泉南の藤祭りと石綿碑

 

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 新聞に泉南の藤まつりのことが載っていた。何年か前に、この地の老人が自宅で藤を

鉢植えの時から丹精込めて育て、立派な藤棚が出来、近隣で有名になり、他所からの見物客まで来るようになったという話を聞いていたので、どのようなものなのか確かめたくなり、数日前に見に行ってきた。

 JR阪和線和泉砂川駅から約10分ぐらいの熊野街道に面した梶本さんという旧家で、育てたご本人はすでに亡くなられているが、あまり立派なので地元の人達が引き継ぎ、梶本さんに代わって世話をしているのだそうで、花が満開の頃には毎年藤祭りを行ない、地元の観光資源ともなっているのだそうである。

 木は幹が大人の脚ぐらいの太さのもの一本だけであるが、それが見事に枝分かれし、伸びに伸びて、幅3米、奥行き20米以上は悠にある藤棚を見たし、更にその隣の中庭をも取り囲まんばかりの伸びようで、今が丁度花盛り。棚から房になってたわわにぶら下がった無数の藤の花がなかなか見事なもので、大勢の観光客で賑わっていた。

  地元の人の努力で、パンフレットや幟、提灯まで用意されており、出店もしつらえてあり、工事場のような簡素な作りではあるが、小さな展望台まで拵えてあり、滅多に見れないであろう満開の藤棚を上からも眺められるような工夫も施されていた。

 毎年2〜3万人ものの見物客が訪れるのだそうである。十時の開場すぐに行ったのだが、駅からそこまでの道は見物客が途切れることのない状況で、結構賑わっていた。昔から藤棚には蜂がつきものだが、幸い蜂に悩まされることもなく、写真も取り、十分楽しむことができた。

 そこでもう帰ろうとして外へ出て、駅へ引き返すために道の反対側へ渡り、少し進んだ所が空き地のようになっていたが、そこで思わぬものを発見した。思ってもいなかったのでびっくりしたが、そこに石綿肺(アスベスト肺)の犠牲者を記念した追悼碑が立っていた。

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 こちらには誰一人訪れる人もなくひっそりとしており、たまたま目に止まったから分かったようなものの、もう少しで全く知らないで通り過ぎるところであった。

 出会うまで全く気がつかなかったが、ここは泉南なのである。戦中、戦後からこの辺りには石綿を扱う零細企業が沢山あり、石綿による健康被害が少なくとも昭和30年代から知られていた。堺の国立療養所の医師たちが石綿被害による肺疾患の死亡者の解剖所見などを調べ因果関係を明らかにしていたことを覚えている。

 石綿の線維の吸入により、肺がんや肺線維症、中皮腫などが起こり、被害者は呼吸困難などを起こして亡くなったが、発症まで20年、30年という長い時間がかかるので、因果関係が明らかになっても、その防止策はなかなか講じられなかったのである。

 直接作業に携わった人だけでなく、作業員の奥さんや近所に住む人までもが被害にあったもので、そのことはずっと後で久保田の工場周辺の住民のアスベスト被害によっても裏付けられたように恐ろしいものである。

 しかし、原料が安価で耐熱効果が強いものなので、建築素材などとしてかなり広範に用いられて来たこともあり、因果関係が明らかになった後も、政府としての規制も進まず、被害者が多くなって裁判沙汰にもなり、遅れに遅れて21世紀になってようやく出荷停止などの措置が取られるようになり、その間にも犠牲者が増えるという悲しい歴史があったのである

 それを記念するべく、裁判の結果得られた補償金の一部を出し合ってこの追悼碑を建てたようである。碑の横にはそれについての新聞記事が取り出せるようになった仕掛けがあり、それには追悼歌が書かれていた。「新緑を吸い込みいや増す悲しみぞ息ほしき人のあるを知るゆえ」と歌われていた。

 新聞記事の中にあった「石綿は体を壊したが、石綿があったから子供を学校へ通わせられた」と被害者の家族の言葉が胸に刺さった。誰もが危険性を何も知らずに一生懸命に石綿を使って仕事をし、それによって生活してきたのに、その結果がこの石綿によって肺を患い命をなくすことになったのである。人が生きることの悲しさを感じないではおれなかった。

 藤祭りの方は人が溢れ賑やかだったのに対し、石綿の犠牲者の追悼碑に方は誰一人見向きをする人もなく忘れ去られたようであったが、藤を育てた梶本さんは近所の石綿被害者をどのように見ておられたのであろうかとふと考えた。

 最後の私の一句を捧げておきたい。

     藤祭り隣にひっそり石綿