うのに両掌にお湯を掬って受けて、そこに顔をつけて洗うのだが、日本人は手を動かして顔を洗うが、中国人は手を動かさないで顔を動かして顔を洗うという仕草の違いがあるそうである。昔、日本のスパイが中国でこの動作の違いからバレて捕まったという話であった。

 ところが、最近はどこでも蛇口から直接お湯が出るようになったせいか、お湯をためて顔を洗う習慣がなくなったためか、この形の昔からの洗面器がなくなり、昔の手桶とか湯桶に似せて作られたプラスチックの器が洗面器と言われるようになっているようである。円形だが底と上の径がそれ程変わらない。これで顔を洗う人は少ないだろうし、顔は洗いにくい。

 それでもこの手桶、すなわち「風呂おけ」が洗面器と言われているようで、インターネットで調べて見ても「風呂おけ」の画像検索をするとプラスチックの手桶ならぬ今様洗面器が沢山出てくる。

 世の中の人々の生活が変わり、日頃使う品物もそれに伴って変わるのに伴って、物の呼び方も変化していく。もう今では本来の風呂桶の湯船はほとんど見かけなくなったし、昔顔を洗った洗面器もほとんど姿を消してしまった。それとともに風呂桶が洗面器と一緒になってしまったのを聞くと苦笑せざるを得ない。

泉南の藤祭りと石綿碑

 

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 新聞に泉南の藤まつりのことが載っていた。何年か前に、この地の老人が自宅で藤を

鉢植えの時から丹精込めて育て、立派な藤棚が出来、近隣で有名になり、他所からの見物客まで来るようになったという話を聞いていたので、どのようなものなのか確かめたくなり、数日前に見に行ってきた。

 JR阪和線和泉砂川駅から約10分ぐらいの熊野街道に面した梶本さんという旧家で、育てたご本人はすでに亡くなられているが、あまり立派なので地元の人達が引き継ぎ、梶本さんに代わって世話をしているのだそうで、花が満開の頃には毎年藤祭りを行ない、地元の観光資源ともなっているのだそうである。

 木は幹が大人の脚ぐらいの太さのもの一本だけであるが、それが見事に枝分かれし、伸びに伸びて、幅3米、奥行き20米以上は悠にある藤棚を見たし、更にその隣の中庭をも取り囲まんばかりの伸びようで、今が丁度花盛り。棚から房になってたわわにぶら下がった無数の藤の花がなかなか見事なもので、大勢の観光客で賑わっていた。

  地元の人の努力で、パンフレットや幟、提灯まで用意されており、出店もしつらえてあり、工事場のような簡素な作りではあるが、小さな展望台まで拵えてあり、滅多に見れないであろう満開の藤棚を上からも眺められるような工夫も施されていた。

 毎年2〜3万人ものの見物客が訪れるのだそうである。十時の開場すぐに行ったのだが、駅からそこまでの道は見物客が途切れることのない状況で、結構賑わっていた。昔から藤棚には蜂がつきものだが、幸い蜂に悩まされることもなく、写真も取り、十分楽しむことができた。

 そこでもう帰ろうとして外へ出て、駅へ引き返すために道の反対側へ渡り、少し進んだ所が空き地のようになっていたが、そこで思わぬものを発見した。思ってもいなかったのでびっくりしたが、そこに石綿肺(アスベスト肺)の犠牲者を記念した追悼碑が立っていた。

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 こちらには誰一人訪れる人もなくひっそりとしており、たまたま目に止まったから分かったようなものの、もう少しで全く知らないで通り過ぎるところであった。

 出会うまで全く気がつかなかったが、ここは泉南なのである。戦中、戦後からこの辺りには石綿を扱う零細企業が沢山あり、石綿による健康被害が少なくとも昭和30年代から知られていた。堺の国立療養所の医師たちが石綿被害による肺疾患の死亡者の解剖所見などを調べ因果関係を明らかにしていたことを覚えている。

 石綿の線維の吸入により、肺がんや肺線維症、中皮腫などが起こり、被害者は呼吸困難などを起こして亡くなったが、発症まで20年、30年という長い時間がかかるので、因果関係が明らかになっても、その防止策はなかなか講じられなかったのである。

 直接作業に携わった人だけでなく、作業員の奥さんや近所に住む人までもが被害にあったもので、そのことはずっと後で久保田の工場周辺の住民のアスベスト被害によっても裏付けられたように恐ろしいものである。

 しかし、原料が安価で耐熱効果が強いものなので、建築素材などとしてかなり広範に用いられて来たこともあり、因果関係が明らかになった後も、政府としての規制も進まず、被害者が多くなって裁判沙汰にもなり、遅れに遅れて21世紀になってようやく出荷停止などの措置が取られるようになり、その間にも犠牲者が増えるという悲しい歴史があったのである

 それを記念するべく、裁判の結果得られた補償金の一部を出し合ってこの追悼碑を建てたようである。碑の横にはそれについての新聞記事が取り出せるようになった仕掛けがあり、それには追悼歌が書かれていた。「新緑を吸い込みいや増す悲しみぞ息ほしき人のあるを知るゆえ」と歌われていた。

 新聞記事の中にあった「石綿は体を壊したが、石綿があったから子供を学校へ通わせられた」と被害者の家族の言葉が胸に刺さった。誰もが危険性を何も知らずに一生懸命に石綿を使って仕事をし、それによって生活してきたのに、その結果がこの石綿によって肺を患い命をなくすことになったのである。人が生きることの悲しさを感じないではおれなかった。

 藤祭りの方は人が溢れ賑やかだったのに対し、石綿の犠牲者の追悼碑に方は誰一人見向きをする人もなく忘れ去られたようであったが、藤を育てた梶本さんは近所の石綿被害者をどのように見ておられたのであろうかとふと考えた。

 最後の私の一句を捧げておきたい。

     藤祭り隣にひっそり石綿